内外政策評論 TheOpinion on Global & Domestic Issues

このブログは、広い視野から内外諸問題を分析し、提言を試みます。
Policy Essayist

社会保障と税の一体改革に欠ける視点 (改定版 その3)

2012-04-05 | Weblog
社会保障と税の一体改革に欠ける視点 (改定版 その3)
 野田政権は、社会保障と税の一体改革大綱の素案を取りまとめるため、2011年12月12日、関係5閣僚会議で社会保障分野の検討を開始した。これに先立ち厚生労働省は社会保障改革案の中間報告を公表した。
 中間報告は、年金、医療・介護、及び子育て分野まで網羅しており、受給資格期限の10年への短縮、低所得層に対し年金加算、国民健康保険料や介護保険料の軽減(給付増要因となる)など、低所得層、パート、主婦などに一定の配慮をしているが、高所得者の年金減額、70-74歳の窓口負担引き上げ、外来患者への1回100円の負担上乗せ(料金収入増要因となる)など、収入を図る一方給付水準を下げ、利用者に負担を掛ける内容となっている。他方、年金支給開始年齢の引き上げ、デフレ下での年金給付額調整(給付水準引き下げ)、厚生年金保険料上限の引き上げなどについては法案提出を先送るとしている。
 一方消費税増税を中心とする税制改革については、年末の12月29日、民主党税調と一体改革調査会の合同会議を野田首相出席の下で開催し、消費税を「2014年4月に8%、15年10月に10%」に引き上げることなどを決定した。
 そしてこれら一連の検討を経て野田内閣は、2月17日、消費税増税を軸とした社会保障と税の一体改革大綱を決定した。
 同一体改革大綱は、1月に政府・与党が決定した素案とほぼ同様の内容で、消費税増税を含むものであり、社会保障制度自体の改革については現行制度を前提とした若干の手直し程度となっている。基本的な制度として、破綻状態の国民年金の改革には一切言及がない。一方厚生年金と共済年金の統合を検討するとしているものの、厚労相はそれは時間の掛かることであり、且つ“消費税増税には関係しない”と説明しており、そうであるなら何故わざわざ異なる給与体系・労働条件の厚生と共済を統合しなくてはならないのか疑問が残る。
 増税方針の決定は一つの政治的リーダーシップの発揮として評価されるところであり、その責任はいずれ国会で審議され、最終的には選挙において問われ、国民の審判に委ねられることになろう。だが増税案が示されても、年金制度などの社会保障制度改革について実質的な方針が示されなければ「一体改革」にはならない。しかしそのベースとなる大綱において低所得層、パート、主婦などに一定の配慮をしており評価されるものの、基本的に次の諸点が欠けている。
 1、欠けるコスト削減の側面 (その1で掲載)
 2、最大の欠陥である国民年金など、見えない抜本改革 (その2で掲載)
 3、社会保障に関する新たな制度設計と消費税増税   
上記のような観点からすると、抜本的なコスト削減を行わず、また国民年金を中心とする年金制度の本質的な改革を行わないままで消費税などの増税を実施すれば、制度上の不備、赤字体質を残したままコスト高で非効率な年金制度を引きずることになり、問題を残す可能性が高い。拠出制を残すのであれば、受益者負担と自己責任という基本的な基準に沿って、抜本的なコスト削減を図った後、高額所得者への給付の留保や定年制の引き上げに連動した給付年齢の引き上げなどを実施する方が分り易い。その上で全国民を対象とした税による最低限の基礎年金の導入を検討すべきであろう。その際拠出型の年金については、基礎年金に相当する部分について給付額を削減すると共に、料率も引下げるなどの調整が望ましい。また生活保護制度については、適用を基礎年金受給年齢までとするなどの調整が必要であろう。
医療費や介護費についても、赤字であり制度存続が困難であれば、受益者負担の原則に沿って窓口料金を引き上げるなど、個人負担を若干引き上げることも止むを得ないのであろう。介護保険については、年金受給者も支払う義務があり年金給付額から差し引かれ、実質的な年金給付額の減額に当たるので、年金以外の他の所得がない者に対しては免除するなどの配慮をすると共に、健康保険料や窓口負担を全体として引き上げることも止むを得ない。しかしその前提は、抜本的なコスト削減の実施であろう。
