続きです。
BPOとは、テレビ・ラジオ番組に対する視聴者からの苦情を受け付け、当該(とうがい)番組の審査を行うNHKや民放連などが出資運営する民間の任意団体です。
まず、主体と客体をはっきりさせました。
(3)「放送と青少年に関する委員会」は、おもに"個人対マスコミ"あるいは企業やPTAといった"団体対マスコミ"。(2)「放送と人権等権利に関する委員会」は、、おもに"個人対マスコ"。(1)「放送倫理検証委員会」は、"個人対マスコミ"や"国家対マスコ"と広くなるかもしれません。倫理なので、社会全体対マスコミとさらに広くなるかもしれない。
次に、目的や手段や結果を切り分けます。
「第三者の立場から迅速・的確に対応することを目的とする」
ここから本論です。対(つい)になることを対比(たいひ)します。ここでは、BPOができる前と後を対比しています。
1969年以前マスコミは、苦情に対し企業ごとそれぞれに対応をしていました。企業が公(おおやけ)にはしたくない苦情ですから内部で判断がされ公表はされにくかった。これでは資金も組織にも劣(おと)る個人は圧倒的に不利です。その対応も前例として積み上げられていかないためマスコミ全体の変化まで至(いた)らない。この点が、過程も結果も公にされる裁判と大きくちがいます。
また日本国憲法では個人に関して基本的人権★が明記されますが、プライバシーや肖像権は憲法には具体的記載(きさい)はありません。通信や映像など技術の発展にともなう新しい権利だからです。以前は情報を集めるにも広めるにもいまよりずっと手間がかかっていました。
結果的に「迅速・的確に」対応できない仕組みのままになっていたのです。これからは、個人や企業はもっと裁判でマスコミと争うべきかもしれません。裁判は公にされ、一度確定した"判決"が法律条文と同等のとても大きなチカラを持ちます。最初は判決の確定まで十数年と時間がかかりますが、判決やその運用を積み重ねることで迅速さも確保されるようになります。
国家対マスコミは見方を変える必要があるでしょう。個人と異なり、国家はマスコミより強い権力を持つ組織だからです。
第二次世界大戦後の世界で「ファシストと戦って勝利した」は、アメリカやヨーロッパはもとよりロシアや中国まで共有できる数少ない価値観です。現在も多くの国家に支持される"ものがたり"です。ファシスト(全体主義者)とは、国家間競争に確実に勝つため国家全体が個人や企業を支配するという価値観の持ち主。国家間で勝つか負けるかのどちらかしかないと信じられていた時代では意味もあったかもしれません。民主主義は、個人が幸せになるために国家があり個人の幸せのためその運用もおこなうという価値観です。民主主義国家ではその価値観のもと、国家が個人や企業を縛るにはたいへん厳しい条件が課せられます。
犯罪者を捕まえるのに拷問(ごうもん)まで許せば「迅速」は確保されます。ただし結果を急ぐあまりうっかりまちがえる可能性も高くなる。民主主義国家では結果は急ぎません。目的は個人が幸せになるですから、たとえ少数でもうっかりまちがえたは許さないのです。「迅速」かつ「的確に」運用することが条件になります。"かつ"ですから両立が必須です。そして民主主義が的確に運用されているか判断の土台として、わたしたち国民には「知る権利」が欠かせません。
また日本のような議院内閣制★国家は、アメリカや韓国など大統領制★国家にくらべ迅速さに劣(おと)ります。大統領には大きな権力が与えられています。代わりに大統領はひとり大きな責任も負(お)います。一方よりていねいに説明や議論をしながら国民の合意を積み上げていこうというのが議院内閣制です。議院内閣制は責任が分散されがちで迅速に大きな決断をするにはあまり向きません。この仕組みのちがいが、日本の政治がもどかしく感じられる理由のひとつです。大統領制ではない日本国民のわたしたちはそのことを前提に政治的判断をする必要もあります。
2009年をニュースでふりかえる(2)|オバマ大統領(だいとうりょう)
大統領制にせよ議院内閣制にせよ民主主義国家では、だれかがいつのまにか良い政治をしてくれるわけではありません。わたしたち国民全体が最大の権力を持ち、大きな権利からはそれに見合う義務や責任が切り離せませんから。
マスコミはいい加減な組織です。緩(ゆる)い統制と抜け目ないカネ儲けの仕組みが同居します。報道部はそれより少しマシかもしれませんが、やはり即時性と視聴率獲得は優先されますからいい加減なひとが出世する。目の前の「事件」を追うあまり大きな変化が見えなくもなります(ですよね筑紫さん)。
しかしバラバラで統制が緩いからこそ、大きな変化のなかで真相も垣間(かいま)見えます。東欧や南米の民主化も統制のスキマから芽吹きました。
どちらが良いのか。わたしたちそれぞれが決める義務があり、同時にそれぞれが決める権利でもあります。わたしは個人対マスコミはもっと裁判で判例を積み上げるべきで、国家対マスコミでは国家による統制は望みません。マスコミのほうが正義だからではなく、「知る」ことがわたし個人にとって得だからです。
安倍政権に全体主義の意図(いと)は感じません。ただ一度決めた(主権者が異をとなえなかった)国家の行動はこの政権以後も引き続き国家の行動の前例となります。個人であればうっかりで修正すれば済むことも、国家のような巨大な組織では積み重ねがより説得力を持ちます。圧倒的です。その意味でも、迅速さをもとめるために国家が個人や企業(マスコミに限らず)を統制することは控えておくべきだとわたしは考えます。(極私的塾長)
自民党がテレビ局幹部を呼び出したのは本当に「圧力」なのか(ダイヤモンドオンライン・パソコン)
