猫たちとの思い出をつづります。記憶は薄れていくものだから、忘れないように、思い出すたびに綴っていこうと思っています。どうぞここに置かせてください。
----
今日は蓮の四十九日。蓮ちゃんありがとうね。
猫の体調が芳しくないというニュースをよく見かける日だった。蓮のことを考えているからかもしれないね。3匹も見かけて、猫様とご家族様のしあわせを祈ります。
蓮ちゃんとともに生きられてよかったです。猫の体調不良についてみかけたひとつは、まもなく亡くなりそうという状況とのことだった。無理な治療をしないと決めてそのときまで一緒に過ごされているそうです。
あたしは蓮ちゃんのことで最後に思いっきり治療してしまったね。動物病院に駆け込み、挿管し、心臓マッサージまでやっていただいた。そのことに後悔はないけれど、それでよかったのかな、蓮ちゃんを苦しませてしまったのかなとは、常におもう。
ひとついえることは、本当は絶対一緒にいたかったよね、蓮ちゃん、そういう猫だもの。とにかく一緒にいることが大切な価値観。だからそこについてはごめんね。自分の限界だったともおもっている。
蓮ちゃんと一緒に暮らさせてもらった20年間には、楽しいこと、うれしいこと、たくさいある。だけど、まだ思い出せるのは、蓮ちゃんが亡くなる前のことです。太陽君が亡くなってからのこと、それから蓮ちゃんが少しの間元気で、そのあと体調を急速に崩していったこと。
太陽と比べるともともと体温の低い猫だったけれど、お腹に腹水が溜まるようになってからは、本格的に体温が低くなった。触ると冷たい。おこたに入っていたけれど、出てきてしまうこともあり、体の芯があたたまらないのに、のぼせてしまっていたのだとおもう。あたしなりに工夫をしたけれど限界があった。ごめんね、蓮ちゃん、至らずにくやしい。
帰宅しても蓮がいないのが不思議な気がします。ずっと一緒だったから外にいるときは不在感を覚えることがない。一緒に出かけていたわけではないからね。ただ家にいるときはとにかく不在を感じます。
庭の手入れをよくしています。植物を触っていると少し癒される。なんというか変わっていくのが自然で、目の前の命とともにただある感覚になるからかもしれない。
太陽君が3月13日(金)に亡くなり、太陽の四十九日が来る間際、蓮ちゃんが亡くなった、そして今日は蓮ちゃんの四十九日。
いつだって宇宙は振動し変わっていっているわけだけど、社会は新型コロナウイルスの拡大で大きく変わった。あなたたちが生きていたころとずいぶん変わっていて、あたしはあなたたちの死の悲しみがとにかく大きかったわけだけど、なんというかあなたたちの影響でこうなっているのか、社会の変化でこうなっているのか区別できていない。
社会まで変わったものだから、何かをしているときに「いままでだったら〇〇なのに」「あーあたしだけ〇〇なんだなあ」みたいに感じることが少ない気がしている。あなたたちが生きていたころと同じようにはいかないことが多いのです。
でもやっぱり淋しいよ。
さきほど、蓮ちゃんが亡くなる直前に、母に送ったメールをたまたま見つけました。
ちょうど気づいたところでした。
ギヤオと声がするのであわてていってみたら、トイレのなかで蓮が首をふるような苦しそうな感じ。太陽のような溺れている感じとは違うけど呼吸できてない?痙攣?
いつからかはわからないけど、私が気づいたのはついさっきです。どうしようとおもい、動揺して濃縮器じゃなくて酸素室のほうみて、ああっスイッチ入れよう、車の音がする、もしや帰ってきた。ドア開けて確かめて、酸素室のスイッチいれたところでした。酸素室はいまはほとんど入ってないです。
そうだね、蓮ちゃん、ギャオと鳴いてあたしのことを呼んでくれたんだよね。ありがとうね。呼んでくれて、頼ってくれてありがとう。
一緒に動物病院には行っていません。できることがない気がしてしまって、とにかく病院にすぐに対応してくれるようにと電話をかけていました。そのあとに書いたのがこのメールです。一緒にいてあげればいいのに、こういうところに自分の限界を感じます。
たぶん連日の看病というか勝手な心配で疲れ切っていて、任せられるところは人に任せたかったのだとおもう。あたしはあたしの頑張り方をしようと。
でも蓮ちゃんはとにかく人と一緒にいたがる猫だし、しかも呼んでまでくれたのに、母と先生に丸投げしてしまった。蓮ちゃんごめんね。無理な強制給餌に付き合ってくれたのに勝手に疲れて、蓮ちゃんはもっと大変だったろうに。
覚えておきます。
蓮ちゃんありがとう。大好きだよ。
一度投稿します。今日はもう1本書かせてください。
◆臼村さおり twitter @saori_u
思考していることを投稿しています。
◆エネルギーサロン・タンタン
~身体の健康と無意識のパワーへ Have a Beautiful Day~