平らな深み、緩やかな時間

135.『彼方の自然から』千崎千恵夫と『空間の詩学』バシュラール

千崎千恵夫(1953 - )の『彼方の自然から』という作品集が、「gallery21yo-j」から発行されています。
http://gallery21yo-j.com/
私は残念ながら千崎千恵夫のよい鑑賞者と言えるほどその作品を見ていませんが、この作品集を見ると彼の作品の変遷がかなり具体的に把握できます。また、彼自身の書いた充実したテキストや兵庫県立美術館の出原均(1958 - )の論考を読むことが出来ます。私よりも少し上の世代の現代美術トップランナーである千崎の作品を、この機会に見ておきたい方にはおススメの本です。

その千崎の作品を私が初めて見たのは、1984年の「スタジオ4Fルーフ」の箱型の作品でした。まだ私は学生でしたので、上京の折にはよく画廊を廻っていました。その千崎の作品は、朽ちた木材で作られた箱の中にガラスの板が張られていて、そのガラスを透かして箱の底が見えている、というものでした。木材やガラスといったモチーフは、千崎より先行する世代である「もの派」と言われた作家たちが好んで用いた素材でもありました。しかし、ちょっと説明しにくいのですが、千崎の作品は明らかに彼らの作品とは違っていました。千崎の作品から感じられるのは、「もの派」よりももっと内省的なもので、ガラスの板から透けて見えるものは箱の底であると同時にもっと広いもの、何か未知の世界への入り口を覗き見る、のぞき窓のような感じがしたのです。私はその作品の奥に、何かを確かに見ているのに、その何かが言葉にできない、そういうもどかしさと魅力が、その作品にはあったのです。
それ以降、千崎の木の枝を用いた作品、銅板を用いた作品などを見る機会がありましたが、作品のスタイルは違っても、いつも似たような感触を持ちました。そして歳を重ねてみても、相変わらずそれが何なのかをはっきりと言葉にできませんでした。正直に書くと、この作品集の彼自身のテキストと、出原均の論考を読んでも、それが何なのかつかみきれなかったのです。それらのテキストは、知的な豊かさと率直さにあふれていて優れた文章だと思うのですが、どうも私の感受しているものの近辺をかすめているようで、中心には届かないような気がしたのです。
そうこうして考えあぐねていた時に、ふとしたことからバシュラール(Gaston Bachelard, 1884 - 1962)の本を読み返すことを思い立ちました。少し前のこのblogにも、バシュラールの書いたモネ(Claude Monet, 1840 - 1926)に関するテキストの感想を書きました。そのうちにバシュラールの著作が、千崎の作品を読み解くカギになるのではないか、と思ったのです。

千崎自身は、『彼方の自然から』のなかで世界の思想史と自らの作品との関連について、壮大なテキストを書いています。しかし、なぜ彼の作品がそのような広い世界と繋がり得るのか、そのことを解き明かすのには、もう少しカギとなるような言葉が必要だと思いました。それを私は、バシュラールの著作を読むことで、彼の作品が持っているイメージの力なのではないか、と気が付いたのです。彼の作品を具体的に辿る前に、そのことについてだけ少し説明をしておきましょう。
例えば、千崎が1990年頃にさかんに用いた木の枝という素材について考えてみましょう。千崎自身は木の枝を用いることについてこのように書いています。

樹の枝を使い、人工物と組み合わせた作品では、体験できる場として、よりシンプルに構成することで、テーマを明確に提示する可能性を持つものとしました。ここでは枝は平面的な積み上げ、網目状の面を作り、手前から向こう側を透かして見ることで、奥の空間があいまいになり、鑑賞者の想像力に働きかけることを狙っています。あたかも森の木々の向こうに、何か怪しい生き物の息吹が感じられるように。組み合わされた硬い無機質な人工物とはまさに対照的に、積み上げられた枝の表面の奥に、体験することによって感じられる時間の流れと、自然のエネルギーが現れることを目指したものです。
枝を使って樹や森に思いを巡らすことは、場を設定したり、立体的に作り上げたりしていく際、”時”というものがどのような意味をもつのかということも考えさせてくれます。一本の巨木は、それが何千年もの間生き続け、たとえ死しても尚、土に還っては別の形で生き続けるように、時間を区切りのあるものとしてではなく、連続的で多元的なものとして理解させてくれます。日本の四季の変化は、その変化ゆえに”わび”や”さび”という独自の美学へと進展しました。絵画に思いを馳せるなら、例えば絵巻物が示す空間の連続性は、余白によって次の場面へと引き継がれ、逆遠近法によって描かれた奥行きは、紙の外を想像させ、終わりがないかのようです。その終わりのない連続性を、我々は逆手にとって、”はかなさ”の美学へと変えるのです。終わりがあるとするならば、それは目の前にある、紙の即物的な有限性にあるということでしょう。その無限と有限の中に、諦念の観念を感じるのです。
(『彼方の自然から』「05 “はかなさ”の美学」千崎千恵夫)

