その76 11-01-11
去るものを追わず
新年明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。
1月5日から、夫と二人で小旅行にでかけ、昨日帰ってきたところです。
旅行の話は又の機会にお話しするとして、今回は年頭にあたって今の私の思いを書いて見
たいと思います。
2006年に始めたこのメールマガジンも6年半を迎えました。
75回も何を書いてきたんだろうと思い返しています。
その間、出会いがあり、別れがあり、孫の誕生があり、ここ数年親しい人を何人か見送り
ました。
半世紀余りを生きて、夫婦二人だけの生活となると、これまでのいろいろな出来事を思い
返し、語り合う事が多くなりました。
少し前までは、昔の思い出話ばかりする夫に対して、反発的な思いがありました。
私自身は常に前を向いてわずかでも進歩のある生活を送りたい、チャレンジし続けたいと
考えていました。
2009年暮れに父を見送ってから、あまり焦らなくなったというか、私に与えられた時間
をゆったり丁寧に生きようと思うようになりました。
夫に対してもそばにいてくれるだけでもありがたい、一緒に食事をし生活していけるだけ
でも充分と、感謝の気持ちが持てるようになりました。
親しい人達の死に接っして、ああこれはこの人に与えられた時間だったのだと、受け入れ
られるようになりました。
それと同時に、自分を納得させる為に、やっておきたい事、見てみたいことははっきりし
てきました。
その友人は2007年のクリスマスに、滞在先の山小屋の火事で亡くなりました。
私が彼のニュージーランドでの一番親しい友人ということで、警察官がボクシングデイに
やってきて、この事故のことを教えてくれました。
その直後はどうしてと疑問を発するよりも、どう議論しても彼は帰ってこない、この事は
もう考えないようにしようとしていました。
彼は、「クリスマスは仕事やし、お正月ご馳走してや」とトラウトフィッシングのガイド
の仕事に出かけていきました。
その数日後、警察から連絡を受けた私は、自分でも事情がはっきり飲み込めないまま、彼
の日本の家族に連絡を取りました。
ボクシングデイの日、いけばなのおけいこから帰り、花のはいったバケツを家に運びいれ
たとたん、突風でバケツがひっくり返り床が水浸しとなってしまいました。
あの時、彼は山小屋の火事で死んでいて、水が欲しかったのだろうと後で思いました。
病気で覚悟の死なら、本人も身の回りの整理やらできたと思います。
このような突然の彼の死、いきなり消えてしまうなんて、残されたほうが迷惑、
いったいどういうつもりと、当時は怒ってました。
まず彼の猫の行き先をさがし、金魚を川に放し、庭木に水遣りをしました。
すべては当然彼が帰ってくるのを待っていて、それ以外のことは予想できないようで、
私は勘違いの行いをしているようでした。
家を片付け、数ヵ月後、彼の家が売れるまでのもろもろの雑用、事務処理は、仕事感覚で
こなしました。
その時は悲しいとも思わず、涙することもありませんでした。
あれから3年、彼の家から我が家の庭に移植した植物は半分ほどは枯れ、残りは季節がめ
ぐってくるたびに花を咲かせています。
彼のコレクションだったrhododendoron(しゃくなげの改良種)が、お正月からクリーム
色の花を咲かせています。
我が家の庭は、何度植えても私の好きなピンクッションは枯れてしまうし、枯れるたびに
苗を買い、ガーデンセンターを潤わせるのに嫌気がさしていました。
でも今は、残るものは残る、枯れてしまったものはそこには合わなかったのだあきらめが
つくようになってきました。
今回の旅は、Te Arohaから Taurangaを経由して Gisborne、 Napier、Taupoから
Aucklandに戻るというものでした。
旅行の日程を決めてから、そのルートは彼が亡くなったTe Urewera National Parkの周
りをぐるりと回るのだと気が付きました。
Opotokiから Gisborneへ抜ける山道は、私が運転しました。
山の斜面、川沿いのカーブの多い道で、間には小さな村があるだけでした。
この山の向うがTe Urewera National Parkなのだな思いつつ、運転しました。