福祉は、高所得者が負担し生活困窮者や低所得者などを救済するとの考え方があるが、社会保障は所得に応じてではあるが国民全体として負担し、貧富の差なく適用されるべきものであり、低所得者が一切負担や努力をする義務がないというものでもない。受益者負担と自己責任の基準に沿って低所得者も応分の負担はすべきものであろう。それなくしては負担しなくても救済される、努力する者が損をするというモラルハザードを起す可能性がある。消費増税に際し、逆進性を緩和するため低所得者には税の還付をするとの案があるが、制度が複雑になり事務を肥大化させると共に、低所得者は所得税等も小額か支払ってないかであるので、更に消費税の一部も還付を受けると一市民、一社会人としての租税負担義務を免除されることになり、過剰な保護になる恐れがある。そうであれば低所得層に対し、所得税・住民税の課税所得水準の引き上げや税率の引き下げを行うと共に、最低賃金を引き上げるなど、所得面での救済を行う方が望ましい。
制度設計の基本的な基準、軸が何であるかも問われている。
(2012.3.2.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
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社会保障と税の一体改革に欠ける視点 (改定版 その3)

2012-04-05 | Weblog
社会保障と税の一体改革に欠ける視点 (改定版 その3)
 野田政権は、社会保障と税の一体改革大綱の素案を取りまとめるため、2011年12月12日、関係5閣僚会議で社会保障分野の検討を開始した。これに先立ち厚生労働省は社会保障改革案の中間報告を公表した。
 中間報告は、年金、医療・介護、及び子育て分野まで網羅しており、受給資格期限の10年への短縮、低所得層に対し年金加算、国民健康保険料や介護保険料の軽減(給付増要因となる)など、低所得層、パート、主婦などに一定の配慮をしているが、高所得者の年金減額、70-74歳の窓口負担引き上げ、外来患者への1回100円の負担上乗せ(料金収入増要因となる)など、収入を図る一方給付水準を下げ、利用者に負担を掛ける内容となっている。他方、年金支給開始年齢の引き上げ、デフレ下での年金給付額調整(給付水準引き下げ)、厚生年金保険料上限の引き上げなどについては法案提出を先送るとしている。
 一方消費税増税を中心とする税制改革については、年末の12月29日、民主党税調と一体改革調査会の合同会議を野田首相出席の下で開催し、消費税を「2014年4月に8%、15年10月に10%」に引き上げることなどを決定した。
 そしてこれら一連の検討を経て野田内閣は、2月17日、消費税増税を軸とした社会保障と税の一体改革大綱を決定した。
 同一体改革大綱は、1月に政府・与党が決定した素案とほぼ同様の内容で、消費税増税を含むものであり、社会保障制度自体の改革については現行制度を前提とした若干の手直し程度となっている。基本的な制度として、破綻状態の国民年金の改革には一切言及がない。一方厚生年金と共済年金の統合を検討するとしているものの、厚労相はそれは時間の掛かることであり、且つ“消費税増税には関係しない”と説明しており、そうであるなら何故わざわざ異なる給与体系・労働条件の厚生と共済を統合しなくてはならないのか疑問が残る。
 増税方針の決定は一つの政治的リーダーシップの発揮として評価されるところであり、その責任はいずれ国会で審議され、最終的には選挙において問われ、国民の審判に委ねられることになろう。だが増税案が示されても、年金制度などの社会保障制度改革について実質的な方針が示されなければ「一体改革」にはならない。しかしそのベースとなる大綱において低所得層、パート、主婦などに一定の配慮をしており評価されるものの、基本的に次の諸点が欠けている。
