あの日、3/11は仕事を1時半頃上がって、仕事場の近くのお店カタクラモールで買い物中に遭遇しました。
3/11は、カタクラモールからそれぞれ皆さんの事、いろんな事が心配で、携帯から更新して安否を問いかけたのが15:13。 3.11の携帯投稿
あの日は、自宅に居た二男と携帯で話しながら買い物をしている最中に地震に遭遇しました。
3/11 14:46 私は二男に向かって
「ケッケ~(二男の呼び名)、ママはもうダメかもしれない。頭がおかしくなったみたい。
平衡感覚がないからこのまま倒れて死ぬかもしれないから・・・・・・。」
そんな事を言ってました。
それほど、私の身体は大きく揺れて、まるで船のデッキで大波にのまれそうになりながら、グラグラとゆっくりと揺れている感覚。
周りの人で何人かその揺れに気づいている人が居ますが、歩いている人には解っていないみたいです。
だから余計、私自身がおかしいんだと思って、そんな言葉を二男に告げてました。
長引く揺れに、やっと私だけがおかしいんじゃないと気づくと、吹き抜けの天井の上では、照明器具や装飾品が物凄く揺れていて、同時に二男が
テレビを付けて観ると・・・・・・
「やばい、兄ちゃんの方で凄い地震だテレビのテロップで流れてる
」と尋常ではない声で叫びました。
店内アナウンスも流れ
「ただ今、地震で大きく揺れています。お客様の安全の為、その場に頭を低くした姿勢で座って下さい。」
みたいなアナウンスされました。
「ケッケ~兄ちゃんの所って?」
「凄い地震で、震度6と7とか8とか言ってる何処かが燃えてる
」
「ダメ、もう兄ちゃんに電話しないといけないから、この電話もう切るよ」
と言って、自宅で一人で居る二男の心配どころではなくて、もう私の頭の中は長男の事で精一杯になってました。
あの瞬間、本当に岩手に住む、長男の事しか最初頭にありませんでした。
だけど、二男と地震の前後繋がっていた携帯は、一旦切ってしまったら、誰にも繋がらなくて、私は半狂乱になりそうなくらい、血相を変えて店内のベンチに座り込んだまま立てずに、長男へと電話をかけ続けました。
何度も何度も、何十回掛けても、長男とは繋がらず、三男は携帯を持って居ないから、中学で誘導してくれると信じて何も出来ず・・・・・・。
半泣き状態で携帯を掛け続けて、三男を迎えに中学へ行った時、その駐車場で奇跡的に長男に電話が繋がったのでした。
それが15:30頃。
長男は沿岸部から遠い内陸部の盛岡市に住んで仕事をしているので、車の中に避難している最中だと言って電話が切れました。
その後はまた、電話が通じませんでした。
が、安否確認が奇跡的に取れたので、少し安心しましたが、津波の被害に遭われた大勢の皆さんには申し訳ないのですが、盛岡は津波の被害は大丈
夫でした。
が、ライフラインが止まり、寒い中、暖も取れずに暗い部屋でお隣さんご家族と肩を寄せ合い、1晩過ごしたのでした。
でも、後で聞いた話ですが、長男は3/11の二日後、大船渡の病院へ仕事で行く予定になっていたそうです。
その病院も長男が会うはずだったドクターも、流されてしまったそうです
あの地震が2日後に起きていたら、長男はあの時間その病院に居るはずの時間だったので、自分ももしかしたら流されていたはずだと本人はショックを
受けてました。
その後、長男へ救援物資を送りたくても制限され、我が子に送る事も出来ず、ただひたすら、心配する毎日でした。
会社から沢山の救援物資が遠回りして届いたと言って、何とか食べることも出来るようになりましたが、沿岸部へ薬を届けたり救援物資を会社の人たちと
届けに行った時、長男は何も出来ずただ茫然と立ち尽くしてしまったそうです。
あの時は、救援・救護活動、捜索活動の邪魔にならないことが一番で、薬と物資を届ける事しかできない状況だったそうです。
普段から、何でも前向きで明るい長男が、あの日、救援物資と薬を届けに自分が行くはずだった沿岸部を訪れた時、津波で町が丸ごとのみ込まれた跡を
見てショックで言葉を失くし、心が折れてしまったと、暗い声で電話を掛けてきました。
そんな事があった去年の3月でした。
長男が無事だった事を喜んでいいのかどうかと、心から喜べなかった複雑な心境の時間でした。
長男の同僚も、震災の日は沿岸部に仕事で行っていて、命からがら津波に追われ追われて、高台へと車を走らせて九死に一生を得たと聞いて、本当に怖くて怖くて・・・・・・
だけど長男の同僚も助かって本当に良かったんですが、すぐ間近では命を落とす人も大勢いたので、素直に喜べないという、そんな複雑な時間が長男たちの間でも起こっていました。
3.11から3.12にかけての真夜中。
長野県北部地震。
栄村という所を震源地に、こちらでも大きく揺れました。
けたたましく鳴り響く地震を知らせる緊急速報のエリアメール。
物凄い音で鳴ったと同時に揺れました
長野県北部でも避難所生活を強いられ、被害に遭われた方が大勢いらっしゃるのに、長男が被災してしまった事で頭がいっぱいで、
1年経った今でも、どうしても東北の地震を思い出して怖くなってしまいます。
あれから1年。
大勢の方が、普段通りの生活をしてい突然津波にのみ込まれ、命を失くされました。
友達と仲良くお喋りをしながらの下校途中で、何事が起ったのか解らないままのみ込まれてしまった児童も大勢います。
まだまだ行方不明で見つかっていない命もあります。
本当に無念でどうしようもありません。
まだまだ見えない恐怖(放射能)と戦っている住民の皆さんも大勢いらっしゃるし。
家も想い出も何もかもすべて流されてしまって、仮設住宅で生活されている皆さんも大勢いらっしゃいます。
まだまだ大勢の皆さんが3.11の地震が起きる前の生活に戻っていません。
鎮魂・・・・・・本当の意味で、暖かい春の訪れがありますように