解説として十分であり、また作家としての率直さがあって参考になる文章です。
しかし、彼自身が書いているように、「あたかも森の木々の向こうに、何か怪しい生き物の息吹が感じられる」ような作品を制作するには、枝のかたまりをそのように感じさせるための何かが必要です。その何かというのは、千崎の作品を見る者の想像力であり、その想像力によって「何か怪しい生き物の息吹」をイメージするということが、どうしても必要なのです。
そして私は、千崎の作品をよりよく理解するためには、そのイメージの内容についてもっと語るべきだと考えました。なぜなら、彼の作品が表出しているイメージは、たんなる個人の「想像力」によるイメージではなく、もっと根源的な、あるいはもっと必然的な内面の力が働いて出来てくるようなイメージだと考えたからです。もちろん、彼の作品から鑑賞者がそれぞれの自由な想像をしてもいいのですが、千崎の作品の場合にはそれがある一定の方向を指すような、うまく言えないのですがそれらがある種の必然性を持っているような、そんなことを感じたのです。そして、実はこのイメージの根源性、必然性こそが、千崎の作品のシンプルな構造の向こう側を見るための、つまり彼の作品が根源的な世界へとつながっていることを理解するためのカギとなるのではないか、と思い当たったのです。
ところが、イメージを言葉にすることに関して、私はまったく得意ではありません。それにここで言うところのイメージは、誰もが勝手に想像を膨らませるようなものではありませんから、その根源性や必然性に迫るような解釈ができなければなりません。そこで導きの糸となるものが、バシュラールの思想なのではないか、と思ったのです。
今回は、そのバシュラールの『空間の詩学』という著作を用いて、千崎の作品を読み解くことを試みます。まず、基本的なことをおさえておきましょう。かつては科学哲学者であったバシュラールは、この本の「序論」において、「イメージ」について次のように書いています。

なぜわたくしがまえと視点をかえて、こんどは、イメージを現象学的に規定しようとするのかとたずねるひともあろう。想像力をあつかった以前の著作においては、実際、物質の四元素、直観的宇宙発生論の四原理については、できるかぎり客観的な立場をとることがのぞましいと、わたくしはかんがえてきた。わたくしは科学哲学者としての習慣を忠実にまもり、個人的な解釈をいれたい誘惑をことごとくしりぞけて、イメージをみつめようとつとめてきた。この方法にはたしかに科学的な慎重さがあるが、しだいにわたくしには、想像力の形而上学を基礎づけるには不十分にみえてきた。「慎重さ」から脱出することがいかに困難か、わたくしは測定してきた。知性にたよる習慣をすてさろう、こう宣言することはやさしいが、いかにして実現すべきなのか。これは合理主義にとっては毎日おこる小さなドラマであり、一種の思考の分裂をまねく。そしてこれは―単純なイメージ―がいかに部分的なものであれ、深いたましいの反響をもつのである。しかしこの教養の小さなドラマ、新しいイメージの単純な水位でおこるこのドラマには想像力の現象学の逆説がのこらずふくまれている。すなわち、ときにはきわめて特異なイメージがなぜ霊魂全体の一つの集中として出現することが可能なのか。ある特異な詩的イメージの出現という特異な束のまの事件が、逆に―なんの準備もないのに―他のたましい、他のこころになぜ作用することができるのか。しかも常識という障壁や自己の不動をよろこぶ聡明な思想がありながら、なぜ可能なのか。
(『空間の詩学』「序論」バシュラール著 岩村行雄訳)

ここで語られているのは、イメージが個人的なものなのか、それとも客観的で普遍的なもの、つまり他者と共有可能なものなのか、という難しい問題です。科学的に、つまり客観的に共有できるイメージだけを語ろうとすると、そこにはなにか不十分なものが残ってしまいます。しかしその一方で、ただ個人的なイメージにすぎないものだと考えてしまえば、そのことについて語り合うことが不可能になってしまいます。実際には「ある特異なイメージ」が「霊魂全体の一つの集中として出現する」ことがあるのだから、そのことについて語り合うことは可能なのだとバシュラールは言いますが、それではいかにして語り合ったらよいのでしょうか。
バシュラールはこの後の部分で、イメージを語るにはまずそれを記述する方法として、現象学的な方法があるだろう、と言っています。しかし現象学によって記述されたイメージは、それが詩的なイメージとして昇華していくさまをとらえることが出来ません。そこで精神分析学の研究が役に立つのだ、と彼は書いています。
スイスの精神分析学者、ユング(Carl Gustav Jung、1875 - 1961)は、人間のたましいの深層を研究するにあたり、ある建物を比喩として用いました。バシュラールはそのことから、家、宇宙、巣、貝殻、片隅などといった具体的な空間からイメージを考察する『空間の詩学』を書き著したのです。この『空間の詩学』では、「空間」がイメージを探究する比喩として用いられています。このことは、私たちにとってとても都合のよいことです。なぜなら、これから考察する千崎の作品は、まさに「空間」を扱ったものだからです。私たちは、バシュラールが比喩として用いた「空間」を手がかりに、千崎の作品について考えていくことにしましょう。そして千崎の作品から私たちが言葉にできていないものについて、少しでも言語化できればこのテキストを書いた意義があったというものです。

さて、ここでまた「スタジオ4Fルーフ」の箱型の作品に戻ってみましょう。
先ほども書いたように、木の箱の中にガラスの板が張ってある作品です。そのガラスの板から透けて見えるものは、古い木材で作られた箱の底です。この作品は「スタジオ4Fルーフ」、つまり古いビルの屋上スペースに置かれていました(と記憶しています)。つまり、この作品から見ることが出来るのは屋上から見下ろす下界です。それを比喩的な言葉で言うのなら、あたかもガラスの板を透かして海の底の世界を見ているような感じがするのです。この「屋上」と「箱の底」という上下の関係、この関係をバシュラールが次に言うところの、「鉛直性」という言葉と重ねて考えてみてください。

