<「金鐙」の「八幡神社」>
●歩いた日:2023年7月31日(月)
●歩いた所
・黒 鐙(清水):上黒土、金鐙
・国 見(横沢):下仲島、豊成、新山、大動防、八幡前
・東長野(豊川):新山
●歩いたログ(足跡)(道のり7.3km)
(以上の地図:国土地理院)
(📸011から)引き続き県道を西に向かう。右手には「金鐙」の家々が建ち並ぶ。
大きな十字路がある。
📸012:「金鐙」の風景5
右手奥から来たところ。県道と「斉内川」に挟まれた一画に家々が建ち並ぶ。写真では良く分からないが、この辺りも小高くなっていて、洪水被害のないところなのだろうか。
十字路からまた「斉内川」にかかる橋に向かう。
📸013:「坂ノ上橋」から下流を望む
橋の上から今度は下流を望む。橋の名前は、ここも橋の北側の地名をとって「坂ノ上橋」。
奥に見える高い建物は「中仙カントリーエレベーター」。
川の左岸を注意して見ると、堤防が二重に築かれているように見える。古い堤防の外側に、もう一つ堤防を築いたようだ。
橋から十字路まで引き返し、また西に向かう。少し行くと左手に神社があり、道端には白い標柱が立つ。
📸014:「金鐙」の「八幡神社」
標柱は「菅江真澄の道」のもので、「金鐙八幡神社」と書かれている。説明書きには「いにしえ源義家かねのあぶみを柳の木に掛けて息らひ給いし地なりといえり村名となれり」とあり、「金鐙」の由来を記している。
駐車場の奥の、屋根を葺き替えたばかりに見える社殿に向かう。社殿の手前にもう一つ標柱がある。
(「金鐙清水」の標柱)
この標柱にはもう少し詳しい由来が書かれている。
永承6年(1051年)に始まった「前九年の役」で、「鑓見内」の「幕林」に陣を張る「源義家」と、「八乙女城」に陣を張る「阿倍貞任」軍等との合戦は長期戦となっていた。「義家」は合戦の合間に馬で遠乗りをし、この地で休息をした。当時の鐙は木製が一般的であったが、「義家」は鉄製の鐙を使用しており、それを柳の枝にかけて一休みしたことから、この一帯を「金鐙」と呼ぶようになったと伝えられている、とある。
前掲写真に写る東屋は、清水に訪れた人が休憩するために作られたようで、その奥の木立の中が清水である。清水を一周する。
(「金鐙清水」)
清水の周りは鬱蒼と木立が茂って、いかにも涼しげである。
古い標柱の脇に石の階段がある。この清水で洗い物でもしたのだろうか。あるいは馬を入れて洗ったのだろうか。「六郷」には「馬洗い清水」というのもある。
(⑥に続く)
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