今日は、図書館で宮崎駿の「本への扉」を見る機会があったので自分なりに気になるとこだけチェックしたりしてました(ほんと偶然の出会いでした)
ほんとうは筑摩世界文学大系の古代オリエント集という世界最古のものものしげな文献集を見たかったんですが、こちらの「本へのとびら」の方が何だか語りかけてくる感じだし、今の自分のテーマにあってるような気がして食い入るように読みましたのです、「読め」と言われてる気がしましたし、が
文の世界からイメージされる情景は各人によって違うから、挿し絵というものへの気遣いというものを創り手は意識するものなんだなということが本から伝わってきて
最近だと流行りのコミックイラストやキャラクターを表紙に使うのが主流だけどイメージの補完という意味では少しよわいものなのかもしれない
確かに流行は文化の泡沫で数年すれば移りかわると思うし、アンケートなどもすぐに意見など変わっていくように思う。移り変わりに左右されない普遍的イメージってなんだろう
この辺りドイツの児童文学作家のミヒャエルエンデとなんだか共通していて、世界規模のクリエイターは目に見えるだけではないイメージを大事にしているのだろうか…
視覚メディアの発達は観る側の想像力を著しく抑制していく面もやはりあって、映画は相手にそれ以上の場に起こっていることを想像させにくいし、視覚からのイメージを与えすぎて相手に情報中毒を押し付けることにもつながってしまう
特にデジタルで簡単に写真や記録媒体が携帯に残せるようになったことで、生の体験を味わう瞬間瞬間の集中力、やりなおせないという生の人生の真剣さをデジタル世代の自分達は見失ったのかもしれない
ガンダムの富野監督もアニメの作画行程のデジタル作業への移り変わりにおいての失われたアナログ感について述べていたけど、監督業というものをやってるといやでも世の中の事が見えてくるのだと思うし、この人の感性からして直視せざるを得なかったんだと思う(作品からスタンスから伝わってくる)、前時代の人の言うことと片づけることはできない
その時代を生きたからこそその人のことばには生の重みがある(この辺り同世代のクリエイターの意見を比べてみるのも面白いですね)
デジタルで簡単に情報が発信できるようにはなったけれど、その分の現実生活へのつながりへの希薄さ、何よりも「一個人」としての真剣さがなくなっているということは大いに的を獲てると思います
データを打ち込んでてもリアル体験がないみたいで豆腐と格闘しているようで、いい面もひろがったけれどデメリットサイドのシルエットもあらわになり、みんなデータの向こう側という名の自己との折り合いをつけてる最中なんだと思う(まだ自分はモニターに打ち込んでるより紙に向かってる方が安心する世代みたいです)
今ネットでやってることは数字やデータで評価を得て次はこれ、じゃあ次はこちらという風に雨後に乱立した竹の子のような情報に飛び付く感もあってキリがないバランスゲームを保守しているような感じもある
ツイッターもmixiも気軽だけれど、あくまでもその程度のツールだとして、道具に使われるようじゃまだまだ甘いな…ネットでのいいひともほどほどがいいな…と、宮崎駿の本に「喝」をいれられた次第です。自分まだまだ甘いであります。反省
…しかし宮崎駿氏のエピソードで一番印象なのはアニメ雑誌を「こんなもの」という感じでその腕力で真っ二つにひき破ったという逸話で、その世間体とは別に人間としての個性もパワフルなのだろう…(平綴じのアニメージュなど頑丈なような。ナウシカを描いたあの腕はよほど強力な腕力なのだろう)
今日よんだ「本へのとびら」も最初平淡に語りかけてくるようで、ちゃんと宮崎駿としての意見がところどころにちりばめられていて、このひとはやはり話が上手いし読後感も自分で答えを出すように導かれた感じです
本のエピソードで「子どものためにつくる」というか、仕事場のとなりに保育園があってそれに助けられたというのはよくわかる気がします
しかしながら御大所は大体、「アニメ見るよりももっと視野を広げなさい」と言うことが共通してるのが面白い
そのうちネットとテレビの刹那的な情報はもうみなくていい、という情報人といったものも出てくるころなのではないだろうか…
実際、冒頭で触れた古代オリエント集には先史時代からの石碑に刻まれていた情報だけが今に残った訳で、インターネットはサーバーがなくなると消えてしまうから過信はできませんね
今ある文化も残っていかないと意味がない訳だし、1000年後の人たちにまで伝わるだろうかと思うとその辺り環境と結び付いた保存可能な文化は先日読んだエンデの本とテーマが共通していて
世界視野のクリエイターは目先だけでなく時代も視野に入っているのかもしれないですね
記録媒体が失われた情報は失われてしまうし、人は認識できる情報しか伝えていくことができない