鉛直性は地下室と屋根裏部屋という極性によって裏づけられる。この極性のしるしはたいへん深くおよんでいるため、想像力の現象学にたいしていわばひどくことなった二方向をひらいてみせる。事実ほとんど註釈をつけなくとも屋根の合理性と地下室の非合理性を対比することができよう。屋根はただちに自分の存在理由をかたる。それは雨や太陽をこわがる人間をまもるのだ。どんな国でも屋根の勾配が風土の一番確かなしるしの一つだということを、地理学者たちはたえずわれわれにおもいださせる。われわれは屋根の傾斜を「理解する」。夢想家でさえも理性的に夢みる。かれにとっては、尖った屋根は厚い雲を切断する。屋根のあたりでは、思考はみな明快だ。屋根裏部屋では、むきだしの力強い骨組をみてたのしむ。われわれは大工の堅固な幾何学にあずかるのだ。
地下室に関しては、われわれはおそらくこれを有用なものとかんがえることだろう。その便利さをかぞえあげて、合理化することであろう。しかしこれはまず家の暗い存在であり、地下の力をわけもつ存在なのだ。これを夢みることによって、われわれは深部の非合理性と接触する。
居住することを建築することの想像力の写しとして把握すれば、この家の鉛直の両極性を感じとることができよう。夢想家は、上の階と屋根裏部屋を「建築し」、一度しあげたものをまた建築しなおすのである。すでにのべたように、明るい高所で夢みるとき、われわれは知的な計画の理性圏にいるのだ。しかし地下室についていえば、情熱的な住人がくりかえしくりかえし地下室をほりおこし、その深部を活動させる。事実ではまだたりない。夢想がはたらく。夢が大地のなかへもぐりこむと、夢は果てしなくひろがる。のちに超=地下室の夢想の例をあげることにしよう。まずさしあたってわれわれは地下室と屋根裏部屋によって対極化された空間にとどまり、いかにこの対極空間がもっとも繊細な心理的陰翳を説明するのに役立つかをみることにしよう。
(『空間の詩学』「第一章 地下室から屋根裏部屋まで 小屋の意味」バシュラール著 岩村行雄訳)

ここで私たちが注目するのは「屋根」の方ではなくて、「地下室」のイメージ、「深部の非合理性」とバシュラールが言っているものの方です。しかしこの「深部の非合理性」は「明るい高所」から覗き見ることで生じてくるのです。そこでこのイメージを表現するためには「地下室と屋根裏部屋によって対極化された空間」が必要になります。その「対極化された空間」の構造が、千崎の箱の作品の、「箱の上部」からガラス越しに「箱の底」をのぞき込む構造と一致するのです。箱という限られた空間において「対極化された空間」を実現するためには、上部の空間と底の空間とを分断しなければなりません。「屋根」と「地下室」を分け隔てるもの、それが透明なガラス板です。透明であることによって、その分断された構造を可視化することができます。そして私たちは、可視化された「箱の底」を見ることで、自らの想像力が触発されるのです。
この「鉛直」の構造から想像されるイメージについて、バシュラールは詩人、小説家、思想家などを例に取りながら、さまざまに語っていきます。その教養の深さ、広さには、とてもついていけるものではありませんが、私たちにとっては比較的なじみ深い、さきほどのカール・グスタフ・ユングとアメリカの小説家、詩人、評論家、というよりも『黒猫』や『モルグ街の殺人事件』のミステリー小説で知られるエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809 - 1849)について書かれた部分を引用してみます。

もしユングの説明例(『たましいをさぐる人間』における「用心深い男」の例)が与える暗示をたどって心理的実体の完全な把握にまで到達するならば、われわれは精神分析学と現象学の協力をみることになる。もしわれわれが人間的現象を支配しようとするならば、つねにこの協力を強調しなければならないだろう。事実、イメージに精神分析的効力をあたえるには、これを現象学的に理解しなければならない。ここでは現象学者は共感に身震いしながら精神分析学者のイメージをうけいれることであろう。かれは恐怖の原始性と特殊性をよみがえらせることであろう。われわれの文明はいたるところに同じ光をもちこみ、地下室にも電気をもちこんでいるが、この文明の時代にはわれわれはもう燭台を手にして地下室におりてゆくことはない。しかし無意識は開化されない。穴倉へおりてゆくために、無意識は燭台をとる。精神分析学者は暗喩や比喩の表面にとどまることができないし、現象学者はイメージを極限まで追究しなければならない。きりさげ、説明し、比較したりなぞしないで、ここでは現象学者は誇張をさらに誇張することであろう。するとエドガー・アラン・ポーの物語をよみ、現象学者と精神分析学者はたがいに一つにむすばれてその物語の完成の価値を理解することになろう。これらの物語は子供の恐怖の完成なのである。読書に「没入した」読者は、浄化されない罪のしるし、呪われた猫が壁のうしろでなくのをきくだろう。地下室の夢想家は、地下室の壁は土中にうずもれた壁であり、うしろには大地全体がひかえた、片面の壁であるということをしっている。そしてドラマはますますたかまり、恐怖は誇張される。だが誇張しない恐怖とはいったいなんであろうか。
(『空間の詩学』「第一章 地下室から屋根裏部屋まで 小屋の意味」バシュラール著 岩村行雄訳)