BPOとは、テレビ・ラジオ番組に対する視聴者からの苦情を受け付け、当該(とうがい)番組の審査を行うNHKや民放連などが出資運営する民間の任意団体です。
まず、主体と客体をはっきりさせました。
(3)「放送と青少年に関する委員会」は、おもに"個人対マスコミ"あるいは企業やPTAといった"団体対マスコミ"。(2)「放送と人権等権利に関する委員会」は、、おもに"個人対マスコ"。(1)「放送倫理検証委員会」は、"個人対マスコミ"や"国家対マスコ"と広くなるかもしれません。倫理なので、社会全体対マスコミとさらに広くなるかもしれない。
次に、目的や手段や結果を切り分けます。
「第三者の立場から迅速・的確に対応することを目的とする」
ここから本論です。対(つい)になることを対比(たいひ)します。ここでは、BPOができる前と後を対比しています。
1969年以前マスコミは、苦情に対し企業ごとそれぞれに対応をしていました。企業が公(おおやけ)にはしたくない苦情ですから内部で判断がされ公表はされにくかった。これでは資金も組織にも劣(おと)る個人は圧倒的に不利です。その対応も前例として積み上げられていかないためマスコミ全体の変化まで至(いた)らない。この点が、過程も結果も公にされる裁判と大きくちがいます。
また日本国憲法では個人に関して基本的人権★が明記されますが、プライバシーや肖像権は憲法には具体的記載(きさい)はありません。通信や映像など技術の発展にともなう新しい権利だからです。以前は情報を集めるにも広めるにもいまよりずっと手間がかかっていました。
結果的に「迅速・的確に」対応できない仕組みのままになっていたのです。これからは、個人や企業はもっと裁判でマスコミと争うべきかもしれません。裁判は公にされ、一度確定した"判決"が法律条文と同等のとても大きなチカラを持ちます。最初は判決の確定まで十数年と時間がかかりますが、判決やその運用を積み重ねることで迅速さも確保されるようになります。
国家対マスコミは見方を変える必要があるでしょう。個人と異なり、国家はマスコミより強い権力を持つ組織だからです。
第二次世界大戦後の世界で「ファシストと戦って勝利した」は、アメリカやヨーロッパはもとよりロシアや中国まで共有できる数少ない価値観です。現在も多くの国家に支持される"ものがたり"です。ファシスト(全体主義者)とは、国家間競争に確実に勝つため国家全体が個人や企業を支配するという価値観の持ち主。国家間で勝つか負けるかのどちらかしかないと信じられていた時代では意味もあったかもしれません。民主主義は、個人が幸せになるために国家があり個人の幸せのためその運用もおこなうという価値観です。民主主義国家ではその価値観のもと、国家が個人や企業を縛るにはたいへん厳しい条件が課せられます。
犯罪者を捕まえるのに拷問(ごうもん)まで許せば「迅速」は確保されます。ただし結果を急ぐあまりうっかりまちがえる可能性も高くなる。民主主義国家では結果は急ぎません。目的は個人が幸せになるですから、たとえ少数でもうっかりまちがえたは許さないのです。「迅速」かつ「的確に」運用することが条件になります。"かつ"ですから両立が必須です。そして民主主義が的確に運用されているか判断の土台として、わたしたち国民には「知る権利」が欠かせません。
また日本のような議院内閣制★国家は、アメリカや韓国など大統領制★国家にくらべ迅速さに劣(おと)ります。大統領には大きな権力が与えられています。代わりに大統領はひとり大きな責任も負(お)います。一方よりていねいに説明や議論をしながら国民の合意を積み上げていこうというのが議院内閣制です。議院内閣制は責任が分散されがちで迅速に大きな決断をするにはあまり向きません。この仕組みのちがいが、日本の政治がもどかしく感じられる理由のひとつです。大統領制ではない日本国民のわたしたちはそのことを前提に政治的判断をする必要もあります。
2009年をニュースでふりかえる(2)|オバマ大統領(だいとうりょう)
大統領制にせよ議院内閣制にせよ民主主義国家では、だれかがいつのまにか良い政治をしてくれるわけではありません。わたしたち国民全体が最大の権力を持ち、大きな権利からはそれに見合う義務や責任が切り離せませんから。
マスコミはいい加減な組織です。緩(ゆる)い統制と抜け目ないカネ儲けの仕組みが同居します。報道部はそれより少しマシかもしれませんが、やはり即時性と視聴率獲得は優先されますからいい加減なひとが出世する。目の前の「事件」を追うあまり大きな変化が見えなくもなります(ですよね筑紫さん)。
しかしバラバラで統制が緩いからこそ、大きな変化のなかで真相も垣間(かいま)見えます。東欧や南米の民主化も統制のスキマから芽吹きました。
どちらが良いのか。わたしたちそれぞれが決める義務があり、同時にそれぞれが決める権利でもあります。わたしは個人対マスコミはもっと裁判で判例を積み上げるべきで、国家対マスコミでは国家による統制は望みません。マスコミのほうが正義だからではなく、「知る」ことがわたし個人にとって得だからです。
安倍政権に全体主義の意図(いと)は感じません。ただ一度決めた(主権者が異をとなえなかった)国家の行動はこの政権以後も引き続き国家の行動の前例となります。個人であればうっかりで修正すれば済むことも、国家のような巨大な組織では積み重ねがより説得力を持ちます。圧倒的です。その意味でも、迅速さをもとめるために国家が個人や企業(マスコミに限らず)を統制することは控えておくべきだとわたしは考えます。(極私的塾長)
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