翌日、Gisborneから Napierから行く途中に、Te Urewera National Parkの Lake
Waikaremoanaに行ってみようと思い立ちました。
Wairoaから往復3時間ほどで行けそうです。
この道、38号線は、Te Urewera National Parkを横断して、Muruparaを経由して
Rotoruaまで抜けることができます。
38号線のTuaiを過ぎると砂利道で電線もなく、電気が来ていないことがわかります。
しばらく走ってもそれらしい湖は見えてこないし、この道があっているのかどうか不安に
なってきました。
しかしながら、以外と対向車が多く、この奥に何かあるとわかりました。
あと10分走って何もなければ引き返そうと思ったところで、キャンプ場にたどりつきました。
湖岸のキャンプ場は、ホリデー客でにぎわってました。
釣り船は10数台停泊していて、少年が家族に見守られながらカヤックしていました。
私達はもっとさびしい所を予測していたので、これまでの道のりから比べると、意外な賑
わいに驚きました。
彼はこの湖の湖岸のどこかの山小屋で亡くなり、この水の続くどこかでフライフィッシン
グを楽しんだのだなと感慨にふけりました。
あの当時は、Te Urewera National Park がどこにあるのかも知らず、彼の家の残された
公園の稜線の多い地図からは、どのような土地が想像することもできませんでした。
今回、夫とこの湖を訪れて、彼への私達なりの弔い、彼の死に対してのclosureとするこ
とができました。
今でもふっと我が家の庭先から短パン、アロハシャツ姿の彼が現れるような気がします。
しかし、あの地を訪れてから、私達は一つの区切りをこえ、過去のこととして受け止め
ることができるようになりました。
亡くなった人はもう戻ってきません。
私達がどんな思いをいだいても、伝わることはありません。
残された私達は、自分の人生を歩み続けなければなりません。
一つ一つていねいに仕事をこなし、充実した一年がおくれますように。
去るものを追わず
新年明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。
1月5日から、夫と二人で小旅行にでかけ、昨日帰ってきたところです。
旅行の話は又の機会にお話しするとして、今回は年頭にあたって今の私の思いを書いて見
たいと思います。
2006年に始めたこのメールマガジンも6年半を迎えました。
75回も何を書いてきたんだろうと思い返しています。
その間、出会いがあり、別れがあり、孫の誕生があり、ここ数年親しい人を何人か見送り
ました。
半世紀余りを生きて、夫婦二人だけの生活となると、これまでのいろいろな出来事を思い
返し、語り合う事が多くなりました。
少し前までは、昔の思い出話ばかりする夫に対して、反発的な思いがありました。
私自身は常に前を向いてわずかでも進歩のある生活を送りたい、チャレンジし続けたいと
考えていました。
2009年暮れに父を見送ってから、あまり焦らなくなったというか、私に与えられた時間
をゆったり丁寧に生きようと思うようになりました。
夫に対してもそばにいてくれるだけでもありがたい、一緒に食事をし生活していけるだけ
でも充分と、感謝の気持ちが持てるようになりました。
親しい人達の死に接っして、ああこれはこの人に与えられた時間だったのだと、受け入れ
られるようになりました。
それと同時に、自分を納得させる為に、やっておきたい事、見てみたいことははっきりし
てきました。
その友人は2007年のクリスマスに、滞在先の山小屋の火事で亡くなりました。
私が彼のニュージーランドでの一番親しい友人ということで、警察官がボクシングデイに
やってきて、この事故のことを教えてくれました。
その直後はどうしてと疑問を発するよりも、どう議論しても彼は帰ってこない、この事は
もう考えないようにしようとしていました。
彼は、「クリスマスは仕事やし、お正月ご馳走してや」とトラウトフィッシングのガイド
の仕事に出かけていきました。
その数日後、警察から連絡を受けた私は、自分でも事情がはっきり飲み込めないまま、彼
