数日前に引き続き、地元にあるファミレスに朝食を食べに行っていた。
実は数日前に行ったとき、怖かった。ほかのお客様に対して、恐怖感を覚えた。
席はそれほど混雑しているわけではなく、むしろ空いていた。だけどコーヒーをセルフサービスで入れるドリンクバーゾーンが混んでいた。
距離をとったほうがよいかなと、ドリンクを入れている方のうしろあたりに立って待つ。すると、次々と追い越されて、そのゾーンはずっと人がいる。
ようやく空いたかなとおもったから行ったら、途中ですごいそばに近寄られ、やはり怖かった。
怖かった。他人が怖かった。少し他人を恐れ過ぎではないかとおもった。恐怖を感じてる自分の感情に少し驚いた。怖かった。
ソーシャルディスタンスという言葉はあまり好きではない。
なんとなく社会的に離れないといけないように感じる。最初この言葉を聞いたとき、なんとなく村八分とかいじめを連想した。
かくいうあたしはいわゆるいじめられっこだった。だいたい小学校6年生と中学校時代。暴力をふるわれたり、ゆすられたりはなかった。ただ避けられた。
だから、仲間外れをしたり、何かを避けたりすることには、人一倍敏感だとおもっている。自分がやられて嫌だったから他人にはやりたくない。
なのに、フィジカルディスタンス(physical distance)として身体と身体の間の距離をあけることはもちろん、心理的にも怖がり、近づいてくると「来ないで」とおもう。
ショックでした。
話が少し飛躍するけど、報道やニュースをみていても、世界の少数民族の話に人一倍アンテナが立つのは、おそらく同じ理由だとおもう。独自の文化を持っている少数派を応援したくなるし、そういう方たちが自分らしい生き方をできる世の中になればいいなとおもっている。
このままにはしておけん。
このままファミレスに行くのが怖くなるのも嫌だし、自分の気持ちを見つめたかったりもしたので、今朝ふたたび同じファミレスに参りました。
前回より空いている。常連っぽいお客様もそんなにいない。だから雰囲気が前回とは異なるのかもしれない。だけど、前回ほどは怖くなかった。
けれどもやっぱり少し怖かった。
そこで過ごしながら、あれこれと自分の心を見つめ直し、気づいたのです。
誰かを避けるという行為の基準点は、相手が嫌いだからという「相手基準」ではなく、自分を守るという「自分基準」のこともあるんだなと。
いい意味でも悪い意味でも、相手に人格はない。相手のことをおもってないし、あるいは相手を憎んでではない。(嫌っているというのはあるかもだけど。)
そして学校のいじめや、場合によっては社会でのいじめは、いじめる側の多くは自分も守るためにやっているのであって、いじめられる側が悪いわけではないのかもしれないと。
きっかけや原因はあるのかもしれないけど、こてんぱんにいじめられなければならないほどものではないと。
よく言われている話だけど、腑に落ちたというか、納得したというか、なるほどとおもいました。
湊かなえさんの小説「告白」を読んだときにも同じようなことを考えていた。
⇒ 湊かなえ著「告白」(双葉文庫) 読書感想 エンタメと孤独
極端なことをいうと、いじめの相手は誰でもよい。「自分を守る」ことに立脚して、自分のことを軸とした記憶だから、相手のことは重視していない。
だからよくいじめた相手は、いじめたことを忘れてしまうといわれているんだろうね。
いじめられるほうはそうではないのは、あたしがよく知っている。
とはいえ、ねたみといじめは異なっていて、感情の強さとしては、いじめよりもねたみのほうが強いんだなあともおもった。
妬みは自分ではなく相手のことが気になり、ある意味、相手は誰でもいいわけではない。相手に個性を認めている。相手軸、相手基準だったりする。
だからって、もちろん、ねたまれるよりいじめられるほうがいいと言いたいわけではない。
ねたみについては、また今度書けたらいいな。
そんなことを考えていた朝でした。
夜になって少し冷え込んでいる。今ふと嫌な予感がして、エアコンのリモコンみたら、暖房じゃなくて冷房をつけていました。寒いわけだ。
みなさまも心身ともにどうぞあたたかくお過ごしください。
ではまた
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