 1、欠けるコスト削減の側面 (その1で掲載)
 2、最大の欠陥である国民年金など、見えない抜本改革 (その2で掲載)
 3、社会保障に関する新たな制度設計と消費税増税   
上記のような観点からすると、抜本的なコスト削減を行わず、また国民年金を中心とする年金制度の本質的な改革を行わないままで消費税などの増税を実施すれば、制度上の不備、赤字体質を残したままコスト高で非効率な年金制度を引きずることになり、問題を残す可能性が高い。拠出制を残すのであれば、受益者負担と自己責任という基本的な基準に沿って、抜本的なコスト削減を図った後、高額所得者への給付の留保や定年制の引き上げに連動した給付年齢の引き上げなどを実施する方が分り易い。その上で全国民を対象とした税による最低限の基礎年金の導入を検討すべきであろう。その際拠出型の年金については、基礎年金に相当する部分について給付額を削減すると共に、料率も引下げるなどの調整が望ましい。また生活保護制度については、適用を基礎年金受給年齢までとするなどの調整が必要であろう。
医療費や介護費についても、赤字であり制度存続が困難であれば、受益者負担の原則に沿って窓口料金を引き上げるなど、個人負担を若干引き上げることも止むを得ないのであろう。介護保険については、年金受給者も支払う義務があり年金給付額から差し引かれ、実質的な年金給付額の減額に当たるので、年金以外の他の所得がない者に対しては免除するなどの配慮をすると共に、健康保険料や窓口負担を全体として引き上げることも止むを得ない。しかしその前提は、抜本的なコスト削減の実施であろう。
福祉は、高所得者が負担し生活困窮者や低所得者などを救済するとの考え方があるが、社会保障は所得に応じてではあるが国民全体として負担し、貧富の差なく適用されるべきものであり、低所得者が一切負担や努力をする義務がないというものでもない。受益者負担と自己責任の基準に沿って低所得者も応分の負担はすべきものであろう。それなくしては負担しなくても救済される、努力する者が損をするというモラルハザードを起す可能性がある。消費増税に際し、逆進性を緩和するため低所得者には税の還付をするとの案があるが、制度が複雑になり事務を肥大化させると共に、低所得者は所得税等も小額か支払ってないかであるので、更に消費税の一部も還付を受けると一市民、一社会人としての租税負担義務を免除されることになり、過剰な保護になる恐れがある。そうであれば低所得層に対し、所得税・住民税の課税所得水準の引き上げや税率の引き下げを行うと共に、最低賃金を引き上げるなど、所得面での救済を行う方が望ましい。
制度設計の基本的な基準、軸が何であるかも問われている。
(2012.3.2.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
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社会保障と税の一体改革に欠ける視点 (改定版 その2)

2012-04-05 | Weblog
社会保障と税の一体改革に欠ける視点 (改定版 その2)
 野田政権は、社会保障と税の一体改革大綱の素案を取りまとめるため、2011年12月12日、関係5閣僚会議で社会保障分野の検討を開始した。これに先立ち厚生労働省は社会保障改革案の中間報告を公表した。
 中間報告は、年金、医療・介護、及び子育て分野まで網羅しており、受給資格期限の10年への短縮、低所得層に対し年金加算、国民健康保険料や介護保険料の軽減(給付増要因となる)など、低所得層、パート、主婦などに一定の配慮をしているが、高所得者の年金減額、70-74歳の窓口負担引き上げ、外来患者への1回100円の負担上乗せ(料金収入増要因となる)など、収入を図る一方給付水準を下げ、利用者に負担を掛ける内容となっている。他方、年金支給開始年齢の引き上げ、デフレ下での年金給付額調整(給付水準引き下げ)、厚生年金保険料上限の引き上げなどについては法案提出を先送るとしている。
