これはフィクション。創作です。書き始めるまでに九ヶ月かかりました
自宅が全焼しました。床についた直後で住宅地の真ん中でしたから、家族を引っ張り出し近隣を巻き込まぬよう全力で叫ぶのが精一杯でした。死者と重症はありません。延焼は軽微で済みました。わたしにできることはやり遂げました
消防と警察の実況検分に立ち会いました。失火ではありませんでした
「まさか、そんなことをするとは…」
外でだけよい顔、感情のコントロールは外でだけ。家では怒鳴り殴り書斎に逃げ込んでは、気が向いたときだけやさしくしてみせる。知ったかぶりで何でもクチを挟み、ものの言い方ひとつ覚えない。一昔前の田舎の長男坊によくいます。いい歳こいた子ども。それでもこんなことするとは想像もしませんでした
体調であったり認知症であったり、歳を重ねればみな自分と向き合わねばなりません。そこから逃げることはできない。同世代の死をもとに心の準備を整える時間は人並みにありました
できなくなったことを嘆いて見せたところで状況は好転しやしない。甘え可愛そうだと言ってもらう時期は終わります。周りが可哀想なんだを真に受けていては、24時間傍に付いていなければなにひとつ(感謝すら)できなくなります。小さくともできることはまだありました
家の中のことは外に見えません。人並みに「当たり前に」できていると思われています。当たり前だと思っていたことが通用しない時期も迎えます。家の中ではそれに気付く機会がありませんでした。家の中にそれを隠したいひとがいれば尚更です。それを支持し疑問も持たず付き従い続けるひとも大概だと思っています。自覚も可愛げもない幼児を抱え込むつもりなら救いなんてない。最期まで子どもです
ヒトは周りに影響されながら人格を造り上げます。家族に甘えるにも限度と甘え方があります
これまで反抗することも疑問を持つことも悪いことだと言われ続けた者にとって、それを拭い去ることはできません。最悪が起こらなかったことは幸運でしかありません。どこかで止めるべきでした。長い長い間それを真に受け、感情的で間違いを認めない頑迷さを引き継いでる自分が残念でなりません
クソッタレ
火災時の気分は薄れました。眠れろようになりました。燃え落ちる轟音とガラスが熱ではぜていく音に包まれた感覚が消えません。母が炎にまかれ姿が見えなくなった時の絶望感が消えてくれません
火元へ面会に行きました。ドアをわざと閉め、水をかけようと必死なわたしを何度もジャマした犯罪者に謝る気はかけらもありませんでした。火事の件以外は雄弁で惚けたことほざいてました。今まで通り逃げるつもりなのでしょう。慣れたものです。黙って震えて見せれば勝手に可愛そうと慰めてくれる「ママ」がいまもいます
医者とカウンセラーと牧師まで訪ねました。それはムダにはなりませんでした。ですが、あの感覚は抱えて生きていく外なさそうです。誰もが表に出していないだけで、生きていくってこんなものです
多少理解が得られればと弟にも話しましたが、難しいようでした
重い感情は吐き出すことが難しい。誰か一人に背負ってもらうには重すぎるから。少しずつ小分けにするしかありません。生きていくには自分で抱えなきゃならないことがあります。わたしは逃げずに全うをしたい。だけど。ですけど
死人は出さずに済ませた。それだけは、どうにも耐えられそうにありませんでしたから良かった
すべてが架空の話です(書き手不詳)
[悲しみを克服するためのプロセス]
否定→怒り→悲しみ(受入れ)→回復
かかる時間は様々ですが、この順番を通過できないとムリをしたり引きずり続けたり周りに転嫁したりしてしまいます。当人も無意識ですから感情のコントロールができないという形をとり、真因と直接関係のない行動に見えるため気づき(気づかれ)にくい
相手のココロを受け止めるとは、こういっプロセスを見直し寄り添うことです。一方的に同情したりや道理を説くこととは異なります。一緒に落ち込んだり、囲い込んで当人自身の立ち上がるチカラを削いでも、また別の形で感情が吹き出し回復へは近づけません。自ら立たなきゃ救いはない。プロセスを辿る当人の行動を客観的な目で支援することが必要です。
転んで泣き出した子どもに声をかけ、自ら立ち上がるために、あなたの手を差し出すように
