べんきょうなせん(='ω')

べんきょうは論理で考えるトレーニング
熊本県山鹿市中高大学受験の "あすく" です

今日書きました

2016年05月12日 | 熊本地震関連
心配のあまりなんに対してもカンペキを求めるひとがいます。心配する感情は自由です。それを自分自身に課す分にも自由です。現実を変えるチカラが湧くかもしれません

ですが、実際にカタチにしていくには折り合いは避けられません。想像と違い、現実には限りがあるからです

自由と引き換えに社会に受け入れられない。魅力的であり同時に受け入れ難い。どちらかが正しくどちらかが悪いわけではありません。ここに「正解」はありません。この選択をするには、自身でどこかに線引きをするほかありません。他人や世間は参考にはなります。でも決めるのはあなたです

それは妥協です。妥協そのものは悪くない。でも妥協の果てできることさえやらず言い訳だけに生きていく、なにも決められないないままその理由ばかり探して一生を使い潰すことだけは、わたしは選びたくない。自由だけをとるか、結果のため折り合いも選ぶか。被災者としてのわたしは結果を選びます


周りにカンペキを求めながら、自分に「だけ」それを許しているひとがいます。ヒトは、原因を自分以外のなにかに押し付けてしまいます。たとえなにかが悪いわけではなくとも、自分の気持ちが落ち着かないだけだとしても。わたしが誰かに納得をしてもらえないとき、もしかしてそれが理由なのかもしれません。自分のアラだけは目をつぶりたい。無意識だから厄介です

政治家が悪い。行政が悪い。マスコミが悪い。被災者がわがままだ…個別の事案で検討されるべきでしょう。現実は少しずつ変えていけます。ただ


津波がなかったことは幸いでした。火災や下敷きになる被害が少なかったのは対策と準備がされていたおかげだと思っています。これまでの経験と対策が積み上げられていて実際に動ける状態であったことが幸いでした。企業や役所や自衛隊や病院それに被災者自身、それぞれが予想よりずっと早く動きました。事前に災害時の協定やマニュアルが用意されそれが機能したからです。ヒトは経験で成長していきます

わたしは成長できる一員でありたい。わたしがすべきことはまだ山積みです。できることもまだまだあります。経験のときです。一人じゃありませんから、あせる必要もない。批判「だけ」したい人たちの言うことは、話し半分で聞き流しておきます(藤田)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。