千崎の作品は、ポーの物語のようではありませんし、そのような恐怖を駆り立てるものでもありません。そのような具体的な説明などは、彼の作品にはいっさいないのです。しかし古びたビルの屋上から朽ちた木の「箱の底」をのぞき込む体験は、どこかで自分の無意識の底をのぞき込むような気配がして、それぞれの鑑賞者がそれぞれのイメージをそこに反映してしまうことでしょう。しかし、それでもなおかつ、そこに共通する根源的なイメージを見出すことができないでしょうか。例えば、暗い下方へと下っていくような、もう少し具体的に言うと、火をともした燭台を持って地下世界へと降りていくような、そんなイメージです。そこには具体的な恐怖はなくても、ちょっと薄暗い感じがすることでしょう。小説家はそのイメージを誇張して、犯罪事件の恐怖にまで育て上げますが、そのイメージの具体的な内容は各個人にそなわったものです。私たちはそこに共通する感触、共通する何かを確認できれば十分なのですが、みなさんはどう考えますが?
ここで少し、現代美術の当時の状況にも目を向けながら、千崎の作品について考えてみましょう。千崎の作品は、彼に先行する世代の「もの」を素材とした作品たち、それらは主にインスタレーション形式の作品たちで、例えば「もの派」であったり、ミニマル・アートであったり、といった作品がそれにあたるのですが、彼らの作品とは似て非なるものです。というのは、先行する世代の作家の作品が現象学であったり、フォーマリズム批評であったり、という客観化された世界の思想を根拠とし、それを視覚化しようとしたのとは異なり、千崎の作品は客観化された世界を突き破り、もっと人間にとって根源的な世界へと連れていきます。シュルレアリスムのように、無意識の世界をただ顕在化するのではなく、現在までの哲学や思想を含んだうえで、なおかつそれを突き破ろうとしているところに千崎の個性があり、その作品をユニークなものにしているのです。その点で、科学の世界を極めた上で詩学へと踏みこんでいったバシュラールと、思想的にも相似しているのかもしれません。
すこし結論を急ぎ過ぎました。結論を急がず、千崎の具体的な作品をもう少し見ていきましょう。先ほども触れた千崎の木の枝を集めた作品について、出原均は次のように書いています。

私が美術館の学芸員として現代美術の世界に入ったのが1980年代の後半。そのころ千崎はすでに作家として10年近いキャリアを積んでいた。私が目にし始めた彼の作品は、ギャラリーでの個展のインスタレーションと野外での大規模なインスタレーションだった。とりわけ後者には目を見張った。1990年、水戸芸術館のオープニング展に参加した千崎は公園内で巨大なシャベルカーを向かい合わせに置き、そのあいだに無数の枝を渦巻きのように編み込んだのである。仕掛けの大きさ、自然対人為の主題の明快さなど、海外でのレジデンスの経験を踏まえた、スケールの大きいインスタレーションという印象を受けた。しかも、その規模にもかかわらず、造作には繊細さが窺えた。枝の塊は機会に囲まれながらも、それを打ち破るようにうねり、枝と機械はまるで拮抗しているかのようだった。もうひとつ、1988年の岩国での野外展で発表されたインスタレーションは、私自身は見ること叶わなかったが、知人の同展関係者から詳しい話を聞くことができた。千崎は河川敷に廃バスを半ば埋め込み、上から枝の山で覆い、バスの中にはその川の映像を仕込んで、それを外から見せていた。映像(自然)、バス(人為)、枝と土(自然)が入れ子になったインスタレーションである。
(『彼方の自然から』「千の枝、千の光」出原均)

出原が描写しているように、ここで語られている千崎の作品は木の枝を集め、ゆるやかな渦を巻くように束ねたものです。それは大きな鳥の巣のような、自然界の生命力を象徴しているような作品だとも言えるでしょう。それゆえに、シャベルカーと木の枝の対比は、「自然対人為」というふうに読めるのです。
しかし、自然なものと人為的なものを対比させた作品は、実はこの頃でさえ、すでにありふれたものでした。それは千崎の作品の大きな構造を表してはいますが、それだけならば、千崎の作品の魅力を語ったことになりません。そこで出原は、千崎の作品のスケールの大きさと繊細さについて指摘しているのです。そして、それはまさに自然の鳥の巣の特徴と共通するものです。バシュラールの『空間の詩学』には、木の枝に関する章はないのですが、鳥の巣に関する章ならばあります。おそらくは千崎が木の枝に託した思いと、バシュラールの鳥の巣の分析はそれほど違っていないと思うので、次に引用してみます。

いっそう深く巣の夢に没入すると、たちまちわれわれは一種のパラドックスに遭遇する。巣は―われわれはこの事実をただちに理解するが―不安定であるが、しかし巣はわれわれのこころのなかに安全の夢想をよびおこす。この明白な不安定がなぜこのような夢想を阻止しないのか。このパラドックスにたいする答えは簡単だ。すなわちわれわれはそれと自覚しないが、現象学者として夢みているのである。ある種の素朴な態度で、鳥の本能を追体験するのだ。われわれは、緑の葉むらのなかにある緑色の巣の擬態を強調してたのしむ。われわれはたしかに巣をみたのだが、その巣はちゃんとかくされていたという。この動物の生の中心は尨大な植物の生のなかにつつみかくされている。巣はうたう木の葉の花束だ。それは植物の平和にあずかる。大きな木々の幸福な世界の一点である。
詩人はかく。