の日本の家族に連絡を取りました。
ボクシングデイの日、いけばなのおけいこから帰り、花のはいったバケツを家に運びいれ
たとたん、突風でバケツがひっくり返り床が水浸しとなってしまいました。
あの時、彼は山小屋の火事で死んでいて、水が欲しかったのだろうと後で思いました。
病気で覚悟の死なら、本人も身の回りの整理やらできたと思います。
このような突然の彼の死、いきなり消えてしまうなんて、残されたほうが迷惑、
いったいどういうつもりと、当時は怒ってました。
まず彼の猫の行き先をさがし、金魚を川に放し、庭木に水遣りをしました。
すべては当然彼が帰ってくるのを待っていて、それ以外のことは予想できないようで、
私は勘違いの行いをしているようでした。
家を片付け、数ヵ月後、彼の家が売れるまでのもろもろの雑用、事務処理は、仕事感覚で
こなしました。
その時は悲しいとも思わず、涙することもありませんでした。
あれから3年、彼の家から我が家の庭に移植した植物は半分ほどは枯れ、残りは季節がめ
ぐってくるたびに花を咲かせています。
彼のコレクションだったrhododendoron(しゃくなげの改良種)が、お正月からクリーム
色の花を咲かせています。
我が家の庭は、何度植えても私の好きなピンクッションは枯れてしまうし、枯れるたびに
苗を買い、ガーデンセンターを潤わせるのに嫌気がさしていました。
でも今は、残るものは残る、枯れてしまったものはそこには合わなかったのだあきらめが
つくようになってきました。
今回の旅は、Te Arohaから Taurangaを経由して Gisborne、 Napier、Taupoから
Aucklandに戻るというものでした。
旅行の日程を決めてから、そのルートは彼が亡くなったTe Urewera National Parkの周
りをぐるりと回るのだと気が付きました。
Opotokiから Gisborneへ抜ける山道は、私が運転しました。
山の斜面、川沿いのカーブの多い道で、間には小さな村があるだけでした。
この山の向うがTe Urewera National Parkなのだな思いつつ、運転しました。
翌日、Gisborneから Napierから行く途中に、Te Urewera National Parkの Lake
Waikaremoanaに行ってみようと思い立ちました。
Wairoaから往復3時間ほどで行けそうです。
この道、38号線は、Te Urewera National Parkを横断して、Muruparaを経由して
Rotoruaまで抜けることができます。
38号線のTuaiを過ぎると砂利道で電線もなく、電気が来ていないことがわかります。
しばらく走ってもそれらしい湖は見えてこないし、この道があっているのかどうか不安に
なってきました。
しかしながら、以外と対向車が多く、この奥に何かあるとわかりました。
あと10分走って何もなければ引き返そうと思ったところで、キャンプ場にたどりつきました。
湖岸のキャンプ場は、ホリデー客でにぎわってました。
釣り船は10数台停泊していて、少年が家族に見守られながらカヤックしていました。
私達はもっとさびしい所を予測していたので、これまでの道のりから比べると、意外な賑
わいに驚きました。
彼はこの湖の湖岸のどこかの山小屋で亡くなり、この水の続くどこかでフライフィッシン
グを楽しんだのだなと感慨にふけりました。
あの当時は、Te Urewera National Park がどこにあるのかも知らず、彼の家の残された
公園の稜線の多い地図からは、どのような土地が想像することもできませんでした。
今回、夫とこの湖を訪れて、彼への私達なりの弔い、彼の死に対してのclosureとするこ
とができました。
今でもふっと我が家の庭先から短パン、アロハシャツ姿の彼が現れるような気がします。
しかし、あの地を訪れてから、私達は一つの区切りをこえ、過去のこととして受け止め
ることができるようになりました。
亡くなった人はもう戻ってきません。
私達がどんな思いをいだいても、伝わることはありません。
残された私達は、自分の人生を歩み続けなければなりません。
一つ一つていねいに仕事をこなし、充実した一年がおくれますように。