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歩くざふくい 大安禅寺とその周辺 Vol.2 越前松平藩主の悲劇・・・藩祖の無念

2011-06-30 15:13:43 | 福井のおススメ
越前松平藩の藩主達が眠る御廟所 千畳敷



その一番奥に眠っているのが

越前松平藩の藩祖、結城秀康公

家康は元々松平の名乗っており、

秀康は将軍の兄であり、家康の嫡流との意味合いも兼ねてか別格扱いで松平を名乗っています。

将軍の弟達は尾張、紀伊、水戸と名乗り今は御三家は有名ですが、

その頃は御三家の上の別格だったそうな。

出生は天正2年(1574年)

家康の正妻築山殿のお付きの女中にお手をつけ産ませた双子の片割れとか

3歳まで家康と会えなかったとか、

あまりに不細工な御面相で家康に疎んじられたとか

諸説ありますが、

お顔に関しては

大河ドラマ特別展で書いたように

越前市にある家康、秀康、秀忠三者の木像を見ると

家康公に似ているのは秀康公・・・パタリロのようなお口がそっくり。

(大河ドラマでは前田健さん、あながちにていなくもない)

だから、お顔だけで疎んじて養子に出されたとは思えません。

大河ドラマでは向井理さん演じる皮肉やの秀忠公が素敵ですが、

家康の子の中でも、武将としては秀康公が優れていて、

羽柴、結城と養子に出され名前を変えても

数々の武功で六七万石を勝ち得ています。

ただ、どんなに大大名でも、将軍の座を弟に奪われた事実はかわりません。



家康に愛されていたか、いなかったのか?

父を愛していたのか、憎んでいなかったのか?

ぶ~たんにはわかりません。

ただ、秀康公が結城姓を捨てて松平姓を名乗ったか定かではありません。

名乗っていれば、記録に残っているはずなのに・・・

結城家の菩提寺に葬るように遺言したとも・・・。

大御所家康の次男であることより、

自らの武功で六七万石の藩主になった自分(結城秀康)を誇りたかったのかな?

三四歳の若さで病死(梅毒)した事実に驚きながらも

藩主として道半ば、夢半ばで早世した無念を思うのでした









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