ぼくは巣をゆめみた 巣のなかで木々は死をしりぞけた

巣を参考にするならば、われわれは世界にたいする信頼の根源に達し、信頼の糸口をつかみ、宇宙にたいする信頼への招きをうける。世界にたいして本能的に信頼をいだいてなかったならば、鳥は巣をつくったであろうか。もしわれわれがこの招きをききとり、この巣という不安定な隠れ家を―たしかに逆説的ではあるが、想像力の純粋な飛躍によって―絶対的な避難場所とするならば、われわれは夢のなかで、最初の住まいの安全を感じとるならば、われわれは生来の信頼を寄せてその家に住むことになろう。われわれの眠りのなかに深くきざまれたこの信頼を体験するためには、信頼の物質的な根拠をかぞえあげる必要はない。巣も夢の家も、また夢の家も巣もーもしわれわれが真に夢の根源に達すればー世界の敵意をなんらしらない。人間にとって、生は熟睡にはじまり、そして巣の卵はみな温かにしっかりとだかれている。
(『空間の詩学』「第四章 巣」バシュラール著 岩村行雄訳)

この章で印象的な詩の一部分、「ぼくは巣をゆめみた 巣のなかで木々は死をしりぞけた」ですが、註を見ると次にように書いてあります。

アドルフ・シュドロー「望みなき揺籃」セゲルス版。313ページ。シュドローはまたつぎのようにかく。
ぼくはもはや年がねむらぬ巣を夢みた
(『空間の詩学』註p302 岩村行雄)

アドルフ・シュドローという人のことを、私は恥ずかしながらまったくわかりませんが、名前からするとドイツ系の詩人でしょうか、知っている方がいたら教えてください。(バシュラールの本は、こんなふうに知らない人の名前、作品がどんどん出てきます。)
それはともかくとして、引用部分の「巣のなかで木々は死をしりぞけた」という言葉が、とても印象的です。樹木から切り取られた枝は、すでに生命から切り離された存在であるはずなのに、それが鳥の巣になることによって「死をしりぞけ」るほどに生命力が満ちたものとなります。千崎が1990年頃に制作した作品群の木の枝は、どこかで自然の生命力の象徴のような印象をあたえます。それが先にも指摘したように、「もの派」の木の扱い方とまったく異なる点ですが、例えば出原が取り上げた水戸芸術館の作品は、「無数の枝を渦巻きのように編み込んだ」と出原が的確に描写しているように、まるで巨大な鳥の巣のように緩やかな渦を描いています。一見、バラバラなように見えながら、その編み込み具合が繊細さを感じさせるという点でも、実際の鳥の巣と共通するところがあると思います。
そして興味深い点は、千崎は「これが鳥の巣だ」というような説明的な表現を一切していないところです。私たちは、それが鳥の巣のように見える、ということすら気づかずに、その無作為な渦巻きの繊細さから、鳥の巣と共通する生命力を感じるのです。そしてその生命力を感受するからこそ、私たちは人為の象徴であるシャベルカーとの対比を強く感じ、その作品から「自然対人為の主題」を感じとることになるのです。
ここで出原が取り上げた1990年と1988年の作品に限らず、木と渦巻き、あるいは円環的な形の表現は、他のインスタレーション作品や平面作品にも繰り返しあらわれてきます。木と、円環という形状には、それぞれ自然の生命力を触発させるものがあるのでしょうか?バシュラールは「第10章 円の現象学」でライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875 - 1926)の詩を取り上げて、次のように書いています。

ときにわれわれの最初の夢をみちびき、そっとかくす形態が実際に存在する。ある画家にとっては、木は円で構成される。しかし詩人はもっと高い次元でこの夢をふたたびとりあげる。詩人は、孤立したものはまるくなり、自己に集中する存在の姿をとることをしっている。リルケの『フランス語詩集』においては、このようにいき、自己を主張するのは、くるみの木である。ここでも世界のまんなかの一本の木を中心にして、宇宙詩の規則にしたがって、空の円屋根がまるくなる。169ページにつぎの詩がよめる。

いつも自分をとりまくものの
中心にある樹木
空の宏大な穹窿を
あじわう樹木

もちろん詩人の目にあるものは平原の一本の樹木にほかならない。天と地を一つにあわせて、全宇宙をわがものとしようとした伝説のとねりこの木を詩人は夢みていない。しかし円の存在についての想像力はその法則にしたがう。詩人のいうように、くるみの木は「ほこらしげにまるく」なっているから、その木は「空の宏大な穹窿」をあじわうことができるのだ。世界は円の存在をとりかこんでまるくなっている。そして詩は行をおうにつれて、その存在を拡大し、たかめてゆく。樹木はいき、思考し、神にむかって手をさしのべる。

いつの日か かれに神がすがたをあらわすことであろう
そしてたしかに
かれはその存在をまるく完成し
成熟した両腕を神にむかってさしのべる

おそらくは
内部で思考する樹木
みずからを支配し
風の気まぐれな危険を
のがれるかたちを
ゆっくりみずからにあたえる樹木!

