<歩いたところ(一部)のH28年の航空写真>
●歩いた日:2024年9月25日(水)
●歩いた所
・板見内:長仙寺、北畑、蛇塚、君信、関口、下川原
・三本扇:羽見内、高野、宮内、侭下川原 ※「三本扇」は「旧太田町横沢」に属す。
・本堂城回:西館、北館、嶋田 ※「本堂城回」は「旧千畑町千屋」に属す。
●歩いたログ(足跡)(道のり7.9km)
(以上の地図:国土地理院地図に加筆)
最後に、いつものように歩いたところの今と昔の航空写真(「国土地理院」の写真に加筆)をご覧いただく。まずは、H28年の写真で、歩いたところの西側。
(H28年-1)
いつものように緑鮮やかな写真。左上に「川口川」、右下に「矢島川」が流れる。
左下に「本郷構造改善センター」が写り、その裏(西側)にある、「県道305号」沿いの広場が車を停めた場所(「P」の位置)。ピンク色の線が今回歩いた道筋。
赤書きは大字(オオアザ)地名である。「蛇塚」、「君信」、「関口」などの「板見内」は「旧仙北町」、「西館」などの「本堂城回」は「旧千畑町」、「羽見内」などの「三本扇」は「旧太田町」で、今回歩いたところは旧3町にまたがっている。
中央下端に「本堂城跡」が写る。広い跡地の北西側に見える大きな木立は、📸004:「本堂城跡」を望む、に写る木立。
中段やや上に、西から「板見内神社」、「水尺神社」、「霊仙寺」が並ぶ。「板見内神社」の南側に、本文で書いた大きな池が写る。「霊仙寺」の西から南側の道沿いにある墓地(墓苑)に留意しておいてほしい。
右上隅、「県道305号」がカーブしているところに、本文の写真に写る桜の木が見える。桜の木のすぐ西側、「旧仙北町」と「旧太田町」の境に当たるところに「史跡の里」の標柱があった。
次もH28年の写真で、歩いたところの東側。
(H28年-2)
前掲写真と同様、ピンク色の線が歩いた道筋。上端右寄りに「侭下川原橋」が写る。
中央やや右上のところ、県道端にある木立が📸(カメラ)009に写る社の場所である。
ところで、この場所を探している時に気付いたことだが、ピンク色の「➔」で指したところにも大きな木立が写っている。ここは歩いた道筋に当っており、道端に木立はなかったはずだ。写真は最近のH28年なので、現在と違うことはないはずだが・・・、と思いながら、改めてその周辺を眺めてみる。すると、「羽見内」から「儘下川原」にわたる田んぼが小区画でしかも不整形の区画が多い。
この辺りは、H28年以降に大区画にする圃場整備事業が行われ、田んぼの区画がこの写真と現在は異なっており、事業の実施に伴って「➔」の木立が消滅したと思われる。
次はS51年の写真。これも歩いたところの西側から。
(S51年-1)
中央左下寄りの「P」が車を停めた位置。ピンク色の線は、当時は開通していなかった現在の「県道305号」の道筋を書き入れたもの。
右上に「霊仙寺」が写る。木立で囲まれた境内の南側に墓地が見える。しかし、現在は白い線で囲んだところも墓地になっている。この地域の戸数はそんなに増えているはずはないのに、なぜこんなに墓地を広げる必要があったのだろうと考えてしまう。推測するに、田んぼを大区画に整備する中で、それまではそれぞれの集落や個人の敷地にあった墓を移転し、寺の近くに造成した墓地に集約したのではないだろうか。
「板見内神社」の南にある池から、現在は付け替えられてなくなった細い水路が西に延びている。この池が農業用水を供給する、ため池である証である。
前回の「横堀を往く-7」でも書いたが、「八景橋」の北側に工事が途中まで進められている広域農道が写っている。
(その⑧に続く)
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