<「中野」から「曲甲」を望む>
●歩いた日:2024年1月20日(土)
●歩いた所
・豊 受:観音堂、川端街道下、治内野、上八丁堀、喜内野、下野、中野
●歩いたログ(足跡)(道のり6.2km)
(以上の地図:国土地理院)
ここ(📸011の地点)から今来た道を引き返したくもないので、雪に足をとられながら水路脇を車道目指して北に進む。車道に出たところで橋の上から用水路の北を望む。
📸012:「喜内野」付近の「仙北平野一号幹線用水路」2
奥に鬱蒼と茂る杉林が広がる。
以前に歩いた「豊川・豊岡を往く」では、写真の杉林の辺りを巡った。その時知ったが、杉林のすぐ向こう側に「古川端」という地名がある。「古川端」は文字通り「古い川の岸、端」に由来する地名である。ということは、用水路左(西)の低地をかつては「斉内川」が蛇行して流れていたことを示しているようだ。
橋を渡ると「下野」で、しばらく東に進んで「中野」に入ると、今度は「栗沢川」にかかる橋がある。川の下流(南)を望む。
📸013:「中野」付近の「栗沢川」
こちらは水路ではなく、「斉内川」支流のれっきとした河川である。
右手奥に見える建物は、「仙北平野一号幹線用水路」が「斉内川」を横断する手前に建つ、水路の管理施設である。その向こうの杉林の左端に「上堰跡」の標柱が立つ。
橋上から「東山」をアップする。
(「中野」から「曲甲」を望む)
深い谷筋(「斉内川」の源流部、「真木渓谷」)の奥に、左側に傾いた、独特な形のピークが見える。「国土地理院」の地図には「甲山」と記載されているが、地元の人は、その形から「曲甲(マガリカブト)」と呼んでいるようだ。
この山は、「秋田」・「岩手」県境の稜線から西に少し外れた「秋田県」側にある。
だいぶ前になるが、この山に登ってみようと頂上右手奥に見える稜線にたどりつき、稜線から頂上へ向かおうとした。しかし、道がなく藪こぎをしなければならないので、諦めて引き返した。渓谷の奥にある登山口からほとんど真上に見上げる姿はなかなか迫力がある。
さて、ここから車に引き返すことにする。帰りはできるだけ違う道を歩きたいが、車道以外は雪で歩けないので、今来た道をまっすぐ西に向かうことにする。
少し西に進んだところで北を望む。
📸014:「下野」から「杉ケ崎」方面を望む
右手に大きな建物が見える。旧「豊成中学校」の校舎と体育館である。ここには「旧中仙町豊岡を往く」(2020年9月2日~掲載)で立ち寄ったが、その時の記事にもあるように、その年度(令和2年度)限りで閉校(「中仙中学校」へ編入)になっている。なお、学校HPによると、「豊成中学校」は創立68年を数え、「大曲仙北地区」の中学校では一番歴史が長かったとある。新制中学校は戦後に創設され、しかも早い時期にほとんどの学校が統合・編入された。我が母校は、私が在学中だったS30年代の後半には統合となって、20年足らずの歴史に幕を下ろした。
左手に見えるのは「中仙東保育園」。奥に白い山が見える。雪の状態からは千メートル以上の山である。中央の尖った山は「森吉山」と思われるが、自信はない。
ひたすら西に進む。「喜内野会館」の広場の一角に足を踏み入れ、標柱と石碑を見る。
(「菅江真澄の道」の標柱)
「仙北平野」のあちこちで見られる「菅江真澄の道」の標柱である。
下に「駒繋野」と記されている。「駒繋野」は「地名へのいざない」に記されおり、「草刈場で草運搬のため馬を繋いだ場所」とあるが、現在の地名としては見当たらない(ここは「喜内野」)。この辺を昔は「駒繋野」と云ったのだろうか。
標柱にはまた「養蚕舎は駒繋野に在り東西十二間南北六間 男女入りみちて(満ちて?)百余人養うわざ賑ははし」とある。ここに蚕を飼う大きな建物があって、大勢の人が働いていた、と読める。
日本で養蚕が盛んになるのは「明治」になってからであるが、「真澄」がここを訪れたのは「文政12年」(1829年)と記載されているので、ここでは「江戸時代」から養蚕が行われていたようだ。
なお、「地名への・・・」にも記されているが、今回車を停めた場所から東に延びる道沿いの地名は、「治内野」、「喜内野」「下(シタ)野」、「中野」で、さらにその東に「上野」、「柏木野」もあり、「野」の付く地名が続いている。この辺一帯がかつては原野であったことを示していると思われる。
(⑤に続く)
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