第二話 火つけ
江戸中期。元禄元年。師走の話である。
江戸は家康の江戸城建立から約百年。百万人の大都会になっていた。全国での米の生産が飛躍的伸び、乾田への切り替えで地方はまた、稲の他に、藍、桑、紅花等、多岐にわたる生産で豊かになりつつあった。
、物流では1670年の初頭には、河村瑞賢が東回りと西回りの廻船を開き、特に大阪では両替、金融業が諸藩の蔵屋敷の管理や出納を行う、というような時代になってきた。
当時の江戸、大阪は米の集積地の他に、大名の藩の財政を管理する重要な出先であった。武士階級においても二大都市は重要な拠点となっていた。
一方、市民の生活は、武家の豪奢ぶりからはまだかけ離れてはいたが、一部の豪商達は江戸、大阪での米の管理ということで、急激に蓄財するものも多くなっていた。大阪、江戸の蔵屋敷とも大繁盛で一部の豪商が権勢を伸ばした。
芝・七軒町・ 銭屋長屋を師走の北風が突き抜ける。
寺子屋では今日も、手習いの真っ最中である。
「おいおい・・・みの吉・・そんなに慌てて書くことはないぞ。今日はな、この壁に師匠が書いたーーいろはにほへとーーこれをしっかりと、ゆっくり見て書きなさい」
「長次・・少し墨が薄すぎるようだな。留吉は、きちっと座り姿勢を正して書きなさい。梅、それでいいよ・・そうそう筆の先はそっと入れ、しっかり伸ばす。止めるところはきっちり止める」
さとがほっぺたに墨を付けて言った。
「梅はね、いつもなにかしゃべり方がおかしいんだよ。だってね・・イロハニフヘト・・・・て いうんだよ」
前歯が一本抜けた梅はまだ少し空気が抜ける。
「少し筆を休めて皆聞きなさい。人間はその身体の特徴や、やや欠けた所があっても、皆同じように一人前なんだよ。欠けた所を笑ったりからかったりしてはいけない。誰もいいところと欠けた所をもっているのだからね」
吉次は、左手で筆を持ち右止めに苦労している。右手の指が生まれついて固まっているのだ。左腕を支えしっかり右の筆止めを教える。
「吉次上手いぞ。その調子だ。左で何でもできるんだからな」
「はいお師匠様。うまく右にしっかり止めることができました」
「さあ。今日はここまでにしよう。筆先はしっかり紙で拭い、道具箱にしまいなさい」
子供たちが嬉々として帰っていく。
「いつもあんなですか。今、水を飲みに行って、お師匠様の部屋の戸があいていたので中を見たらもうびっくり。書物や紙が部屋中に!」
「いや・・すぐにな・・・ちらしてしまうのだよ」
頭に手をやる三之丞。
「では帰りに、はると、ちょっとかたずけておきますね」
いととはるは、年長十三歳で来春には奉公に出る予定だ。
三乃丞はーーこの、差し棒の仕掛けを直してもらおうかーーと長屋の北東角の厠の向かい、飾り職人 時次郎の家に向かった。
「時次郎さんいるかね」
ちょうど河野屋に収める簪の最後の仕上げに真剣な表情の時次郎が、仕事台から顔を挙げた。
「この仕掛けだが少し緩いような気がする。うっかり寺子屋で外れたら大変だからな」
と三之丞が差し出す差し棒を、時次郎は点検し始めた。
「鍵十字の仕掛けが・・少し・・緩いようですな。この簪がすんだらすぐに直しましょうよ」
長身で、長い手足の時次郎だ。
「師匠は今日はこれからお出掛けですか」
「牛込の道場でひと汗流してこようかと」
「では、お帰りまでにはきっちり直しておきましょうよ」
「忙しい折にいつもすまないが、頼みましたよ」
「いつも、長屋中がお世話になっている師匠の頼みだ。何、簡単でござんすよ」
尾張屋長三郎は、蔵元の仕事の合間に尾張藩から頼まれた仕事のために、江戸に向かって二日目のことであった。東海道島田宿からちょうど、宇津ノ谷峠にさしかかっていた。今回の仕事は城郭先端の尾張藩のシンボルともいうべき金のシャチホコの仕上げ細工で、腕の立つ職人を探すことであった。この分野ではやはり、江戸の職人が群を抜いて達者であり、藩主からの強い要請であった。鍵屋からの知らせで何人かの候補者に会いに行くところだ。
ーーそうだ。ちょうどこの辺りであったーー 五年前に旅の娘を助けたことを思い返していた。あれから五年か。わしも年を取ったものだ。と白髪をなでる。
ーーあの時、峠の最後の切り通しのところで、突然女の悲鳴が聞こえ長三郎は、左手の茂みに走り込んだ。無頼者と浪人が、今まさに若い娘に襲いかかろうとしている。そばでは同行と思われる老爺が必死に娘をかばうが危ないーー
