日本で初めて、アントニオ・ロペス(Antonio López García、1936 - )の展覧会が開催されています。場所は渋谷のBunkamuraで、会期は6月中旬までです。
ロペスは、高校の美術の教科書でも作品が掲載されていますし、映画好きの方には、ビクトル・エリセ(Víctor Erice, 1940 - )監督の『マルメロの陽光』(1992)の画家として、おなじみなのかもしれません。
私は連休最終日に何とか時間を作れたので、Bunkamuraに行ってきました。混雑を覚悟していたのに、意外なほどゆったりと見ることができました。ロペスの認知度は、日本では思ったより低いのかもしれません。昨年のシャルダンの展覧会の時(2012年11月の本ブログを参照)もそうでしたが、うれしいような、悲しいような、複雑な気持ちです。
同じ日に見に行った『フランシス・ベーコン(Francis Bacon、1909 - 1992)展』の方は、けっこうな人の入りでしたが、個人的にはロペスの方が面白いと思いました。
ベーコンは日本で30年ぶりの大規模な展覧会、というのが売りのフレーズのようですが、その30年前にも私は見ています。あれから30年だなんて、月日のたつのは本当に早いものです。今回も内容的に充実した展覧会でしたが、基本的な印象は若いころに見たものと変わりません。そのあたりの事情が、展覧会の印象に影響していたのかもしれませんね。
とにかく、ベーコンは絵の達人です。表現するべき標的が定まったら、迷うことなく、最良の方法で一気に描き上げていく、という感じです。私のように、絵の前で逡巡し、迷いに迷ってしまう人間からすると、あまりに異質です。
話をアントニオ・ロペスにもどします。私は彼について、何か語れるほどの知識があるわけではありません。作品についても、これまで図版でしか見たことがありませんでしたが、実際の作品を見てみると、期待通りの感触がありました。そのあたりを言葉にしておきたいと思います。
ロペスは「現代スペイン・リアリズムの巨匠」と言われています。
正直に言って、いまどき「リアリズム」と言われても、あまりピンときません。写真のようにリアルに描く技術を持っていたとしても、それは意味のあることでしょうか。スーパー・リアリズムやハイパー・リアリズムと言われるような絵画を経験してしまった現在では、ちょっとやそっとのことで、私たちを驚かせることはできません。
結局のところ、写実絵画で話題になる画家というのは、それなりの意味を持っているのでしょう。例えば、アメリカのアンドリュー・ワイエス(Andrew Wyeth,1917 - 2009)という画家がいます。彼の場合は、テンペラ技法とアメリカの土臭い田舎の風物がうまくマッチしています。リアリズムだけが、彼の絵の要素ではないのです。あるいは、ドイツのリヒター(Gerhard Richter, 1932- )のピンぼけ写真のような写実絵画のシリーズがあります。リヒターの場合、さまざまなスタイルの作品を並行して発表していますが、どれも知的なアイディアを効かせています。このシリーズは、当然のことながら、焦点がぼやけているところがミソです。
ところが、ロペスの場合、それらの画家たちとは違った感じを受けました。彼の場合、リアリズムというスタイルよりも、絵画を描いているという実感の方が重要なのではないか、と思いました。
実際に彼の初期の絵画は、マチエールや筆のタッチが目立つ作品で、リアリズムというほどの写実絵画ではないのです。カタログに載せられた資料によれば、その頃に彼は、ギリシアやイタリアの美術を見る機会を得たそうです。とりわけ古代彫刻やポンペイの壁画などに魅かれたそうで、彼の絵にプリミティブな質感が、写実表現よりも強く感じられるのも、そのせいでしょう。
その後の作品は、マチエールが徐々に薄くなり、写実的な表現の度合いが強くなります。その一方で、ほとんどの作品に下書きの線や大雑把な筆使いの部分がそのまま残されています。ロペスは制作にとても時間がかかる画家だそうですが、それらの痕跡は未完成であるために残ってしまった、というわけではないようです。画家は、それらが残されたままでよい、と考えたのか、あるいは残すべきだ、と考えたのか、そのいずれか、もしくは両方だと思われます。そこが興味深いところです。