円のなかに定着し、同時にそのなかで発展する存在の現象学にとって、これほどみごとな資料をまたとみいだせようか。リルケの木は、緑の球となって、形状の偶然や可動性のきまぐれな事件にたいしてかちえられた円を伝播する。ここで生成は無数の形状、無数の葉をもつが、存在はいかなる拡散をもこうむらない。もしわたくしが存在の一切のイメージ、すなわち多様な変化するイメージであるが、それにもかかわらずまた存在の恒常性をうつしだす一切のイメージを、宏大な統一イメージとしてまとめあげられたならば、リルケの木はわたくしの具象形而上学のアルバムの大きな一章の冒頭をかざることになろう。
(『空間の詩学』「第十章 円の現象学」バシュラール著 岩村行雄訳)

円や渦巻きの形状は、「風の気まぐれな危険を のがれるかたち」である、とリルケが言っているところが、興味深いです。自然の中で出来る形は、どこかでその根源的な理由があり、私たちも自分の内面のどこかで自然と結びついているがゆえに、その形に根源性、必然性を感受してしまうのかもしれません。円や渦巻きの形に自然の生命力を感じとるということが、私たちの心の深層にいまも息づいているわずかな自然性の痕跡なのだ、と言っては言い過ぎでしょうか。千崎の作品を見ると、何とかしてその自然性を形にしたい、という欲求を感じます。
そしてここでもまた、現代美術の当時の状況に目を向けながら、千崎の作品について考えてみましょう。
出原は先ほど引用した部分の後で、「もの派」以降の日本の現代美術の流れについて、「いずれにせよ、千崎たち次世代の作家がその遺産をどのように継承し、どの方向に進めるのかは、当時の現代美術の関係者の関心のひとつであり、私もその視点を共有するようになっていた」と書いています。確かに、千崎の作品は「その遺産を継承」するものであると見なすことが可能ですし、作家自身もそのことについてまじめに考えてきたのだろうと思います。
しかし千崎の作品からは、そうした現代美術の文脈とは別に、もっと大きな人間としてなすべきことの必然性、人類の思想全般にわたる課題とそれに対する解答、といった視点を感じます。というのは、例えば私がこの『彼方の自然から』という作品集を手にして、もっとも驚いたことは作家本人による「世界の思想」を視野に入れた壮大なテキストです。どうして一美術家である千崎が、ここまで「世界の思想」の流れをたどり、記述しなければならなかったのか、とはじめはいぶかしく思いました。しかし彼の作品を辿るうちに、それが彼にとって必要であったことがよくわかります。彼の作品には、人間の内面に関わる大きな課題があり、その答えを言葉で語ろうとすれば、壮大な思想史として語るほかなかったのでしょう。
そう考えると、美術作品というものは、すばらしい表現力を持っているものです。作家自身がこれほどの言葉を費やして語ろうとしたことが、彼の作品には内包されているのです。そして私たちは、作家が懸命に表現したものを、鑑賞行為という短い時間のなかで、それこそ五感を通じて感受できるのです。そのことの素晴らしさを、あらためて『彼方の自然から』という作品集を見ながら実感します。
さて、最後になりますが、最近の千崎の作品に目を移しましょう。木の合板で作られた外形の中に、のぞき込むように穿たれた切れ目のような形があり、その内側にピカピカの銅板を張り込んだ作品群です。私たちは千崎の作品の前に立ち、その大きな切れ目の暗がりをのぞき込むはずが、実際には光を乱反射する銅板に視線をはね返されて、思わず意表を突かれることになります。
これらの近作について、出原はこう書いています。

彼の活動を過去から辿ってきたいま、近作の、光が乱反射する空洞をどのように捉えたらよいのだろうか。
千崎は作家として活動する最初期から自然と人為の関係を扱ってきた。1990年代に主に自然をワックス面の奥や中に反転させて収め、それに対するアプローチの仕方に重点を置いた。しかし、自然をより大きく捉えるなら、それは外だけでなく内にもあると考えることができる。2000年以降、彼が人間の中の自然を扱うようになるのはこの視点をとったからだろう。そうすると、1990年代のボックスの中の自然は必ずしも反転していなかったと解釈することも可能である。千崎によると、近年の空洞の作品は「原子が持つ力、光とエネルギー」を表そうとしたのだという。したがって、自然と人間を区別する前の、両方に通底する世界に彼の眼差しが向かったのである。
(『彼方の自然から』「千の枝、千の光」出原均)

これもまた、千崎の作品の本質を突いた的確な分析であると思います。そしてバシュラールもまた、『空間の詩学』の「第九章 外部と内部の弁証法」において、外と内の問題について考察しています。一般的には、外部と内部は互いに相いれない、肯定と否定を象徴するもの、と考えられがちですが、本当にそうだろうか、とバシュラールはさまざまな例をあげて、またしても私たちを翻弄します。
例えば、外は光の当たる場所で、内部は暗い影の場所、という暗黙の了解が通常なら成立するのでしょうが、その暗いはずの内部に太陽が入ってきたらどうなるのか、という一見するとばかばかしいようなイメージを提示した詩人がいます。ダダイズムの創始者として知られるフランスの詩人、トリスタン・ツァラ(Tristan Tzara、1896 - 1963)です。ツァラの詩を取り上げて、バシュラールは次のように書いています。