「おい。浪人。何をしようとしておる。ここは天下の街道だぞ」
「なんだ! お前は。文句あるのか。たたっ斬るぞ!」
角顔がだみ声で脅す。
浪人は刀を抜くと上段から長三郎に斬りかかる。右に体を交わし鍔先を浪人のひばらに打ち込む。大きくうめいた浪人んはそれでも下から突き上げる。長三郎は刀を抜き、峰を返すと、右肩を目にもとまらぬ速さで叩く。浪人と無頼者は峠の下に逃げ出していった。商人風と侮ったか、見事に撃退されたわけだ。年は取っても長三郎の腕に衰えはなかった。
「お助けいただいて、まことにありがとうございます。お嬢様と江戸へ向かうところでございましたが、この峠で無頼浪人に突然襲われまして」
娘と老爺は掛川から江戸への旅の途中であった。呉服屋を営んでいた片親の父をも亡くし、店を整理して遠縁にあたる江戸 南八丁堀の三ツ池屋弥一郎の元へ向かう途中であった。老爺・弥助一人の供であり、難儀な旅の様子であった。おっとりとした丸顔で目鼻立ちの整った娘は、
「おかげさまをもちまして助かりましてございます。掛川で呉服商をやっておりました前田屋の、しのと申します。お名前をうかがわせていただけませんでしょうか。次の安倍川の宿にて、ささやかでございますがお礼をさせていただきとうございます」
しっかりとした口調での礼の言葉であった。
「いやいや、旅は相見互い。これからの峠越えなどでは宿の籠を使うようになさい。先を急いでおりますので、これにて失礼いたしますよ。尾張屋長三郎と申すものでございます」
大柄で額の広い長三郎であった。
「では、あの尾張藩の蔵元の・・尾張屋様でございましたか」と老爺。
ふたりに黙礼すると、長三郎はあしを速めて東に下って行った。
ーーあれから・・五年の歳月がたっていたのだーー
師走のからっかぜが吹く中を上野の呉服商・吉野家吉政は、今日は供もつれずに深川富岡神宮の奥、あたりの香具師元締め・鬼屋の一八のところに向かっていた。日ごろから店でのもめごとなどの相談と処理人でもあった。
「吉野家の・・この師走も押し迫った中・・今日は何事だい」
「一八親分に手を煩わせるほどのことかどうかですがな・・実はちょっと困っておりましてな。少し痛めつけてやりたい店がありますので」
「ふーーーん。同業者だろう」おみとうしの一八であった。
「実は・・それです。最近やたらと南八丁堀の三ツ池屋に客を取られてましてな。弥一郎は最近すっかり何かコツをつかみ、魚をえたようでしてな」
少し赤黒い丸顔。 どんぐり眼で下から一八を見上げる。
「お前さんもそのあたりを探って・・真似をしたらよかろうに」
「それがどうもつかめんのでござんすよ。そこで・・ちょっと・・・店のあたりで火でも起こればと!」物騒な話だ。
「そいつはちっとな。お前様も知っていなさるだろうに。最近はボヤ程度でも、お調べが厳しいぞ。まして失火でなく付け火とわかったら・・・」
「そこですよ。大事にならない程度で。店先か横路地あたりで少し燃えてくれれば・・三ツ池屋の評判が落ちればこっちのもんです」
と懐の袱紗から二十両を一八の前に置く。
「吉野家さんも恐ろしいことをおっしゃるお人だね。私どもが直接は・・できませんですよ。それにわしらの名前も絶対に表に出ないということですな。こう見えてもね、香具師の商売は脅しタカリより信用と顔ですからな」
「それは、親分十二分にこころえておりますですよ。何とかこの年内に。お願いいたします。年明けには同額で、お礼に伺わしていただきます」
「旦那にそこまで言われちゃ。考えておきましょうよ」と二十両を受け取る。
一八は、吉野家が帰ると信用できる代貸の三蔵を部屋に呼んで密談だ。
「・・というわけで・・界隈の土地者は駄目だぞ。ボヤを起こしたらすぐに江戸を離れるよそ者でなくてはな。木場奥の太西先生のところに・・確か伊勢崎の流れ者がいて下働きをしていたな。奴に因果を含めるように先生にお願いしてこい。この十両でけりをつけてこい。くれぐれも用心するようにな。ボヤ程度でも御上のお調べは厳しいぞ」
と煙管をくゆらせる。
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