福井市市街地に住むぶ~たんからすると
一乗谷は奥越の山々へ向かう交通の便の悪い所のイメージがあります。
しかし、今は昔 500年前は真逆でした。
足羽川が大きな交易の路だったのです。
安波賀の三体仏
坂井市三国湊に北前船が運んできた物資を
今の福井市九十九橋付近迄川をさかのぼり運んできたのは知っていましたが、
朝倉氏はその川を更にさかのぼり、安波賀に船着き場を作り
商業都市として整備し、当時は今のお台場みたいに「安波賀見物」もあったそうです。
川を遡るのはとても大変だったと思うのですが
後日、歴史通の話では水量が減った時を選んいたとか
また、安波賀は安らかな波と書きますが、実際は波の荒い難所で波を安らかにとの祈りで命名したそうです。
安波賀の山際には冒頭の写真の春日神社があります。
朝倉氏が開戦前には必勝祈願をしたことでしょう。
1064年創建、1573年の信長による越前侵攻で焼着尽くされ
江戸に入り福井松平藩主によって再建されました。
今回は時間の関係でコースから割愛されましたが、
神社好きのジンジャラー()ぶ~たん次回行ってみたいスポットです。
500年前の安波賀見物をした庶民同様、物見遊山のぶ~たんの前に現れた
石垣は下城戸(しもきど)・・・朝倉城下への門みたいなものだったのでしょう。
スーパー迷路の入口みたいに、先を見通せない作り。
ここのポイントは、西山光照寺跡同様石の大きさです。
同盟軍の浅井家方面にある上城戸(後日に)との違いを見れば一目瞭然
巨石を見せつけることで、対外的に威圧し財力を見せつけたのです。
見えないところは小さい石で組んでいました。
当時、巨石は自らの財力、人力の象徴だったのかもしれません。
確かこの頃、平泉寺の兄弟のお坊さん同士が巨石で牽制し合い、その上の僧侶が手を焼いたとか。
巨石で威圧し、守ろうとした豊かな暮らしも今は昔・・・
織田軍に焼き尽され500年の時を経て、のどかな田園が続いています。
それまで、庶民はどんな営みをしていたのでしょうか・・・
日差しが強く照りつけ始め、ぶ~たんをかきかき案内人さんの後を追うのでした。
一乗谷は奥越の山々へ向かう交通の便の悪い所のイメージがあります。
しかし、今は昔 500年前は真逆でした。
足羽川が大きな交易の路だったのです。
安波賀の三体仏
坂井市三国湊に北前船が運んできた物資を
今の福井市九十九橋付近迄川をさかのぼり運んできたのは知っていましたが、
朝倉氏はその川を更にさかのぼり、安波賀に船着き場を作り
商業都市として整備し、当時は今のお台場みたいに「安波賀見物」もあったそうです。
川を遡るのはとても大変だったと思うのですが
後日、歴史通の話では水量が減った時を選んいたとか
また、安波賀は安らかな波と書きますが、実際は波の荒い難所で波を安らかにとの祈りで命名したそうです。
安波賀の山際には冒頭の写真の春日神社があります。
朝倉氏が開戦前には必勝祈願をしたことでしょう。
1064年創建、1573年の信長による越前侵攻で焼着尽くされ
江戸に入り福井松平藩主によって再建されました。
今回は時間の関係でコースから割愛されましたが、
神社好きのジンジャラー()ぶ~たん次回行ってみたいスポットです。
500年前の安波賀見物をした庶民同様、物見遊山のぶ~たんの前に現れた
石垣は下城戸(しもきど)・・・朝倉城下への門みたいなものだったのでしょう。
スーパー迷路の入口みたいに、先を見通せない作り。
ここのポイントは、西山光照寺跡同様石の大きさです。
同盟軍の浅井家方面にある上城戸(後日に)との違いを見れば一目瞭然
巨石を見せつけることで、対外的に威圧し財力を見せつけたのです。
見えないところは小さい石で組んでいました。
当時、巨石は自らの財力、人力の象徴だったのかもしれません。
確かこの頃、平泉寺の兄弟のお坊さん同士が巨石で牽制し合い、その上の僧侶が手を焼いたとか。
巨石で威圧し、守ろうとした豊かな暮らしも今は昔・・・
織田軍に焼き尽され500年の時を経て、のどかな田園が続いています。
それまで、庶民はどんな営みをしていたのでしょうか・・・
日差しが強く照りつけ始め、ぶ~たんをかきかき案内人さんの後を追うのでした。