(トリスタン・ツァラの詩『狼たちはどこでのむ』のなかの)別の一節は合理的な精神にとってはさらに謎めいているが、イメージの地形分析的な反転を感じとれるものにとっては、同じく明晰である。この一節においてトリスタン・ツァラは、

太陽の市場が部屋のなかへはいりこみ
部屋はざわめく頭のなかへはいった

とかく。
このイメージを受容し、イメージの声をきくには、ただひとりのひとがすわっている部屋にはいってくる太陽のこの奇妙なざわめきを体験しなければならない。なぜならば最初の光線が壁をたたくということは事実なのだから。この事実をこえて、太陽の光線の一つ一つが蜜蜂をはこんでくることをしっているものは、この音もききとることであろう。するとなにもかもがぶんぶんうなりだし、頭は巣箱、太陽の音の巣箱となる。
ツァラのイメージは一見してシュールレアリスムの色彩が異常に強かった。しかしさらにこの色彩を強め、さらにイメージの力を増大し、当然なことながら、批評、一切の批評の柵をのりこえれば、そのときわれわれはたしかに純粋なイメージの超現実的な活動領域にはいることになる。このイメージの極度の展開が、このように活発で、しかも伝達可能であることが明らかになるならば、これはその出発点が正しかったことをしめしている。すなわち陽当りのよい部屋は夢想家の頭のなかでぶんぶんうなっているのだ。
心理学者は、わたくしの分析は、大胆な、あまりにも大胆な「連想」を詳述するにすぎないというかもしれない。精神分析学者はおそらくこの大胆さを「分析する」ことに同意するかもしれない―分析になれているから。両者ともイメージを「徴候」としてとりあげるばあいには、そのイメージの原因根拠を発見しようと努力することであろう。現象学者がこれとちがった物の見方をする。もっと厳密にいえば、現象学者は、詩人が創造したありのままのすがたでイメージをみ、そしてこのイメージをわがものとし、この稀な果実をわが糧としようとつとめ、創造可能の極限にまでイメージをひろげる。かれ自身はけっして詩人ではないが、みずから創作行為を反復し、もし可能ならば、誇張をさらに延長しようとこころみる。そのときには連想は偶然にであって甘受するものなのではない。それはもとめられ、のぞまれたものなのである。それは詩的な、とくに詩的な構造である。それはひとが解放されたいとねがうあの有機体の重みや精神の重みから完全にまぬがれた昇華であり、要するに、序論においてわたくしが純粋昇華とよんだものに対応している。
(『空間の詩学』「第九章 外部と内部の弁証法」バシュラール著 岩村行雄訳)

ツァラの「太陽の市場」という言葉が、すでにダダイズムの特徴であるナンセンスな響きがしますが、それが部屋の内部に入るということはどんなことでしょうか。バシュラールは「太陽」から「蜜蜂」を連想したうえで「なにもかもがぶんぶんうなりだし、頭は巣箱、太陽の音の巣箱となる」と、ちょっと楽しくなるようにイメージを膨らませています。これを千崎の作品内部の「光が乱反射する空洞」の比喩として使ってみると、なかなか楽しいのではないでしょうか。
また同じ章の他の一節で、バシュラールは内部と外部という幾何学的な区別、その対立関係がイメージにおいてはそれほど自明のものではないことをリルケの小説を引用しながら解き明かしています。そのリルケの小説というのは、このblogでも以前に取り上げたことがある『マルテの手記』です。その部分も引いておきましょう。

内部と外部の弁証法が完全な力を獲得するのは、もっと狭隘な内密の空間における集中によることが多い。リルケのつぎの文章を考察すれば、この柔軟性を感じとることができよう(『マルテ・ラウリツ・ブリッケの手記』フランス訳p106)。「するとおまえの内部にはほとんど空間がなくなる。おまえのなかのこの狭くるしい場所に不可能なまでに巨大なものがとどまれるのだとかんがえると、この考えがおまえの不安をほとんどしずめてさえくれる」。狭隘が内密な空間の静けさのなかにあるとおもうと、ひとは慰めをおぼえる。リルケは内密に―内部の空間において―一切の存在の尺度にしたがう、狭隘を把握する。そしてつぎの文章では弁証法が体験される。「しかし外では、外では果てしなくひろがっている。その外で水位がたかまると、おまえのなかもみちてくる。いくぶんかおまえのおもいどおりになる脈管のなかとか、あるいはおまえのやや落ちついた器官の粘液のなかではない。それは毛細管のなかでみちてゆくのだ。おまえの無数に分岐した存在の枝の端はしにまで管状にすいあげられて。それは毛細管のなかでたかまり、おまえをこえてたかまり、おまえの最後の逃げ場として、おまえがのがれているおまえの呼吸よりさらに高くなる。ああ、このうえはどこへ、このうえはどこへのがれたらよいのか。おまえの心臓はおまえをおまえのなかからおいだし、おまえの心臓はおまえをおまえのなかからおいだし、おまえの心臓はおまえをおいかける。おまえはもうほとんどおまえのそとにたち、もはやもどれない。ふみつぶされた甲虫のように、おまえはおまえのからだからほとばしりでてしまい、おまえのとぼしい表面の硬さも適応力もなんの意味もないのだ。
おお、事物の存在しない夜よ。おお、外にひらく鈍い窓よ。おお、細心にしめきったドアよ。そのむかしからうけつがれ、確証され、しかもその意味をくまなく理解されたことのない設備よ。おお、階段にただよう静寂よ。隣室からもれる静寂よ。高い天井のあたりの静寂よ。おお、母よ、むかし子供のころにこの静寂をのこらずさまたげてくれたただひとりのひとよ。」
たしかにこの文章には動的な連続性があるので、わたくしはこのながい文章をそのまま引用した。内部と外部は幾何学的な対立関係にはない。あふれでるほどの分岐した内部のどこから存在の実体が流れ出るのか。外部がよんでいるのか。外部は記憶のかげのなかにうずもれた昔日の内密ではないのか。
(『空間の詩学』「第九章 外部と内部の弁証法」バシュラール著 岩村行雄訳)