勝手な想像ですが、ロペスの絵画の中には、プリミティブな意味での絵画の原像とでもいうべきものがあるような気がします。それが彼の暮らすスペインの風土と、どれほど関係があるのかわかりませんが、少なくとも彼が若いころに見たという、古代美術(とりわけポンペイの壁画)によせる共感が影響していることは確かでしょう。例えばポンペイの壁画の中でも有名な『パン屋の夫妻』という肖像画がありますが、それと雰囲気がよく似ている『シンフォロソとホセファ』というロペスの作品があります。これは彼の祖父母の肖像画だそうですが、それについて画家はこう言っています。
「祖父母の肖像画において私は、彼ら夫婦を知っていたという事実とポンペイ的な背景を繋げたかったのです。そして夫婦が彼ららしく見えるように、そして彼ら自身であるようにしたかったのです。時を超えて私は肖像画をそれらが望むべき場所に行かせました。肖像画の表現の限界へと至るように。そしてそのことは私がいまだ肖像画とどのように付き合っているかということを示しているのです。」
(『アントニオ・ロペス』展 「アントニオ・ロペスの終わりなき旅/ギリェルモ・ソラーナ」)
このように言うだけあって、『パン屋の夫妻』と『シンフォロソとホセファ』という二枚の絵には、その構図やざらざらとしたマチエールなど、いくつかの共通点を見いだすことができます。しかしそれよりも、私にはロペスが「肖像画の表現の限界」と言っている点が気になります。これはどういう意味でしょうか。
正確なことはわかりませんが、ポンペイの壁画は、住宅の壁面などに直接、絵を描いていたわけですから、キャンバスに描く油絵とは違って、制作上の、あるいは表現上の制約がかなりあったでしょう。しかし、そのなかで『パン屋の夫妻』のようなみごとな肖像画が描かれた、ということはたいへんなことだと思います。また、平らな壁面に忽然とリアルな肖像画が現れる、ということを考えてみると、これは西洋美術における絵画の原点、もしくは原像のようなものだ、と言ってもよいのではないでしょうか。ロペスの『シンフォロソとホセファ』が、写実描写としては目障りなほど筆のタッチを際立たせ、ざらざらとしたマチエールを追究しているのは、壁画の表面的な効果を真似ているのではなくて、肖像画が肖像画として見える地点を確認しているのではないか、という気がします。
このように考えると、その後のロペスの絵の変遷も理解できます。絵画が絵画として成立することの不思議さ、その原点をさぐるべく、彼は制作を続けているのです。制作過程の描線が残されているものも、おおまかな筆使いで描き放しになっているものも、延々と何年にもわたって筆が入れられているものも、それらの全てが絵を描くことの原点を向いています。
その追究の方法が「リアリズム」的であるということ、そのことが私には、いかにもヨーロッパ的、という気がします。先ほども書きましたが、スペインという風土がどれほど画家に影響しているのかわかりませんが、少なくとも日本にいる私たちが感じているよりも、ギリシアやローマなどの古代美術が、彼らにとって身近にあるのだろう、と思います。
とりあえず、これ以上のことを考察するのは難しいようです。
実際のところ、展覧会場で何か理屈っぽいことを考えながら見たわけではありません。それよりも、ロペスの筆使い、作品の手触りや肌触りをながめて楽しみました。彼は彫刻を作っていても、何だかとても実感があって、作品の良し悪しなどはどうでもいいような気がしてくるのです。
展覧会前に画集の図版で見たときには、ときどき現れるシュールレアリズム風の画像や、複数の視点を組み合わせた構図など、見ていて邪魔な気もしていたのですが、実物の作品では気になりませんでした。もっと大らかな流れの中で、自然に作品を見ることができました。
はじめてロペスの作品に接したので、本格的な評価はこれから見えてくるのかもしれません。
まずは雑感まで。
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