先日、知り合いからメルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908 - 1961)についてよい本がある、と教えていただきました。その著者が、加賀野井秀一(1950 - )という人で、フランス哲学者にして中央大学の教授でもある人です。さっそく本を取り寄せて読み始めようとしたところ、図書館で『講談社選書メチエ ソシュール』という別の著書を見つけたので、先にこちらを読みました。
加賀野井秀一は、丸山 圭三郎(1933 - 1993)と師弟関係にあったとのことですが、難解なソシュール(Ferdinand de Saussure、1857 - 1913)の言語学と、その思想がわかりやすく語られていて、とても読みやすい本です。私は丸山の著作を通じてソシュールについて知りましたが、もしも彼の言語学についてご存知ない方は、よかったら次のテキストをお読みください。P4からP6にかけて、その考え方について簡単に触れています。
『絵画について ―宮川淳から考えはじめて―』
(http://www5b.biglobe.ne.jp/~a-center/p-ishimura/text/2010.pdf)
読みなおして気づいたことですが、私の文章では、シニフィエを現実の物と混同している、と加賀野井教授に叱られそうです。なぜなら、「シニフィエ」は「シニフィアン」から想起される「想念」でなければならないからです。
つまり、私たちは/yama/と聞いて、ある想念を呼びおこす。この二面からなる構造がシーニュである。まさしく、シニフィアンとしての/yama/が「意味するもの」、シニフィエとしての「想念=山」が「意味されるもの」と訳されるゆえんであるだろう。ただし、このシニフィアンの/yama/は物理音ではなく、聞き手のうちに生じる「聞こえ」であり、シニフィエの「想念=山」もまた、現実の物的な山ではなく、あくまでも想念としての「やま」でなければならない。さらにこの想念は、単純に「イメージ化された山」であるわけでもない。そこには、「事件は山場をむかえた」という時の山、「あいつは山師だよ」という時の山、これらすべてのものが含まれているのである。
(『講談社選書メチエ ソシュール』)
言葉が現実のものを指差している、という素朴な言語観、これを「言語命名論」あるいは「言語名称目録観」とこの本の中では呼ばれています。このような先入観は捨てなくてはならない、と何度も指摘されているので、注意しておきましょう。
さて、なぜこのブログで『ソシュール』について、取り上げようと考えたのかといえば、この本の末尾に、美術に関する記号学の応用のようなものが示唆されているからです。
それは本当に最後の二、三ページで、バルト(Roland Barthes, 1915 - 1980)の記号学に関する解説の後に書かれています。
たとえば、かの美術史の大家エルヴィン・パノフスキー Panofskyが考えていたイコノロジー(図像学)を記号論的に読みかえてみたらどうなるか。おそらくバルト流の記号図式を三層重ねてみるとうまくいく。
パノフスキーによれば、絵画のもつ意味には三段階があり、①自然的意味、②慣習的意味、③内的意味、がそれにあたっている。ためしにボッティチェルリの「ヴィーナスの誕生」の絵でも考えてみるならば、①は日常的に知覚されるがままの意味であり、画面には四人の人物がいて、てんでにポーズをとっているというほどのことになる。これに対し、②の意味には社会的な慣習が介入する。たとえば貝殻にのった裸体の美女はヴィーナスであり、その左方でからみあっているのは、西風のゼフュロスとその連れあいのクロリスだ、といった絵解きが必要になるのである。そのための知識は、イコノグラフィー(図像解釈学)という学問が提供してくれることだろう。さらに③の意味をとらえるためには、この絵を造形的・歴史的コンテクストのなかに置かねばならず、それが描かれるにいたった経緯や、時代背景に対する知識が求められることになる。
(『講談社選書メチエ ソシュール』)
この考え方のもとになっているのは、バルトの「コノテーション(共示)」という考え方です。
加賀野井教授の解説によれば、例えば、映画『ダイハード』を見た観客が、「ブルース・ウィルスは男だよ」とつぶやいたとします。この「男だよ」という言葉のなかには、当然のことながら性別としての「男性」という意味がありますが、それに加えて「男のなかの男」、というような意味あいも含まれています。言葉の意味を、このように重層的に、あるいは段階的に考えてみます。まず、性別としての「男性」という概念が、意味の下層にあります。そしてその上層に、つぶやかれた言葉全体(シーニュ)がシニフィアンとなり、「男のなかの男」というシニフィエを指し示す、ということになります。
