平らな深み、緩やかな時間

19.『着陸と着水』 18年前のカタログから

『着陸と着水/舞踏空間から絵画場へ』というカタログがあります。
1995年の11月から12月にかけて、鎌倉にある神奈川県立近代美術館で開催された、中西夏之展のカタログです。池に面した本館の別棟に設置された作品の写真が、とりわけ印象的な冊子です。現在では、その別棟は耐震構造に問題があるらしく、展示に使われることもなくなりました。
もったいないなぁ、と思います。中西夏之展では、ガラス越しに見える池の水面と、ボールベアリングが置かれた作品の水平面が、同時に視野に入って来て、何とも言えない相乗効果を生み出していました。この建物の特異な設置の仕方が、これほど生かされた展覧会もなかったと思います。そういう「事件」も、もう起こる可能性がないわけです。

ところで、なぜいまさら20年近く前の展覧会のカタログを見ているのでしょうか。それについては、少々説明が必要です。
先月の現代アーチストセンター展を終えて、あらためて自分の絵について考える時間ができました。といっても、べつに暇になったわけではなくて、次の絵を描くためにはそういう時間が必要だ、というだけのことです。そして自分の絵について考えることが、絵画そのものについてラディカルに考えることとつながっていてほしい、と思うのです。しかし、どんなに力んでみても、いまの自分の能力や経験を越えて思考することは出来ません。これは私に限らず、多くの人がそうなのではないでしょうか。
たとえばある画家は若いころにアメリカ抽象表現主義の絵画に魅せられ、その延長線上で自分の絵画について考え、制作をしてきたとします。私はそういう画家に共感を持ちますが、その一方で抽象表現主義の画家たちがどんなにすばらしくても、彼らを前提に考え、仕事をするということは恣意的な選択に過ぎない、というふうにも思います。抽象表現主義だけでなく、ミニマル・アートの絵画であっても、キュヴィズムであっても、印象派であっても、それは同じことです。そのことが悪い、というのではないのですが、少なくとも自分の考え方の入り口が恣意的なものだ、ということを客観的に理解しておく必要があるでしょう。そして、そこからラディカルに絵画というものを掘り下げていくには、その理解に立った上で、さらに自分なりの道を切り開いていく必要があります。
ところが中西夏之(1935- )は、そういう画家たちとは異なった道をたどっているように見えます。多くの画家が、先行者の後姿を見ながら自分の道を探しているのに対し、彼は独自に絵画というものについて考えているのだと思います。いわば直接、原初的な絵画について思考しているのです。ですから、絵画についてあらためて考えようとするときに、彼の作品や文章を振り返ってみることは、私にとって自然なことです。
とくに、『着陸と着水』のインスタレーション形式の作品は、興味深いものがあります。その後、2003年に東京芸術大学美術館で開かれた『二箇所』という展覧会でも、似たような形式の作品が設置されましたが、やはりはじめて見た『着陸と着水』の印象は強烈でした。

さて、その『着陸と着水』という展覧会での作品、正確にはその作品のタイトルが「着陸と着水」というのですが、それがどんな作品なのか、書いておく必要があります。カタログの作品リストには、制作年や素材の記録のあとに、次のようなただし書きがあります。

西武劇場公演<踊り子フーピーと西武劇場のための15日間>における「静かな家 前・後編」の舞台を基本構造とする
(『着陸と着水』)

つまりこれは、舞踏の舞台として設定されたものを基本として、考えられた作品なのです。具体的な作品の様子については、その制作行程も含めて、美術館の企画担当だった原田光という人が、「展覧会後期」としてわかりやすく書いたものがあるので引用してみます。

