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歩くざふくい 大安禅寺とその周辺 Vol.3 越前松平藩主達の悲劇・・・開基の末路

2011-06-30 16:38:59 | 福井のおススメ
越前松平藩主の御廟所、千畳敷には

藩祖 秀康の墓を奥の中央に、三代忠昌、この大安禅寺の開基である四代光通、四代室国姫と続きます。



写真をご覧いただくと二代目藩主の墓石がありません。

秀康の嫡男で二代目の忠直は歴史好きの方はご存知、

ぶ~たんも子供の頃から聞いてきた逸話の藩主。

この方についてはまた別の機会があれば、書くかも・・・


さて、ぶ~たんが今回一番驚いたのは四代藩主の末路です。

この方は伯父ニ代目忠直が失脚後、実父忠昌が藩主になり

彼が十歳の時、父が没し、若くして藩主になります。

父の十三回忌を機に大安禅寺の開基になったのは

若干二十三歳には政治的にも家臣を掌握し、

大愚禅師を招き開山とできたのは、聡明な教養人だったのだと思います。

福井市新田塚町は「太平記」でも出てくる新田義貞の戦没地と称されています。

そこを整備したり、勝山の平泉寺の楠木正成のお墓を直すなど

彼のおかげで歴史の産物が残されてもいます。

「素晴らしい名君だったのね~」 ぶ~たん感心しきり。


ところがこの名君は悲劇的な最後を迎えます。

きっかけは・・・女性問題 

がっかりしますが、これがただの女性問題でなく、

ぶ~たんポイント①)でもあります。



光通公の左横には 正室国姫のお墓もあります。

この方は二代藩主の忠直と正室勝姫の子、越後高田藩主松平光長の娘(・・・従兄の娘)

太字の勝姫は二代将軍秀忠とお江の子であり、三代将軍家光の妹であり

つまり光通さんの大姑勝姫は、徳川本家の威光をもち、

嫁国姫は女性の明正天皇(後水尾天皇と和子(大姑勝姫の末の妹)の娘)の従妹でもあるわけです。

問題は光通公と国姫に子供が出来なかったこと。

現代でもある跡継ぎ問題。

ここに、光通公に隠し子問題が発覚。

この大安禅寺のある田の谷近くの在所に、

当時二十歳の光通公鷹狩りにお出ましになり、

接待をした田舎娘(当時十三歳)をガールハント

その後に結婚し、江戸住まいの国姫には内緒にしていました。

でも、その子供を今の三の丸、養浩館あたりで産ませて世話をしたとか。

当然ばれます



子供が出来ずに悩んでいる孫娘を泣かせる婿殿に激怒の勝姫は

光通公に起請文(隠し子でなく、国姫との間の子を跡継ぎにすること)を書かせます。

結局、織田と徳川の血を引く超セレブ国姫は、子供を産めない事や

夫や祖母との確執、不和になった夫との関係の屈辱に耐えきれず、自害

隠し子、権蔵はお家騒動の渦中で抹殺されることを恐れえて、幕府へ訴えを起こす。

公でなく、私的なスキャンダルにまみれた名君光通公はここに至って、

己が腹を、正宗でかっさばいて自死を遂げるのです。



名君も脇が甘かったと片付けるには気の毒。

織田家のお市の方の血筋と

結局は粘り腰で天下を獲った徳川、松平家の血筋が

越前でぶつかり合い、結局は藩主を自刃に追い込んだと因縁付ける向きもあります。

でも、同族会社の跡継ぎ問題に不妊、隠し子問題、嫁姑(婿、舅)問題・・・今でもありますよね。

お互いに名家を背負っての婚姻だからこその悲劇だと思います。


千畳敷を出で、橘曙暁の墓所に向かう、語り部さんの後に続きながら、

今の時代の平凡なぶ~たんに生まれて良かった~と思うのでした















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