先だって、英字週刊紙New York Times Weeklyをまとめ読みしていて、はっとさせれる記事に出会いました。
悲しみにヒエラルキーではない、という記述でした。
悲しいことがあったととき、その悲しみは人と比べる必要はないという指摘がありました。
「ほかの人に比べて自分の悲しみはたいしたことないから、悲しむべきじゃない」だとか、「もっと大変そうな人がいるのに悲しむのは図々しい」とか、「あなたの悲しみの対象よりも、世の中にはもっと大切なものがあります」とか関係ない。感情には、上下関係、順位、ヒエラルキーはないとのこと。
あたしたちは社会で生きているわけですから、必ずしもそうではないかもしれません。けれどもあたし自身は、悲しみにヒエラルキーはない、という言葉に救われたのだ。
3月13日、4月29日と相次いで、2匹いた猫が亡くなった。
もう失意のどん底です。とても悲しい。悲しみにもいろいろあって食欲がなくなってしまうという段階は過ぎた。涙が止まらないという段階も過ぎた。いない日常が、進行しつつある。でも悲しいなあ。
そして、「いないのがずっと続くんだな」とまざまざと感じております。なんというか亡くなったというのが非日常だったから、どこかで期間限定のような気がしてしまっていて、でも死んで肉体が亡くなってしまったというのが常態なんだなあと。
これが日常わけだから、あたしは生きていかなければならないのだなと。うん、蓮ちゃん、太陽君、ありがとうね。がんばるよ。
それと同時に、心のどこかで「今、世の中が大変な時期だから、猫の死で悲しんでいるのは図々しいのではないか」ということを始め、世界のニュースをみたり、いろいろな方の話を聞いたりしたときに、少し自分の悲しさに罪悪感を覚えてしまっていた。
相手には寄り添うように心がけます。だけど何もあたしが自分の悲しみまで、感情まで遠慮することがないのだなとあらためておもえたのでした。
これは、あたしがほかの方に言ったことがあることでもあるのに、いざ自分のこととなるとやっぱり同じことをしてしまいますね。
そして、そういうふうになったということは、誰かの悲しみを目撃したとき「そんなのたいしたことない」「あたしのほうがもっと大変だ」とおもっている自分がいるということなんだとおもう。
気をつけようとおもったのでした。そういうのは好みではないと、身をもって知りました。
ということを、忘れないようにここに書いてみた。
ではまた
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