故郷の山&川
故郷には吾妻の支流が流れていた。標高2000m山々が囲む、上信越国立の高原台地私のが故郷だ。
登山との出会い!
鹿沢♨手前の南向き斜面で、両親はカラマツの植林をしていた。昭和30年初頭、小学校入学前の私は斜面下の林道の端の親が作った小さの焚火の傍で遊んでいた。焚火には薬缶が掛かっていた。林道は湯ノ丸山への登山道でもあった。通り掛かった登山者の一人が『お湯をもらいたい?』と親に声掛けして休憩し、小さな可愛げのない私にもおやつを分けてくれた。これが私の登山との最初の出会いだったと思う。長じるに連れ山は雄大で偉大な遊び場になっていく。
在日米軍との闘い!
この頃、朝鮮半島での戦火は消えていたが終結宣言が出されないため、米軍は自衛隊と共に地蔵峠で山岳訓練に励んでいた。家の前の道路を軍の車列が行き来する。戦闘用車両だけでなく、鋼鉄の大きな炊飯器や鍋が引かれて行くのには驚く。こんな面白い見ものを地元の悪童は見逃せない。早速連れだって地蔵峠に遠征した。峠に真ん中が通路、両サイドに50ベッドが据えられたかまぼこ型テントが設置されていた。真ん中の通路を突っ走った。訓練で馴染んだこの地に、夏休みになると米軍家族が宿泊にやってきた。なぜか分からないが田舎の人はよそ者を嫌う。悪童は連れ合い、彼らの泊まる旅館を襲撃した。私は鍵の手の付いた紐を二階の部屋に向かって投げた。小石も投げた。米人の子供は白い顔を真っ赤にして反撃し戦闘が始まった。米軍の大人は笑ってみていた。
アンパン二個持って
中学の夏休みはアンパンを二個持って連日、水の塔や籠の塔などの山に登った。家からは片道10km程の工程だ。何だか楽しっかった。
川干しとヤスと秘密基地
山地の河は地形が複雑であるが故に、流れが二俣になって流れ下る事が多い。二俣の片側を堰き止めて干す。流れが無くなり動きが悪くなる魚を捕った。河は清流であるためカジカがたくさんいて、それを手作りのヤスで捕った。高原台地の藪にたくさんの秘密基地も作った。基地はそのままゼロ戦の操縦席にもなった。
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