説明だけではわかりにくいので、本の中で示された図式を紹介しておきます。
(ブログ上でうまく表示できるのか、不安ですが・・・)
SA SE
SA SE
※ SA=シニフィアン、SE=シニフィエ
(やはり線が消えてしまいました・・・)
この図の下の層の「SA」に/オトコ/という「聞こえ」があてはまり、「SE」に「男」という概念があてはまります。それらが上の層の「SA」となり、それらが「男のなかの男」という「SE」を指し示す、ということになります。
これをパノフスキー(Erwin Panofsky, 1892 - 1968)のヴィーナス解釈にあてはめると、どうなるのでしょうか。
この場合、意味を表す層は三層構造になります。一番下の層では、「四人の人物像」が「人」のイメージを指し示す、という構造になります。画面に人物が描かれていれば、「人」をイメージする、という一般的な絵画を見るときの、了解事項です。それらが上の層の「SA」となって、それぞれの人物が神話の「ヴィーナス」であり、「ゼフュロス」であり、ということを指し示すことになります。貝殻にのった全裸の女性像など、描かれた特殊な状況を見れば、それが神話の中の世界だと理解することは、それほど難しいことではないでしょう。さらにそれらが上の層の「SA」となって、ボッティチェルリの生きた時代背景や、この絵が描かれた経緯を理解したうえでの意味が指し示されることになります。例えばこのヴィーナスが、「ネオ・プラトニズム」の思想を表象する「ヴィーナス像」である、というようなことです。
私はイコノロジーに特別な興味を抱くものではありませんが、このように図像を通して当時の思想に深く分け入っていくというのは、確かに面白そうなことだと思います。頭のいい人ならば、知的な興味が尽きないことでしょう。
さらに加賀野井秀一は、次のような刺激的なことを書いて、この本を終えています。
これがボッティチェルリの絵だからこそ、そうなるわけだが、たとえば印象派の描く風景であればどうだろうか。おそらくは、第二のイコノグラフィーの層がいらなくなるにちがいない。あるいは、モンドリアンのような抽象画であればどうなるか。その場合には、第一の知覚の層を表すのに工夫しなければならないし、同じ抽象画でもポロックのような描き方に対しては、もうひとひねりする必要があるだろう。さらにまた、ダリやマグリットのようなシュールな絵だとどうなるのか・・・と、記号論的表現の可能性には果てしがない。
(『講談社選書メチエ ソシュール』)
この本が書かれてから10年近くが経ちますが、その後このような研究がどこかでなされているのでしょうか。私のせまい知見では、たとえばバルトの業績全般が、このような記号論的表現の追究ということになるのでしょうが、さすがの彼も『美術論集』のなかでさえ、印象派については論じていなかったと思いますし、たしかモンドリアン(Piet Mondrian、1872 - 1944)の話は出てこなかったような気がします。そう考えてみると、絵画の分野においてこのような可能性を考えてみることは、今後興味深いことなのかもしれません。
ここで名前があがったポロック(Jackson Pollock, 1912 - 1956)の解釈ともなれば、おそらくは段階的な意味の層を想定することなど不可能でしょう。最先端の美術批評から、アメリカのプリミティブな絵画の影響、精神分析学による無意識の捉え方、などの当時の思想的な背景やポロックの個性が絡み合って表象されたのが彼の絵画です。それを図で示すとなると、「SA」と「SE」が複雑に錯そうして、さながら彼の絵画のように、さまざまな階層が線でつながりあったものになるのかもしれません。
それから、たとえば前回まで論じた、中西夏之の絵画ならば、どうでしょうか。
彼の絵画は、シリーズごとにタイトルが付されていますが、その言葉は直接、絵の内容を説明するものではありませんが、明らかに内容に関わるもので、それもかなり具体的なものです。表面的に絵画として了解される層から分け入って、それらを解釈できる層に達するなら、彼の絵画が他の抽象絵画と、いかに違っているのか、言い表すことができるのかもしれません。
いろいろと思いつくことはありますが、「記号論的な表現の可能性」について、具体的に論じるには、あまりにも勉強不足です。今回は、このあたりで筆を置きます。
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