…長文お付き合い失礼しました
ほんとうは筑摩世界文学大系の古代オリエント集という世界最古のものものしげな文献集を見たかったんですが、こちらの「本へのとびら」の方が何だか語りかけてくる感じだし、今の自分のテーマにあってるような気がして食い入るように読みましたのです、「読め」と言われてる気がしましたし、が
文の世界からイメージされる情景は各人によって違うから、挿し絵というものへの気遣いというものを創り手は意識するものなんだなということが本から伝わってきて
最近だと流行りのコミックイラストやキャラクターを表紙に使うのが主流だけどイメージの補完という意味では少しよわいものなのかもしれない
確かに流行は文化の泡沫で数年すれば移りかわると思うし、アンケートなどもすぐに意見など変わっていくように思う。移り変わりに左右されない普遍的イメージってなんだろう
この辺りドイツの児童文学作家のミヒャエルエンデとなんだか共通していて、世界規模のクリエイターは目に見えるだけではないイメージを大事にしているのだろうか…
視覚メディアの発達は観る側の想像力を著しく抑制していく面もやはりあって、映画は相手にそれ以上の場に起こっていることを想像させにくいし、視覚からのイメージを与えすぎて相手に情報中毒を押し付けることにもつながってしまう
特にデジタルで簡単に写真や記録媒体が携帯に残せるようになったことで、生の体験を味わう瞬間瞬間の集中力、やりなおせないという生の人生の真剣さをデジタル世代の自分達は見失ったのかもしれない
ガンダムの富野監督もアニメの作画行程のデジタル作業への移り変わりにおいての失われたアナログ感について述べていたけど、監督業というものをやってるといやでも世の中の事が見えてくるのだと思うし、この人の感性からして直視せざるを得なかったんだと思う(作品からスタンスから伝わってくる)、前時代の人の言うことと片づけることはできない
その時代を生きたからこそその人のことばには生の重みがある(この辺り同世代のクリエイターの意見を比べてみるのも面白いですね)
デジタルで簡単に情報が発信できるようにはなったけれど、その分の現実生活へのつながりへの希薄さ、何よりも「一個人」としての真剣さがなくなっているということは大いに的を獲てると思います
データを打ち込んでてもリアル体験がないみたいで豆腐と格闘しているようで、いい面もひろがったけれどデメリットサイドのシルエットもあらわになり、みんなデータの向こう側という名の自己との折り合いをつけてる最中なんだと思う(まだ自分はモニターに打ち込んでるより紙に向かってる方が安心する世代みたいです)
今ネットでやってることは数字やデータで評価を得て次はこれ、じゃあ次はこちらという風に雨後に乱立した竹の子のような情報に飛び付く感もあってキリがないバランスゲームを保守しているような感じもある
ツイッターもmixiも気軽だけれど、あくまでもその程度のツールだとして、道具に使われるようじゃまだまだ甘いな…ネットでのいいひともほどほどがいいな…と、宮崎駿の本に「喝」をいれられた次第です。自分まだまだ甘いであります。反省
…しかし宮崎駿氏のエピソードで一番印象なのはアニメ雑誌を「こんなもの」という感じでその腕力で真っ二つにひき破ったという逸話で、その世間体とは別に人間としての個性もパワフルなのだろう…(平綴じのアニメージュなど頑丈なような。ナウシカを描いたあの腕はよほど強力な腕力なのだろう)
今日よんだ「本へのとびら」も最初平淡に語りかけてくるようで、ちゃんと宮崎駿としての意見がところどころにちりばめられていて、このひとはやはり話が上手いし読後感も自分で答えを出すように導かれた感じです
本のエピソードで「子どものためにつくる」というか、仕事場のとなりに保育園があってそれに助けられたというのはよくわかる気がします
しかしながら御大所は大体、「アニメ見るよりももっと視野を広げなさい」と言うことが共通してるのが面白い
そのうちネットとテレビの刹那的な情報はもうみなくていい、という情報人といったものも出てくるころなのではないだろうか…
実際、冒頭で触れた古代オリエント集には先史時代からの石碑に刻まれていた情報だけが今に残った訳で、インターネットはサーバーがなくなると消えてしまうから過信はできませんね
今ある文化も残っていかないと意味がない訳だし、1000年後の人たちにまで伝わるだろうかと思うとその辺り環境と結び付いた保存可能な文化は先日読んだエンデの本とテーマが共通していて
世界視野のクリエイターは目先だけでなく時代も視野に入っているのかもしれないですね
記録媒体が失われた情報は失われてしまうし、人は認識できる情報しか伝えていくことができない
…長文お付き合い失礼しました