<「西村」の一角>
●歩いた日:2024年3月24日(日)
●歩いた所
・栗 沢:柏木野、向野
・大神成:野中、十二田、坊谷地、蓬田、山回、上村、前田、西村
●歩いたログ(足跡)(道のり6.0km)
(以上の地図:国土地理院に加筆)
ここ(📸010)から引き返すことにし、十字路を横断して西に向かう。少し行くと橋がある。
📸011:「上村」付近の「内沢川」
橋は「上村橋」、川は📸008にも写っていた「内沢川」で、橋の上から川の上流を望んだ写真。
前にも書いたように、「十二田川」よりもだいぶ広く、ログ地図を見ると、この川の上流にもため池が作られている。この地域にとっては「十二田川」と共に住民の命をつなぐ川だったと考えられる。
上流にも橋が見える。石橋である。昔の道はそちらを通っていたのだろうか。後で昔の航空写真で確認してみたい。
「上村橋」を渡ると「前田」である。「前田」の家々が建つところを北、そして西に進むと集落会館がある。
📸012:「前田」の「大神成自治会館」
暗くてよく見えないが、中央の入口の上の看板に「大神成自治会館」とあり、入口脇には乗合タクシーの停留所を示す黄色の立看板がある。この辺りが「大神成」の中心になるのだろう。
集落の南側を通る道をさらに西に向かう。道のすぐ南側から「斉内川」にかけて田んぼが広がっている。「前田」の地名は、集落の前面(南側)に広がる田んぼに由来していると考えられる。
引き続き西に進む。「前田」から「西村」に入ったところで振り返る。
📸013:「西村」の一角
右手奥から来たところ。写る家々は「前田」で、左手に延びる道の手前側は「西村」になるようだ。
「前田」、「西村」、そして「上村」などの地名からもわかるように、「大神成」は、山裾の台地状の土地に小さな二つの川の水を最大限に生かして田んぼを拓き、明治以前には「村」を形成していた。
このこととは対照的に、台地の下の広大な土地は水を確保できなかったため、戦後まで森林・原野のままで、「野中」、「向野」、「柏木野」などの「野」の付く地名が連なっている。
さらに西に進む。道が右手に大きくカーブした先に五差路がある。
📸014::「西村」の一角2
右手奥から来たところ。前掲写真と似たような風景であるが、写る家々は「西村」である。
もう一度地名について・・。「西村」、「上村」は文字通り西及び上(カミ)に位置する村のこと。では、どこから見て西及び上なのか、その真ん中にある「前田」から見て、である。このことからも「前田」が中心のムラ(集落)だったと考えられる。
五差路から西は、傾斜がややきつい下り坂になっている。台地から降りていくような感じだ。少し行ったところで北を望む。
📸015:「坊谷地」方面を望む
奥に見える家並は「坊谷地」。先ほどは家並を通る道を左から右に向かった。
手前の田んぼは、一枚毎に大きな段差がある棚田である。この辺りは傾斜がやや急で、さらに西に行くと次第に傾斜が緩くなる。
(⑥に続く)
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