 そのころ聞いたのだが、ひそかに中西さんはユニークなことをやりだしていた。パチンコ玉みたいなものをポケットに入れておいて、町へ行くとき、ところどころに玉をおいてはまわりを眺めるのだという。ははん、と僕は思った。いたるところが玉たちの「着陸と着水」の場所になる。水平状態の観測にはいったな。これはいける。
 ことの次第をはしょっていうと、こうして11月にはいり、棹ハカリやら鏡の三角形、大量のボールベアリング、白砂、黒砂が美術館に到着してきた。7メートルに6メートルほどの大きな床作り作業がはじまった。あくまでも水平にというお達しがとんだ。四隅に、天井から紐を垂らした。ベージュの薄布が床全面に敷きつめられた。舞踏の舞台なら、これで使用可能だろう。
 しかし、ここからが中西さんの作業なのだった。布のへりに釣りの重りをくっつけては垂らす。10センチ間隔に垂らす。ぐるり全部に重りがならぶ。平らな布に水平状態の緊張が生じる。今度は、そこにベアリングをおいてゆく。20センチ間隔におく。この単調な繰りかえしを、田植え仕事、と呼ぶことにしたが、もちろん、植えるのではなく、おくのである。揺れもひずみも許さない不安定な均衡の中で、一粒ずつの球たちがピリピリしている。並べおえると、球たち列のあいだへ、中西さんは侵入してゆく。片手にもった漏斗から白砂をこぼす。腰をかがめて位置を決め、こぼしながら立ちあがる。一筋の水のように、小さな球たちのあいだへ、白砂が落下する。一瞬間の垂直の出現である。実に慎重に移動して、足元を定め、また白砂をこぼす。念いりに、単調に、延々と、同じ行動をし、そのつど、垂直が現れて消える。同じ所作の繰りかえしだが、今、中西さんが全身の意識になって舞踏を演じていると見れば、そう見える。と同時に、舞踏の跡は水平面を絵画に仕立てる、と見ればそう見えて、中西さんが動くたび、神秘的といっていいような砂絵の輪郭が広がってゆく。最後に、布をまくりあげて砂絵の一部がこわされる。こうして、2日がかり平面作業が終わった。四隅に垂れた紐のはしに鏡の正三角形と棹ハカリがくくりつけられた。ここの四隅は、水平と垂直の微妙な接点観測の場所なのだ。
(『着陸と着水』)

この文章から読み取れるのは、水平、垂直という概念への並々ならぬこだわりです。もちろん、作品そのものからも、そのこだわりは伝わってきました。しかし、それが中西夏之の絵画作品とどうつながっているのか、作品を見た当時はよくわかりませんでした。
いまにして思えば、私は絵画という表現形式についてつきつめて考えたことがなかったし、水平や垂直という概念が重要なものだとも思っていませんでした。私にとって絵画が平面であることは自明なことだったし、それを壁にかけて飾ることもあたり前のことでした。ところが、中西夏之は「絵の姿形」というエッセイで、絵画の成り立ちについて次のように書いています。

 この執拗に、地表に舞い下りて来る絵画の平面とは何だろう?と、瀧口修造はこの世から立ち去ることのない絵画をウンザリした口調で記しているが、この問いは、絵画のある不思議さを思うことによって、再び新鮮さをとり戻そうと云っているように聞こえる。
 一つの追試をしてみよう。一枚の水平に置かれた大きな紙の任意の箇所を、コの字型に切り、垂直に立て起こす時、この衝立上の平面は、元の紙=地表から孤立されつつある。そして山や滝が不動のように位置を変えることはない。底辺にカミソリを入れると衝立は倒れ、横たわり、地表の水平面に同化する。いかなる力がこの断片的平面を再び垂直に掲げるのか。
(『大括弧 緩やかに見つめるためにいつまでも佇む、装置』)

ちなみに、水平に置かれた紙をコの字型に切り、垂直に立て起こすという構造は、先述した東京芸術大学美術館の「二箇所」という作品の構造そのものだと思います。
それはともかくとして、どうして、このように面倒なことを考えるのでしょう。
それは絵画の表面というものが、あまりに人為的で不自然なものだからでしょう。たとえば、ここに書かれているように、それが大地におかれた平面であれば、「地表の水平面に同化する」ことができます。つまり自然の一部として見なすことも可能になるのです。しかし、それが垂直に屹立した平面となると、「いかなる力がこの断片的平面を再び垂直に掲げるのか」と、問わざるをえなくなります。そこで働く「力」とは、自然の重力に抗う、明らかに人為的な「力」でしかありえないのです。
それならばラスコーの洞窟画のように、もともと屹立した平面に描かれたものならば、どうなのでしょうか。人類が絵画というものを意識するはるか以前から、自然な状態でそれは存在していたはずです。確かにそう考えてもいいのですが、ただ、洞窟画はいまの私たちが絵画として鑑賞している平面とは、決定的に違っています。それは、連続した壁面に描かれていて、はっきりとした区切り、つまり端がないのです。そういう意味で、洞窟画は壺の表面に描かれた図柄と似ています。中西夏之は、「絵の姿形」のなかで、このように書いています。