 一方消費税増税を中心とする税制改革については、年末の12月29日、民主党税調と一体改革調査会の合同会議を野田首相出席の下で開催し、消費税を「2014年4月に8%、15年10月に10%」に引き上げることなどを決定した。
 そしてこれら一連の検討を経て野田内閣は、2月17日、消費税増税を軸とした社会保障と税の一体改革大綱を決定した。
 同一体改革大綱は、1月に政府・与党が決定した素案とほぼ同様の内容で、消費税増税を含むものであり、社会保障制度自体の改革については現行制度を前提とした若干の手直し程度となっている。基本的な制度として、破綻状態の国民年金の改革には一切言及がない。一方厚生年金と共済年金の統合を検討するとしているものの、厚労相はそれは時間の掛かることであり、且つ“消費税増税には関係しない”と説明しており、そうであるなら何故わざわざ異なる給与体系・労働条件の厚生と共済を統合しなくてはならないのか疑問が残る。
 増税方針の決定は一つの政治的リーダーシップの発揮として評価されるところであり、その責任はいずれ国会で審議され、最終的には選挙において問われ、国民の審判に委ねられることになろう。だが増税案が示されても、年金制度などの社会保障制度改革について実質的な方針が示されなければ「一体改革」にはならない。しかしそのベースとなる大綱において低所得層、パート、主婦などに一定の配慮をしており評価されるものの、基本的に次の諸点が欠けている。
 1、欠けるコスト削減の側面 (その1で掲載)
 2、最大の欠陥である国民年金など、見えない抜本改革
 国民、厚生、共済各年金とも拠出形であり、厚生、共済両年金の一本化が検討されているが、最大の欠陥は国民年金にある。国民年金にのみ加入している者の2011年4―7月の納付率は55.0%だが、失業等で納付免除者を加えると納付率は更に低くなる。納付していない者が半数近くいるので、受給者層が増加の一途であることを考慮すると、国民年金(基礎年金)制度は持続不可能な状況になっている。他方生活保護者は208万人以上に達しているが、国民年金の給付額は平均5.3万円であるのに対し、東京都の生活保護支給額は30代単身で13万円以上、60代後半単身でも8万円強で、家族構成などで加算されることになっているため、国民年金の方が掛け金を支払っていながら受給額は少ないので、納付意欲を失わせる形となっている。
 現在、厚生年金と共済年金の一本化や国民年金(基礎年金)との統合などが検討されているが、まず最大の欠陥を抱えている国民年金の在り方を検討することが先決であろう。国民年金の納付率を上げると共に、不加入者をどう解消して行くかが検討されなくてはならない。国民年金も拠出制であり、本来的には拠出していない者には給付も無いことになる。基本的には受益者負担と自己責任の原則に則らざるを得ない。また生活保護支給額に対し、国民年金給付額が逆差別されている状況も是正する必要があろう。
 社会保障改革案では、基本的には中間報告に沿って低所得者への加算や高所得者の年金減額など、現行制度に基づいた微調整、手直にしか過ぎず、国民年金の抜本改革には触れていない。拠出型の国民年金は拠出者に対して継続するとしても、いずれの年金にも拠出していない者をどの程度、どのように救済するかについては、納税や拠出努力をしている者との公平性や生活保護との関係を含め、基礎年金をどのように制度設計するかが問われていると言えよう。
 また国民、厚生、共済の3つの年金制度があり、分り難いとの評もあり、その面は否定できないが、3つとも雇用形態や所得水準、賃金体系などが異なるので一本化には複雑な調整が必要になるばかりか、一本化すれば年金問題が解決するというものでもない。統合することによりそれぞれの問題点が見え難くなり、或いは共倒れする恐れがある。国民、厚生、共済の3年金制度とも料率納付を前提としているので、原則として拠出者には入会時の条件になるべく近い水準で給付することが期待される。それなくしては年金の信頼性は維持出来ない。問題は、拠出型3年金の適正な給付を確保すると共に、いずれの年金についても受給資格が無い者をどう救済し、財源をどう確保して行くかである。しかし努力しなくても救済される、努力しても報われないというような意識が生まれ、国民の間にモラルハザードを引き起こすようなことは健全で活力ある社会発展を図る上で避けなくてはならないのであろう。
