<北から「菻沢」を望む>
●歩いた日:2021年6月7日(月)
●歩いた所
・上深井(飯詰):谷地中、矢矧殿、松葉野、耳取
・飯 詰(飯詰):碇、披
・境 田(飯詰):下八百刈
・金沢西根 :上菻沢、中菻沢、下菻沢、釜蓋、下糠塚
・藤木(旧大曲市):乙板杭
●歩いたログ(足跡)(道のり6.2km)
(以上の地図:国土地理院)
県道をさらに南に向かう。
📷02:「菻沢」を望む
高い木立が目立つ大きな集落である。ログ地図には「下菻沢」と記されているが、調べると、西側が「下菻沢」、中央から南にかけて「中菻沢」、東側が「上菻沢」である。「佐藤 章」の生家は「下菻沢」だったが、その場所がわかるかな、などと思いながら歩いていると、左手(東側)の田んぼ中で面白い光景を目にする。
(「カラス」の行進?)
田んぼを耕すトラクターの後ろに何羽もの「カラス」が舞い降りている。そして、トラクターの動きにあわせて、まるで行進するかのように全員?がその後を追っている。掘り起こされた土の中から餌を探しているのだろう。それにしてもこんな光景は初めて目にした。
県道をさらに南に進み、集落の一角に差しかかる。
📷03:「下菻沢」の一角
県道から少し入ったところに奇妙な姿をした大木が立つ。幹が途中から伐られ、枝も払い落されたた木のようだ。
幹にまとわりつくように付いているモジャモジャ?は、払い落とされた枝の根元から出て来た新しい芽のようである。木はたくましいものだ。
それにしても、どうしてこんな姿にしたのであろうか。大量に落ちる枯葉が県道の交通の支障になるからだろうか。作業も大変だったろうに。
木を見ている間に奥から軽トラが出て来たので、集落の中に通じているのであろうと思って、その道に向かう。奥に写る家の脇を抜けて行くと、気にしていたものがいきなり見つかる。
(「佐藤 章」の石碑)
「明田地」に建っていた石碑と同じで、同時に建てたものと思われる。こちらには「民間飛行士 佐藤 章 生誕の地」と刻まれている。探すまでもなく、生まれた場所に来てしまった。
「佐藤 章」については先回の「六郷東根を往く-2」で触れたが、今回も少し書き足す。
「旧大曲市四ツ屋を往く」で書いた「新谷地」の医者こと、現在は「四ツ屋小学校」のすぐそばに移転している「高階医院」の院長で、90歳を超えてからも現役の女医として患者を診ておられる「高階 高」さんが書かれた「続 思い出の小函をあけて」という本が手元にある。その本の中に「佐藤 章」に関する記述がある。
それによると、「高」さんの母親の実家が「佐藤」家の近くで、「佐藤」家は大地主であったとのこと。近いこともあって両家には交流があり、氏が郷土訪問飛行の時、花束を贈呈したのは「高」さんの母親の妹だった、とある。
また、「高」さんの父親は旧制「横手中学(現横手高校)」で「章」氏の後輩で寄宿舎生活を共にし、上京してからも深い付き合いがあり、「章」氏に飛行機に乗せてもらったと聞かされていたことが書かれている。乗せてもらった時の父親の感想が「タマシボロギした」であったともある。「タマシボロギ」は秋田弁かも知れないが、「タマシ」は「魂=心」で、「ボロギ」は「ほろく」からきた言葉のようだ。「ほろく」を辞書で調べると「ぼろぼろ砕ける」とあり、また、秋田弁で「ほろぐ」は「払い落とす」ことを意味する。すなわち、「「タマシボロギした」とは「魂(心)が砕けてなくなったような、あるいは、払い落としてしまったような状態」、つまり「肝をつぶした」、あるいは「生きた心地がしなかった」ということである。
(その3に続く)
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