 壺の単純化形態=円筒を考えても同じである。壺、或は円筒は重力を介して自然と同化している。それに描かれた絵は自然と同化している。見る者達はそれらの内側、外側を歩き廻る。
 しかし或る意志が円筒を縦に切り開いてしまった時から、見る者達は歩き廻りを止められてしまった。文様や物語の連続は断たれ、この展開された平面の前に、正面から立たされる。時間をともなう歩行、歩行をともなう眺め、歴史をともなう人生は静止の瞬間を強いられる。
 縦割りにされた円筒は左右に展開され、平面化されると同時に左右の辺を生んでしまった。画家はこの拡がりに正面から出会ったのである。この出会いからすでに久しい。久しいが故に、すでに与えられて来たこの拡がりを新たに引き受けてみよう。
(『大括弧 緩やかに見つめるためにいつまでも佇む、装置』)

このように考えていくと、いかなる意味でも「絵画の場所は人為でなければならないだろう」(「絵の姿形」)ということになります。自然に抗って垂直に掲げられた平面、或いは垂直に切り開かれた平面、それが絵画の起源になるのです。そう考えると、垂直であること、或いはそれに対する水平面というものが、厳密に確認されなければならない、という理由もわかる気がします。
ところで言うまでもないことですが、ここで語られている「絵画の起源」というものは、歴史的な意味での、時間をさかのぼった「起源」ではありません。そもそも絵画とは、人為的な仮想のうえに成り立っているものです。ですから、絵画を追究する過程で、私たちは何度でもその「起源」を確認することができます。中西夏之が問題としている「絵画の起源」とは、そういうものです。
『着陸と着水』のカタログには、中西夏之自身が「小鋼球及び絵画場」というエッセイを寄せているのですが、そのなかにこのような文章があります。

 ところが、垂直な平面は自然的なものではなく、なにか激越な欲望と人為によって発見されたのではないか。「激越な」ヒトがヒトであると認めた、否、猿がヒトであると瞬間的に認めた太初の時のことである。
 それは絵画の発見と機を一にしているはずだが、絵画を読みとってきた歴史の欠陥が、絵画の発生の発見を阻んでいるようである。起源は遡及されるものではなく、現在が起源であるとしてみよう。この宇宙といわれるものに一つの始まりがあり、その続きの現在、ととるのではなく、この宇宙といわれるものはいまだ未決定であり、たえず生成を繰り返している。絵画の行為は、その生成を励まし、加担するかのごとく何度も何度も絵画の発生を繰り返すことを余儀なくされている。
(『着陸と着水』)

実は長い間、私はこの文章の意味をつかみ損ねていました。「起源は遡及されるものではなく、現在が起源である」と言われても、まったくピンときませんでしたし、それはあてのない夢想のようなものだと思っていたのです。このような夢想は、とりあえず自分には関係のないものだとも考えていました。
しかし、実際にはまったく逆の話で、私たちは絵画というものについて考えるとき、「現在が起源」であり、宇宙が「たえず生成を繰り返している」という感覚が、ぜひとも必要なのではないでしょうか。すでに描き終わってしまった絵画が、あたかも目の前で生れようとしているような新鮮さを放つためには、「何度も何度も絵画の発生を繰り返す」必要があるのだと思います。

話が具体的な作品から、すこしそれてしまいました。
「着陸と着水」では、碁盤の目のように正確に、砂とボールベアリングが配置されています。砂の山は重力に従って、末広がりの平たい円錐形になっています。この作品は、どこまでも水平面を測る装置であり、定規であるのです。
その台面のコーナーの一部が、「布をまくりあげて砂絵の一部がこわされ」ていますが、それがかえって作品の水平性を意識させます。このような比喩が正しいのかどうか分かりませんが、たとえば地震によって生じた断層が、かえってもとの地層の水平性を意識させるような、そんな感じでしょうか。そこには新たな砂が盛られ、その上には三角儀が吊るされています。垂直の力が、その部分だけ違った磁力を働かせているようにも見えます。垂直と水平が、互いに拮抗しながら見る者の注意を際立たせます。
このように、水平と垂直について感覚を研ぎ澄ませていくと、そこに垂直方向に働く重力と、それを受けとめる大地の大きさを見出せるのかもしれません。絵画という表現形式は、そこに人為的に置かれた仮想の平面だということになるのでしょう。
そのような認識から、はたしてどのような絵画が生まれるのでしょうか。中西夏之がユニークなのは、そこから思考を断絶することなく、絵画と向き合っていることです。それはあたり前のことのようでありながら、実は稀有なことなのです。

だいぶ長くなりましたので、今回はこれくらいで・・・。
できれば、もうすこし絵画について、現時点での考えを深めてみたいと思います。

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