街道を行け!

街道を行く日記

70年も山を登れば!(8)

2024-11-15 06:07:07 | 旅行

 ツェルマトYH

30歳代マッターホーン登山の折、ツェルマットYH宿泊した。6~7人大部屋である。2段ベッドの上から見下ろし、北欧系の如何にも生意気な青年が呼びかけてきた。『俺は英、独、仏、西、蘭、伊を話すが、お前どれか話せるか?』『来たあー。』亡きわが師、開高健氏はこういう時こう言う。『俺は韓国、中国、モンゴル、アルタイ、ベトナム、チベット語を話すが、お前どれか話せるか。』師を習い、私もこう言った。まだ、欧米人が日本人を下に見た時代の話である。最近は登山基地などで、北欧の青年達は敬愛100%顔と態度で【ハアイTSUCHIYA!】と話しかけてくる。 

中之条高校恒心寮(今は学校、寮共にない。)

 群馬県の中之条高校に恒心寮と言う学生寮があった。ここで三年間暮らした。全員がバカと言う未聞の寮であった。農業科が併設されていたので、大変に楽しい生活が出来た。朝、登校すると農業科の生徒が『牛が逃げたぞう!』と牛を追い回していた。美味しい果物も沢山育てていた。何時もお腹のすいていた私は、非合法な方法でその果物を頂いた。寮は、先輩が絶対だった。ある日、先輩から令が下った。『畜舎の豚の毛を三本抜いてこい。』。畜舎に入り豚に挑んだ。豚の排泄物で床は滑りに滑る。豚の動きは素早い上に、反撃もする。『豚の毛は人力ではとても抜けない。』と、学んだ。

 岡田さんと岡野さん

 G大学のY寮(現存しているので、名は伏す。)で4年間暮らした。色んな人格の人がいたが、快男児もいた。岡田さんは8年間在籍し、教員採用試験がまだ高倍率だった時代に5年連続一次試験に合格したが、五年連続二次試験でおちた。  詳しい事は分からないが二次の面接時、岡田さんは後輩から借りたヨレヨレの背広を着て、頭髪は櫛を入れない「ラーメンの小池さん」で臨んでいた。私はそれが原因ではないかと考えていた。寮から500m程離れた焼き鳥屋で二人で良く飲んだ。帰り、岡田さんは毎回言った。『土屋君。寮まで尿水で道に長い線を描く競争しないか?』『いいよ。』。岡田さんは、兎にかく酒が強い。岡田さんの尿水は、寮近くの薬屋まで必ず続いた。毎回のそんな狼藉を薬屋の店主が見逃すはずがなく、店主は大学に捻じ込んだ。しかし二人の狼藉は続いた。午後から夜までバイト、深夜は麻雀、昼まで睡眠、それからまたバイト。学校にはほとんど行かない二人の生活だった。岡野さんも8年在籍した。岡野さんは、少額のお金を持って海外に長く行く「進め!電波少年」の先駆けの人だった。当時、私は寮内で大きな秋田犬を飼っていた。犬は放し飼いで部屋にも入ってきたし寮外にも出た。しかし、咎めの無い鷹揚な時代だった。ある日、岡野さんが私に話しかけてきた『土屋君、犬くれない。』『可愛がってくれる。』『食うんだよ!』。岡野さんは韓国や中国にも長期滞在し、犬、猫、蛇、蝙蝠、蛙なんでも食った。



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