<今回歩いたログ(足跡)>
●歩いた日:2016年3月24日(木)
●歩いた所
・四ツ屋:上水吞場、吉清館、小萱場、草刈野、草刈野上川原、八幡野、中台、川口、新屋敷、虎ノ口、中古道、上古道、上原野
●歩いた位置
●歩いたログ(足跡)(道のり7.3km)
(以上の地図:国土地理院)
この冬(2020~2021年)は例年にない大雪に見舞われており、とても「仙北平野」を歩き回る状況にありません。このため、「旧大曲市花館を往く-3」のブログ末尾には、雪が消えるまでは季節の話題などを掲載していくつもり、と書きました。しかし、その後、過去に歩いた記録を改めて見ると、「仙北平野」歩きを初めて間もない頃に歩いたログで、ブログに掲載していないものがありましたので、だいぶ以前のものになりますが、その記事を掲載していきたいと思います。
歩いたところは、「四ツ屋を往く-5」で歩いた「四ツ屋」の中心部の西側、「国道105号」と「玉川」の間に位置する場所です。
それでは本文に入ります。
「玉川」に架かる「勝田橋」(ログ地図の左上隅にのぞく)にほど近い場所、「上水吞場」の道沿いに「新谷地ライスセンター」(米の乾燥・調製施設)がある。この時期は稼働していないので、その施設の敷地の一角に車を停めてスタート。
東に向かって進むと道は緩い登りになり、河岸段丘の上に出ると左手から道が合流する丁字路がある。そこを通り過ぎて、「新谷地」の中心集落、「吉清館」に足を踏み入れたところで振り返る。
📷001:「吉清館」の一角
左手奥から緩い坂道を登って来たところ。通り過ぎて来た丁字路は道奥のビニールハウスの辺り。
立っている所はY字路になっており、右手に延びる細い道が昔の道のようだ。
「新谷地」は古くは「新谷地村」といったところで、「明治」の立村・合併(M22年)で、周辺の村と合併して「四ツ屋村」の一部となった。現在は「大仙市」の大字となっている。
ところで、「新谷地」を「地名へのいざない」でひもとくと、「玉川の左岸湿地を新しく開墾した場所」とあるほか、「言い伝えによると、金津谷権頭が出身地、新潟と菅谷から一字を取り新谷地と命名した」、あるいは「寛永6年(1629年)、藩から水野了徳にあてた御指紙(命令書)によって開拓した」との記述がある。
また、「新谷地」の中心集落のひとつ、「吉清館」を同様にひもとくと「ここに古館(砦、城)があったという言い伝えがある」とある。
いずれにしても、「新谷地」はかなり古い歴史をもつところのようだ。
Y字路右手の細い道を進み、先ほどの丁字路に向かう道に出、北に向かう。ログ地図に「了徳」と書かれている集落に入ったところで右に折れ、やや細い道を少し進んだところで、この道が集落の東側を北に延びていることを確かめて引き返す。
広い敷地にゆったりと建ち並ぶ家々の間を東に向かう。家並が途切れたところで丁字路に突き当たり、そこを右折して杉木立が立ち並ぶ道を東に少し進んだところで振り返る。
📷002:「草刈野」の一角
道の左側、ベージュの壁の建物の向こう側を左手からこの道に出、手前に来たところ。
道の左手奥に建ち並ぶ集落は「草刈野」、杉木立の右手は、一段低い低地で「草刈野上川原」である。「草刈野上川原」は、文字通り「玉川」の氾濫原であったところだろう。
ところで、左手奥の集落のところには、ログ地図では「了徳」と記載されている。改めて字地名を調べると「了徳」という字地名は見つからない。一方、「地名への・・・」を調べると「了徳」と「草刈野」の両方が載っている。
それによると、「了徳」は、藩政時代の医師、「水野了徳」の人名地名ともある。前述したように、「寛永6年」(1629年)に、藩からの御指紙を受け取ったと云われる人が「水野了徳」である。いずれ、「江戸時代」の初期に、この辺りに「水野了徳」という医師が住んでいたと思われる。「了徳」は地名というより集落名なのだろうか、よく分からない。
両側に広々とした田んぼが続く道をしばらく東に向かう。道が右手に少しカーブしたところを過ぎると、前方に高い木立が立ち並ぶ集落が、左手の田んぼの奥に神社が建つ杉林が見える。さらに進んで集落に入る手前に、左手に延びる細い道がある。その道を少し進んだところで前方を望む。
📷003:「八幡野」の道
途中から切り倒された木もあるが、道端左手前と奥には樹齢を重ねた木が生い茂り、茅葺屋根や道沿いの田んぼともあいまって、子供の頃に見た風景を思い出させる。この道も昔からの道と思われるので、最後に昔の航空写真で確認してみたい。
道の左側(西側)一帯は「八幡野」である。その一角にこの後立ち寄った「八幡神社」がある。神社にちなんだ地名のようだ。
(その2に続く)
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