前回、齢をとることに悲観的な内容の多い昨今のネット記事に、文句を言ったところで終わった。
そんな記事の代わりに、威張るでもなく悲観するでもなく、当たり前のこととして加齢を考えたいなと思う。齢をとる(そこまで生きられたこと)は、本来寿ぐことであるし、素直にめでたいと感謝できるような考え方を私はしたい。
もう20年位前の話だが、我が子と同じ幼稚園に通っていた子どものおじいちゃんのこと。毎朝園バスを見送りに来ている、その顔が実に素敵で、良い人生を送ってきたんだろうなと想像させる感じだった。こんなふうに年を取りたいと、密かに思っていた。
つい半年前にも、とある写真展に出品されていた作品に、見入ってしまう様ないい顔のおばあちゃんがいた。しわだらけなんだけれど、このしわがなかったら、こんなに味わい深い表情にならないだろうな…。おばあちゃんも、カメラマンも素晴らしいとその時思った。
ろころで、悠々自適だとか、楽隠居の意味をもう一度考え直した方がいいと感じる。これらの言葉を『(もう社会の役割を果たしたのだから)これからは、お客様人生で過ごそう』という意味で使っていないだろうか。こんな世のコマーシャルに惑わされてはいけない。旅行に行って、ご飯は作ってもらって、退屈は誰かに紛らわせてもらうような生き方は、虚しさと隣り合わせだ。外から与えられるだけの刺激は、慣れてくると退屈を感じ、さらに強い刺激を求めてしまう。そして、どこかで破綻する。そんな消費するだけの(やってもらうだけの)過ごし方をしてはいけない。
結局、『老後の悲惨』系の記事は、こうした消費ばかりの生活ができないことに対する『悲惨』なのだ。でも私は、消費ばかりの生活の方が悲惨だと思う。悲惨というより空虚と言った方が近いか。
単にお金を払って、刺激を求め、世話をしてもらう生き方は楽しい?刺激をさらに強く求め、生活能力を失っていく、その先にあるのは虚しさではないのか。
そんなことを考えながら、自分で掃除をして、食事を作るよう、うつうつ閉じこもる親に伝える。
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