以前にこのblogで『マルテの手記』について取り上げた時には、人間の死の尊厳が近代以降、都市部を中心に損なわれているのではないか、ということが書かれていることを確認しました。そしてここでも、内部の静寂さが濃密な意味を持ち、それが外部へと流れ出るのだと書かれています。電気による照明が物の輪郭をくまなく照らしてしまう現在では、外部と内部の分断はきわめて明確です。しかし「イメージ」の世界ではその境界があいまいであり、内部の静寂さがまるでエネルギーのように外部へとあふれ出るのです。そのエネルギーを比喩のなかで「光」として捉えることも、そしてその「光」のイメージを「太陽」や「蜜蜂(の喧騒)」として捉えることも可能だと思います。イメージの世界では、「静寂」=「蜜蜂(の喧騒)」という比喩もあり得ると思います。例えば、夏の暑い日に、草原で一人でいる時に蜜蜂の羽音だけがブンブンと聞こえてきたとしたらどうなるのでしょうか?蜜蜂の羽音が、夏の日の一人ぼっちの静寂さをより際立たせる、ということだってあり得るでしょう。
私は、かつて『マルテの手記』を読んだときに、これは古き良き時代をしのび、その価値を見出そうとしている小説ではないか、と思いました。しかし、バシュラールに導かれ、そして千崎の作品を見て、これは現在において価値を見出されるべき物語なのだと思い直しました。私の勝手な解釈ですが、千崎の銅板によって内部を張り込んだ作品ですが、これはネオン管や照明などの発光物を用いていないところが特徴なのだと思います。現代のテクノロジーによらなくても、もっと物質の原理的な性質に立ち返ることで、内部に光をもたらすことも可能なのです。これはバシュラールが「序論」で書いていた「物質の四元素、直観的宇宙発生論の四原理」というイメージとつながります。バシュラールの思想的な姿勢のなかには、「物質の四元素」に立ち戻って考えること、ものごとを原理的に考察するという科学哲学者であった頃の資質が感じられますが、千崎にも似たところがあるのだろうと思います。だからこそ、イメージの世界がたんなる回顧的なものにならずに、現代に繋がる原理的なものになり得ているのだと思います。バシュラールも千崎も、ものの根源を原理的に追究してく姿勢に、共通する方向性を感じます。

最後にまとめておきましょう。
たぶん、私たちはフォーマリズム批評などの現代美術の批評方法の影響によって、作品とイメージの関係について、ずいぶんと慎重に考えるようになりました。その一方で、千崎が活躍を始めた1980年代の頃から、表現主義的に直接、イメージを表現する作品も巷にあふれています。それらの作品は、直接的であるがゆえに、単純で貧相なイメージしか喚起しません。さらにはそこに、アニメーション作品に依存した、作品そのものでは自立し得ないものも幅を利かせています。それゆえに、イメージについて考察することには、さらに慎重にならざるを得ない現状がありました。
しかしここで見てきたように、例えばバシュラールの書物によって千崎の作品を読み解くことは、現在では見過ごされがちなイメージの意味の豊かさを見出すことになるのです。
以前にも書きましたが、私はバシュラールのよい読者ではなかったし、また千崎の作品をつぶさに見てきた鑑賞者でもありません。しかし、作品とイメージとの関連性があまりにも安易に扱われている今だからこそ、バシュラールを読み、千崎の作品を見て、その硬質で豊かなイメージの可能性について、学び直すべき時が来ているように思います。
幸運なことに、私の手元には千崎の『彼方の自然から』という素晴らしい作品集があります。一方、バシュラールの本は、正直に言って、もう少し揃えないといけません。バシュラールを読むのには時間がかかるので、少しずつ手を出していくことにしましょう。その学びは必修であるように思います。以前にこのblogでも紹介しましたが、若き日の浅田彰(1957 - )はモネとバシュラールの関係について次のように書きました。
「外部を持たぬ完全なイマージネールの王国。カオスに背を向けてエピクロスの園。そして、これほど社会から遠い場所はない。夢の世界の幸福を捨てて本論に戻ろう。」(『構造と力』)
しかしバシュラールも千崎も、安逸な楽園とは正反対の、イメージの力をぎりぎりのところで行使する厳しい場所にいます。それは確かに「社会から遠い場所」であるのかもしれませんが、むしろその場所は「社会を覚醒させる場所」なのではないか、と私は思います。私たちの目を覚まさせるために、千崎は世界の思想について語り、その知性と感性の全てを作品として結晶させてきたのです。『彼方の自然から』という作品集は、その価値ある記録でもあるのです。

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