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歩くざふくい まちなかの橘曙覧(たちばなのあけみ) Vol.2 子煩悩

2011-11-08 09:10:32 | 福井のおススメ
今回の歩くざふくいのメンバーは歌人橘曙覧のファンが多いせいか年齢層が高い

その上案内人に負けない曙覧うんちくがある様子。

九十九橋で雨宿りをしながらそんな質問が飛び交います。

九十九橋南詰の三差路久保町と標識のある、向かって左カーブのあるところが橘曙覧の生家跡



            正玄(しょうげん)家跡碑



父の五郎右衛門は文房具商と、家伝来の生薬「巨朱子園(こしゅうえん)」を扱っていたとか。

越前市の酢屋の娘であった母は曙覧を生んだ翌年死去、

父は後添えをその後2人もらったとか・・・当時は女性の死亡率が高くてままあることだったと思います。

でも、父が後添えをもらった頃に母の実家へ預けられた事を思うと、

父の死後、跡取りとして生業に身が入らなかったり、遊郭通いもわかる気がします。

また、ここの生家の近くの九十九橋は交易の要で、船頭さんが遊んだ廓街もありました。


そんな曙覧が家長となり、恵まれた長女、次女を生まれてはすぐ亡くす不幸に見舞われます。

三女の名前が子(たけこ)、父としての切なる願いを感じます。

冒頭の写真のような光景もあったのでしょうが、それも健子が4歳の時に天然痘にかかり亡くなります。

天然痘は曙覧の友人笠原白翁が種痘を広めるまで恐ろしい死病でした。

子供の時から、親子の縁の薄い曙覧はどれだけ愛娘の死を嘆いたのか・・・



足羽1丁目の菩提寺(妙観寺)に健子のお墓を立てています。



お墓の側面には曙覧の自筆が彫られています。

その頃は、藁屋でなく黄金屋(現在の橘曙覧記念文学館)に住んでいたので、

目と鼻の先のお墓に毎日通って偲んでいたかも

その後、曙覧は男の子3人に恵まれています。

子供の頃恵まれなかった親の情を、自分が親になりそれを学びとっていったのかもしれませんね。

さて、次はこのツアーの終点、清貧の暮らしをしていた黄金舎跡へGO



追記:ここの近くの蕎麦屋さんはぶ~たんのお気に入りの1つ

同行者におススメしたらさっそく行ったとか、「おいしかった」と喜ばれました。

橘曙覧ツアーのお食事処にもなるので また、今度ご紹介しますね



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