自宅が全焼しました。床についた直後で住宅地の真ん中でしたから、家族を引っ張り出し近隣を巻き込まぬよう全力で叫ぶのが精一杯でした。死者と重症はありません。延焼は軽微で済みました。わたしにできることはやり遂げました
消防と警察の実況検分に立ち会いました。失火ではありませんでした
「まさか、そんなことをするとは…」
外でだけよい顔、感情のコントロールは外でだけ。家では怒鳴り殴り書斎に逃げ込んでは、気が向いたときだけやさしくしてみせる。知ったかぶりで何でもクチを挟み、ものの言い方ひとつ覚えない。一昔前の田舎の長男坊によくいます。いい歳こいた子ども。それでもこんなことするとは想像もしませんでした
体調であったり認知症であったり、歳を重ねればみな自分と向き合わねばなりません。そこから逃げることはできない。同世代の死をもとに心の準備を整える時間は人並みにありました
できなくなったことを嘆いて見せたところで状況は好転しやしない。甘え可愛そうだと言ってもらう時期は終わります。周りが可哀想なんだを真に受けていては、24時間傍に付いていなければなにひとつ(感謝すら)できなくなります。小さくともできることはまだありました
家の中のことは外に見えません。人並みに「当たり前に」できていると思われています。当たり前だと思っていたことが通用しない時期も迎えます。家の中ではそれに気付く機会がありませんでした。家の中にそれを隠したいひとがいれば尚更です。それを支持し疑問も持たず付き従い続けるひとも大概だと思っています。自覚も可愛げもない幼児を抱え込むつもりなら救いなんてない。最期まで子どもです
ヒトは周りに影響されながら人格を造り上げます。家族に甘えるにも限度と甘え方があります
これまで反抗することも疑問を持つことも悪いことだと言われ続けた者にとって、それを拭い去ることはできません。最悪が起こらなかったことは幸運でしかありません。どこかで止めるべきでした。長い長い間それを真に受け、感情的で間違いを認めない頑迷さを引き継いでる自分が残念でなりません
クソッタレ
火災時の気分は薄れました。眠れろようになりました。燃え落ちる轟音とガラスが熱ではぜていく音に包まれた感覚が消えません。母が炎にまかれ姿が見えなくなった時の絶望感が消えてくれません
火元へ面会に行きました。ドアをわざと閉め、水をかけようと必死なわたしを何度もジャマした犯罪者に謝る気はかけらもありませんでした。火事の件以外は雄弁で惚けたことほざいてました。今まで通り逃げるつもりなのでしょう。慣れたものです。黙って震えて見せれば勝手に可愛そうと慰めてくれる「ママ」がいまもいます
医者とカウンセラーと牧師まで訪ねました。それはムダにはなりませんでした。ですが、あの感覚は抱えて生きていく外なさそうです。誰もが表に出していないだけで、生きていくってこんなものです
多少理解が得られればと弟にも話しましたが、難しいようでした
重い感情は吐き出すことが難しい。誰か一人に背負ってもらうには重すぎるから。少しずつ小分けにするしかありません。生きていくには自分で抱えなきゃならないことがあります。わたしは逃げずに全うをしたい。だけど。ですけど
死人は出さずに済ませた。それだけは、どうにも耐えられそうにありませんでしたから良かった
すべてが架空の話です(書き手不詳)
[悲しみを克服するためのプロセス]
否定→怒り→悲しみ(受入れ)→回復
かかる時間は様々ですが、この順番を通過できないとムリをしたり引きずり続けたり周りに転嫁したりしてしまいます。当人も無意識ですから感情のコントロールができないという形をとり、真因と直接関係のない行動に見えるため気づき(気づかれ)にくい
相手のココロを受け止めるとは、こういっプロセスを見直し寄り添うことです。一方的に同情したりや道理を説くこととは異なります。一緒に落ち込んだり、囲い込んで当人自身の立ち上がるチカラを削いでも、また別の形で感情が吹き出し回復へは近づけません。自ら立たなきゃ救いはない。プロセスを辿る当人の行動を客観的な目で支援することが必要です。
転んで泣き出した子どもに声をかけ、自ら立ち上がるために、あなたの手を差し出すように