クラスに「やり過ぎる子」がいるそうです
周りにちょっかい出しては逃げていく。時には授業中にもやって教室外へ逃げていくそうで、ちょっとメンドクサイですね。どの子に対してもやるのでクラス中に不満があるらしい
「塾みたいに成績でクラス分けしてくれればいいのに」
ウン。わたしも同じこと考えると思うな。そのクラスからはいなくなるかも知れません。本人の成績に余裕があれば周りを見て歯止めがかかるかも。やり過ぎに歯止めがかからなければ、そのうち成績にも現(あらわ)れるでしょう。やり過ぎる子は目の前からいなくなると思います。でも
わたしの体験です。進学先や職場や町内あるいは仕事で様々なクラスを受け持ったりなかで、「やり過ぎる子」は常に一定数いると感じます。職場にやって来る人の100人に数人程度、町内で50人に一人ぐらい、避難所の40人教室に一人ぐらい、アレ?ってひといますね。子どもにも大人にもちゃんといるんです
ある時期に減ったように感じました。高校に進学したとき、中学と違ってずいぶん過ごしやすくなったなあと思ったことを覚えてます。年齢とともに減るんだろうなと思った記憶があります。当時は「(中学までは)子どもだから加減がわかんなかったんだろう」と思ってたんです。いま振り返ってみても中学のころが一番多かった。でも、それからも「いなくなる」ということはありませんでした。結局、自分の所属しているグループによって割合が増えるか減るかの違いのような気がします
「やり過ぎる子」は常に一定数います。成績が良いから少ない、悪いから多いとは言い切れない。あくまでわたしの経験ですけどね
気になることが別に湧いてきました。俺って、周りにアレ?って思わせたことないのかな
ヒトは、自分の失敗を都合よく忘れて生きています。大人は特に都合がいい。良いことです。恥ずかしさ、後悔、懺悔(ざんげ)…忘れなきゃ生きていくのは結構ツラい。ですが、それらの感情には意味があります。省(かえり)みて、これからの自分を律するために使うものです
「彼らほどじゃない」「俺は自覚ある」、悪(わる)かありませんよ。自分を変えるには時間が必要ですし、許しも要(い)るでしょう。わたしもそうやって生きてます。ただ
「彼らとは違う。だから自分は悪くない」って、自分自身に目をつぶるのはどうなんでしょう?
「わたしたちは違うよねー」って、自分から目を背(そむ)けるのはどうなんでしょうね?
半分はひとのせい、半分は自分のせい|しあわせになろうよ
心地良く過ごせない理由を、いつも自分以外に求めるひとは生きにくくなると思います。巡り巡って自分を許せなくなるから。ネットでいつもイライラしてるひとを一定数見かけます
だれが悪いかを探すより、もっと別の知恵はないものでしょうかね
ドアを静かに閉められない子がいます。アレ?って思いますが、静かに閉めるという感覚が欠けているだけかもしれない。いっしょに静かに閉めてみるを試してみたら変わるかも知れません。それでも変わらないかも知れない。一定数はいるんですから。試すことでわずかでも変われるひとと上手くやっていけるしクラスの雰囲気も良くなると、わたしは信じてます。ヒトは周りの影響を受けながら変わるものです
モノは言いよう|しあわせになろうよ
まあ小中学生ではなかなかコントロールまで効きません。ココロのどこかにはしっかり残りますけど
そうそう、クラスの「やり過ぎる子」の話でしたね。クラス運営は先生方のお仕事ですから先生と親に相談をして、クラスではテキトーにあしらっとけばいいんじゃないかな。役割は分担をして個人であんまり真(ま)に受けないことですね。そういった対応もちょっと覚えていきましょう。大人になるとメンドクサイひとが上司だったりお客さんだったりもときどきあるんで、覚えておいて損はないよ(藤田)
教えて!エライひと|なにかで有名な企業
百年文庫を買いました|文学って、なんだろう(2)
オススメまではしませんけどね。お見舞いの千羽鶴にいたずらされたのなら、それキレていいよ。気持ちを踏みにじる行為は笑って済ませちゃいけない。ただならぬことをしでかしたんだってことだけは伝えなきゃなんない。個人の考え方の違いに関わりなく、社会生活で守んなきゃならない最低のことだから。ここに大人の助けはいらない。本気で泣いて訴えてもいい。俺ならケンカする。ただしケガしない程度にね。だれが悪かろうがお互い社会のルールの範囲でやるもんだからね。ルールの範囲内さえ守っていればさ、普段やりすぎる子を守ってる「子どもだから」って理屈があなたたちにも適用されるよ
こんなのは子どものセカイにあっていいと思うんだ