 3、社会保障に関する新たな制度設計と消費税増税   (その3に掲載)
(2012.3.2.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
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社会保障と税の一体改革に欠ける視点 (改定版 その2)

2012-04-05 | Weblog
社会保障と税の一体改革に欠ける視点 (改定版 その2)
 野田政権は、社会保障と税の一体改革大綱の素案を取りまとめるため、2011年12月12日、関係5閣僚会議で社会保障分野の検討を開始した。これに先立ち厚生労働省は社会保障改革案の中間報告を公表した。
 中間報告は、年金、医療・介護、及び子育て分野まで網羅しており、受給資格期限の10年への短縮、低所得層に対し年金加算、国民健康保険料や介護保険料の軽減(給付増要因となる)など、低所得層、パート、主婦などに一定の配慮をしているが、高所得者の年金減額、70-74歳の窓口負担引き上げ、外来患者への1回100円の負担上乗せ(料金収入増要因となる)など、収入を図る一方給付水準を下げ、利用者に負担を掛ける内容となっている。他方、年金支給開始年齢の引き上げ、デフレ下での年金給付額調整(給付水準引き下げ)、厚生年金保険料上限の引き上げなどについては法案提出を先送るとしている。
 一方消費税増税を中心とする税制改革については、年末の12月29日、民主党税調と一体改革調査会の合同会議を野田首相出席の下で開催し、消費税を「2014年4月に8%、15年10月に10%」に引き上げることなどを決定した。
 そしてこれら一連の検討を経て野田内閣は、2月17日、消費税増税を軸とした社会保障と税の一体改革大綱を決定した。
 同一体改革大綱は、1月に政府・与党が決定した素案とほぼ同様の内容で、消費税増税を含むものであり、社会保障制度自体の改革については現行制度を前提とした若干の手直し程度となっている。基本的な制度として、破綻状態の国民年金の改革には一切言及がない。一方厚生年金と共済年金の統合を検討するとしているものの、厚労相はそれは時間の掛かることであり、且つ“消費税増税には関係しない”と説明しており、そうであるなら何故わざわざ異なる給与体系・労働条件の厚生と共済を統合しなくてはならないのか疑問が残る。
 増税方針の決定は一つの政治的リーダーシップの発揮として評価されるところであり、その責任はいずれ国会で審議され、最終的には選挙において問われ、国民の審判に委ねられることになろう。だが増税案が示されても、年金制度などの社会保障制度改革について実質的な方針が示されなければ「一体改革」にはならない。しかしそのベースとなる大綱において低所得層、パート、主婦などに一定の配慮をしており評価されるものの、基本的に次の諸点が欠けている。
 1、欠けるコスト削減の側面 (その1で掲載)
 2、最大の欠陥である国民年金など、見えない抜本改革
 国民、厚生、共済各年金とも拠出形であり、厚生、共済両年金の一本化が検討されているが、最大の欠陥は国民年金にある。国民年金にのみ加入している者の2011年4―7月の納付率は55.0%だが、失業等で納付免除者を加えると納付率は更に低くなる。納付していない者が半数近くいるので、受給者層が増加の一途であることを考慮すると、国民年金(基礎年金)制度は持続不可能な状況になっている。他方生活保護者は208万人以上に達しているが、国民年金の給付額は平均5.3万円であるのに対し、東京都の生活保護支給額は30代単身で13万円以上、60代後半単身でも8万円強で、家族構成などで加算されることになっているため、国民年金の方が掛け金を支払っていながら受給額は少ないので、納付意欲を失わせる形となっている。
