山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

京柱峠・祭文峠、地名の考察

2024-05-19 15:43:50 | エッセイ

 京柱(きょうばしら)峠(570m)と祭文(さいもん)峠(590m)は伊久美川右岸尾根上にあって、いずれも伊久美の谷と川根・身成の谷を繋ぐ峠道であった。藤枝側から蔵田や桧峠を経由して伊久美ヘと入った山の交易路は、これらの峠を越え上河内、一色の身成谷へ、さらにそこから阿主南寺(あずなじ)峠などを越えて大井川中流域の川根筋へと入っていった。

 大井川上流部は行き止まりの閉塞谷で、中流部に至るまで両岸には山が迫っている。その上、江戸時代には架橋、通船が禁じられていた。……生活に必要な物資はすべて峠越えで求めなければならなかったし、産物もまた峠越えで出さなければならなかった。

 こうした悪条件は中、上流域の人々と渓口都市である島田、金谷との結びつきを驚くほど弱いものにしていった。左岸部は静岡、藤枝、右岸部は森(周智郡)と強く結びついたのである。(中略)

藤枝商圏=①蔵田峠・瀬戸川ルート(笹間石上、大平など)②桧峠・瀬戸川ルート(上河内、一色、伊久美など)

 川根町一色に住む藤田広次さん(明治四〇年生まれ)は、一三歳の年に炭二俵を背負い、祭文峠を越えて伊久美に出、さらに桧峠を越えて南麓の坂下(現藤枝市上滝沢上流部)まで歩いた。今はその跡形もないが、当時坂下には炭問屋、米問屋、板棒問屋、雑貨問屋など七軒の家があった。藤田さんは炭問屋に炭を売り、帰りには米問屋で米を八貫目買って帰った。……(大井川を)高瀬舟が上るようになっても、川の増水期にはあてにならなかったので、峠が捨て去られることはなかった。

 他地域に比べて大井川流域の峠利用は多く、しかも遅くまで続いた。こうした状況なればこそ、この地域においては峠の信仰も盛んであり、今日に至るまでそれが生き続けている。(後略)

――野本寛一『大井川 ―その風土と文化―』(昭和54年・静岡新聞社刊)――

 さて、少し変わった両峠の名は何に由来しているのだろうか? 京柱峠の名で有名なのは現在国道439号の難所として知られる徳島・高知県境の剣山地の峠で、「弘法大師が阿波から土佐へ向かった時、麓の祖谷(いや)の村よりあまりにも遠く、この峠を越えるのは京に上るほどだということからこの峠名がついた」(Wikipedia)とされているようだが、それが何故「京柱」となるのかやや意味不明にも思える。地名で大事なのは音であって、当てられた漢字に引きずられ過ぎると元々の意味を見失ってしまうことがあるようだ。私は、この「京〈きょう〉」とは京都の意ではなく〈峡〉または〈経〉ではないかと考えた。四国の京柱峠(1,123m)は、日本三大秘境のひとつにも数えられる阿波の祖谷と土佐の大豊の谷を隔てている。つまり峡谷の間に立つ柱のような峠とでもいう意味となろうか。〈京〉の字を〈峡〉の意味で当てていると思われる地名は、同じ祖谷に「京上」が、北西の徳島県つるぎ町にはそのものずばりの「京都」もある。

 では〈経〉を考える根拠は何か? 瀬戸川ルートを使った藤枝商圏の山の交易路の起点は藤枝宿西の茶町・音羽町で、町の北には瀬戸川左岸尾根末端の丘陵に真言宗の古刹、音羽山・清水寺が建つ。同寺の開基は神亀3年(726年)、開祖は行基、中興開山は弘仁8年(817年)弘法大師とされている。清水寺の西には京塚山(245.1m)があって、元々はここに寺があったらしい。一方、身成一色から川根堀之内へ越える阿主南寺峠(470m)には同じく真言宗の慈眼山・阿主南寺があって、神亀5年(728年)やはり行基による開基と伝えられる。身成の大井川対岸山中の大日山・金剛院(真言宗)、春埜山・大光寺(曹洞宗)もまた養老2年(718年)行基による開基と伝えられる。伊久美川口対岸の福用には経塚山(669.9m)がある。経塚というのは経文を経筒・経箱に入れて埋めた塚のことで、「各時代を通じて、社寺となんらかのつながりをもつ所、すなわち社寺境内やその近傍、あるいは霊地と目されている所を選んでつくられているが、一方、墳墓の近くや、江戸時代には路傍などにも営まれた。」(世界大百科事典:三宅敏之)らしい。伊豆山神社経塚、三重県朝熊山経塚、奈良県金峰山経塚、和歌山県熊野三山経塚、高野山経塚などの例を見ると、経文といっても神仏習合の修験系、真言密教系の色合いが強いように感じられる。先に挙げた各寺も行基による開基の伝承のとおり、そもそもは修験系の霊場だったようだ。また、このルートは川根筋へと上る山の交易路であったと同時に、家山を経由して神仏習合の一大聖地であった秋葉山へと向かう信仰の道=秋葉道でもあったようだ。そのようなことを鑑みると、福用の経塚山はもとより、清水寺西の「京塚」は「経塚」であろうことは明らかだろう。「京柱」とは「経柱」で経文を埋めた目印のようなもの(柱?)があったと考えられないだろうか(「経柱」の用例が見当たらないことが弱いが…)。今は傍らに二体の地蔵が祀られている。

 伊久美・小川から身成・一色へと越える祭文峠の「祭文(さいもん)」は、祭の時に神仏に告げる祭詞、祝詞であるが、鎌倉時代以後、信仰を離れて山伏が錫杖や法螺貝を伴奏にして歌謡化したものを全国に広め、のちに祭文語りとして門付芸の一つとなった。上述したようにルート上の修験系の匂いを考えると、こうした峠を山伏や行者が越えていったことは充分想像されるし、峠越えの無事を祈って祭文が上げられたことも考えられる。今は植林の中で、小さな道標が無ければそれと気付かない位に、古の峠らしい風情も何もないのは寂しいかぎりだ。

京柱峠

祭文峠



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