周りにちょっかい出しては逃げていく。時には授業中にもやって教室外へ逃げていくそうで、ちょっとメンドクサイですね。どの子に対してもやるのでクラス中に不満があるらしい
「塾みたいに成績でクラス分けしてくれればいいのに」
ウン。わたしも同じこと考えると思うな。そのクラスからはいなくなるかも知れません。本人の成績に余裕があれば周りを見て歯止めがかかるかも。やり過ぎに歯止めがかからなければ、そのうち成績にも現(あらわ)れるでしょう。やり過ぎる子は目の前からいなくなると思います。でも
わたしの体験です。進学先や職場や町内あるいは仕事で様々なクラスを受け持ったりなかで、「やり過ぎる子」は常に一定数いると感じます。職場にやって来る人の100人に数人程度、町内で50人に一人ぐらい、避難所の40人教室に一人ぐらい、アレ?ってひといますね。子どもにも大人にもちゃんといるんです
ある時期に減ったように感じました。高校に進学したとき、中学と違ってずいぶん過ごしやすくなったなあと思ったことを覚えてます。年齢とともに減るんだろうなと思った記憶があります。当時は「(中学までは)子どもだから加減がわかんなかったんだろう」と思ってたんです。いま振り返ってみても中学のころが一番多かった。でも、それからも「いなくなる」ということはありませんでした。結局、自分の所属しているグループによって割合が増えるか減るかの違いのような気がします
「やり過ぎる子」は常に一定数います。成績が良いから少ない、悪いから多いとは言い切れない。あくまでわたしの経験ですけどね
気になることが別に湧いてきました。俺って、周りにアレ?って思わせたことないのかな
ヒトは、自分の失敗を都合よく忘れて生きています。大人は特に都合がいい。良いことです。恥ずかしさ、後悔、懺悔(ざんげ)…忘れなきゃ生きていくのは結構ツラい。ですが、それらの感情には意味があります。省(かえり)みて、これからの自分を律するために使うものです
「彼らほどじゃない」「俺は自覚ある」、悪(わる)かありませんよ。自分を変えるには時間が必要ですし、許しも要(い)るでしょう。わたしもそうやって生きてます。ただ
「彼らとは違う。だから自分は悪くない」って、自分自身に目をつぶるのはどうなんでしょう?
「わたしたちは違うよねー」って、自分から目を背(そむ)けるのはどうなんでしょうね?
半分はひとのせい、半分は自分のせい|しあわせになろうよ
心地良く過ごせない理由を、いつも自分以外に求めるひとは生きにくくなると思います。巡り巡って自分を許せなくなるから。ネットでいつもイライラしてるひとを一定数見かけます
だれが悪いかを探すより、もっと別の知恵はないものでしょうかね
ドアを静かに閉められない子がいます。アレ?って思いますが、静かに閉めるという感覚が欠けているだけかもしれない。いっしょに静かに閉めてみるを試してみたら変わるかも知れません。それでも変わらないかも知れない。一定数はいるんですから。試すことでわずかでも変われるひとと上手くやっていけるしクラスの雰囲気も良くなると、わたしは信じてます。ヒトは周りの影響を受けながら変わるものです
モノは言いよう|しあわせになろうよ
まあ小中学生ではなかなかコントロールまで効きません。ココロのどこかにはしっかり残りますけど
そうそう、クラスの「やり過ぎる子」の話でしたね。クラス運営は先生方のお仕事ですから先生と親に相談をして、クラスではテキトーにあしらっとけばいいんじゃないかな。役割は分担をして個人であんまり真(ま)に受けないことですね。そういった対応もちょっと覚えていきましょう。大人になるとメンドクサイひとが上司だったりお客さんだったりもときどきあるんで、覚えておいて損はないよ(藤田)
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オススメまではしませんけどね。お見舞いの千羽鶴にいたずらされたのなら、それキレていいよ。気持ちを踏みにじる行為は笑って済ませちゃいけない。ただならぬことをしでかしたんだってことだけは伝えなきゃなんない。個人の考え方の違いに関わりなく、社会生活で守んなきゃならない最低のことだから。ここに大人の助けはいらない。本気で泣いて訴えてもいい。俺ならケンカする。ただしケガしない程度にね。だれが悪かろうがお互い社会のルールの範囲でやるもんだからね。ルールの範囲内さえ守っていればさ、普段やりすぎる子を守ってる「子どもだから」って理屈があなたたちにも適用されるよ
こんなのは子どものセカイにあっていいと思うんだ