写真は、週刊少年チャンピオンで連載中の「範馬刃牙」(ハンマ・バキ)。油断(ゆだん)からダウンさせられたバキが、しかられます。「いいかげんオヤジと戦え」とも、しかってあげてください。
「行住坐臥」(ぎょうじゅうざが)とは、「歩く」「止まる」「すわる」「よこになる」といったふだんの生活すべてが修行(しゅぎょう)になるという仏教(ぶっきょう)からきた言葉です。起きて顔を洗うことも、食事をとることも、寝ることもすべてが自分の行動を見つめなおす修行なのだそうです。
>先(ま)づ只(ただ)欣求(ごんぐ)の志(こころざ)しの切(せつ)なるべきなり。
まず欣(よろこ)んで求(もと)めるこころざし(目的を実現させようと努力する心)がひたむきでなくてはならない。
>譬(たと)へば重(おも)き寶(たから)をぬすまんと思ひ、強き敵(てき)をうたんと思ひ、高き色にあはんと思ふ心あらん人は、
たとえば貴重(きちょう)な宝ものをぬすもうと思ったり、強い敵をたおそうと思ったり、高貴(こうき)な容色(ようしょく・見た目)の美人とつきあいたいと思う気持ちがあるひとは、
>行住座臥ことにふれ、おりに隨(したがっ)て、
ふだんからいつも、どんなできごとや機会(きかい・チャンス)にもさからわず、
>種種(しゅしゅ)の事(こと)はかはり來(く)るとも、其(そ)れに隨(したがい)て隙(すきま)を求(もと)め心に懸(か)くるなり。
いろいろ事情(じじょう)が変わることがあっても、それにさからわず小さなチャンスをさがし気にかけているものである。
>この心あながちに切なるもの、とげずと云ふことなきなり。
この気持ちがつよくひたむきなひとは、目的をやりとげられないはずはない。
「正法眼蔵随聞記」(しょうぼうげんぞう・ずいもんき)より
鎌倉時代の仏教・曹洞宗(そうとうしゅう)の道元(どうげん)というお坊さんが修行の心がまえをわかりやすく話したという、お弟子(でし)さんの書いた記録です。曹洞宗は地方の武士を中心に広く受けいれられました。
仏教の修行に限らず、目的を実現させようとするひたむきな心があれば、目的はかなうということだそうです。たとえドロボウ(!)であっても。
試験に力が入りすぎると、終わって急に気持ちがぬけてしまうことがあります。大きなできごとの後ほど、ふだんの生活を大切にする。それから、なにを目的にやってきたのか、これからやっていくのか、自分に問いかけます。
試験そのものが目的じゃあないと思うんですよ。(塾長)
「行住坐臥」(ぎょうじゅうざが)とは、「歩く」「止まる」「すわる」「よこになる」といったふだんの生活すべてが修行(しゅぎょう)になるという仏教(ぶっきょう)からきた言葉です。起きて顔を洗うことも、食事をとることも、寝ることもすべてが自分の行動を見つめなおす修行なのだそうです。
>先(ま)づ只(ただ)欣求(ごんぐ)の志(こころざ)しの切(せつ)なるべきなり。
まず欣(よろこ)んで求(もと)めるこころざし(目的を実現させようと努力する心)がひたむきでなくてはならない。
>譬(たと)へば重(おも)き寶(たから)をぬすまんと思ひ、強き敵(てき)をうたんと思ひ、高き色にあはんと思ふ心あらん人は、
たとえば貴重(きちょう)な宝ものをぬすもうと思ったり、強い敵をたおそうと思ったり、高貴(こうき)な容色(ようしょく・見た目)の美人とつきあいたいと思う気持ちがあるひとは、
>行住座臥ことにふれ、おりに隨(したがっ)て、
ふだんからいつも、どんなできごとや機会(きかい・チャンス)にもさからわず、
>種種(しゅしゅ)の事(こと)はかはり來(く)るとも、其(そ)れに隨(したがい)て隙(すきま)を求(もと)め心に懸(か)くるなり。
いろいろ事情(じじょう)が変わることがあっても、それにさからわず小さなチャンスをさがし気にかけているものである。
>この心あながちに切なるもの、とげずと云ふことなきなり。
この気持ちがつよくひたむきなひとは、目的をやりとげられないはずはない。
「正法眼蔵随聞記」(しょうぼうげんぞう・ずいもんき)より
鎌倉時代の仏教・曹洞宗(そうとうしゅう)の道元(どうげん)というお坊さんが修行の心がまえをわかりやすく話したという、お弟子(でし)さんの書いた記録です。曹洞宗は地方の武士を中心に広く受けいれられました。
仏教の修行に限らず、目的を実現させようとするひたむきな心があれば、目的はかなうということだそうです。たとえドロボウ(!)であっても。
試験に力が入りすぎると、終わって急に気持ちがぬけてしまうことがあります。大きなできごとの後ほど、ふだんの生活を大切にする。それから、なにを目的にやってきたのか、これからやっていくのか、自分に問いかけます。
試験そのものが目的じゃあないと思うんですよ。(塾長)