 現在、厚生年金と共済年金の一本化や国民年金(基礎年金)との統合などが検討されているが、まず最大の欠陥を抱えている国民年金の在り方を検討することが先決であろう。国民年金の納付率を上げると共に、不加入者をどう解消して行くかが検討されなくてはならない。国民年金も拠出制であり、本来的には拠出していない者には給付も無いことになる。基本的には受益者負担と自己責任の原則に則らざるを得ない。また生活保護支給額に対し、国民年金給付額が逆差別されている状況も是正する必要があろう。
 社会保障改革案では、基本的には中間報告に沿って低所得者への加算や高所得者の年金減額など、現行制度に基づいた微調整、手直にしか過ぎず、国民年金の抜本改革には触れていない。拠出型の国民年金は拠出者に対して継続するとしても、いずれの年金にも拠出していない者をどの程度、どのように救済するかについては、納税や拠出努力をしている者との公平性や生活保護との関係を含め、基礎年金をどのように制度設計するかが問われていると言えよう。
 また国民、厚生、共済の3つの年金制度があり、分り難いとの評もあり、その面は否定できないが、3つとも雇用形態や所得水準、賃金体系などが異なるので一本化には複雑な調整が必要になるばかりか、一本化すれば年金問題が解決するというものでもない。統合することによりそれぞれの問題点が見え難くなり、或いは共倒れする恐れがある。国民、厚生、共済の3年金制度とも料率納付を前提としているので、原則として拠出者には入会時の条件になるべく近い水準で給付することが期待される。それなくしては年金の信頼性は維持出来ない。問題は、拠出型3年金の適正な給付を確保すると共に、いずれの年金についても受給資格が無い者をどう救済し、財源をどう確保して行くかである。しかし努力しなくても救済される、努力しても報われないというような意識が生まれ、国民の間にモラルハザードを引き起こすようなことは健全で活力ある社会発展を図る上で避けなくてはならないのであろう。
 3、社会保障に関する新たな制度設計と消費税増税   (その3に掲載)
(2012.3.2.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
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国際シリーズ チベット問題の根源と今後の動向 (その2)

2012-04-05 | Weblog
国際シリーズ チベット問題の根源と今後の動向 (その2)
 4年前の2008年3月10日、チベット自治区の首府ラサで僧侶などによる北京オリンピックの開催国中国に対する抗議デモは、治安警察との衝突からで暴動に発展し、中国治安警察の鎮圧活動の過程で、死者18人(中国側発表)を含む多数の死傷者と900人を越える逮捕者を出した。
 そして本年7月27日から開催されるロンドン・オリンピックを前にしてチベットにおいて緊張感が高まっている。2008年のチベット内外での抗議活動は北京オリンピックのボイコットには繋がらなかったが、今回中国政府は抗議活動などを警戒し、ラサへの外国人記者の訪問、取材の制限など情報統制や治安維持活動を強化している。
それは今年が4年に1度のオリンピックの年だからではない。3月10日は、高度な自治を求めるダライ・ラマ14世が1959年に中国人民軍に追われ、チベットを脱出する際に「臨時政府」の樹立を宣言した日であり、北インドのダラムサラで亡命政府が樹立された月に当たるからである。亡命政府発足30周年に当たる1989年3月にもラサで抗議行動が暴動に発展し、中国治安当局による弾圧活動が行われている。国際世論にチベットの自治・独立を訴えるために北京でオリンピックの際と同様、ロンドン・オリンピックの年に大きな抗議行動に発展する可能性がある。
 それではチベット問題の歴史的背景、根源は何か、そして今後展望は開けるるのだろうか。
 1、 中国政府の主張の根拠 ―「17か条取り決め」- (その1 で掲載)
 2、清朝時代に遡るチベット問題 (その2に掲載)
 清朝時代に中国全土をほぼ統一した中央政府は、チベットの「宗教首領」として、17世紀中頃にラサ市を中心に影響力があったダライ第5世を冊封(さくほう、地位を与える行為で、制度的に統一されたのは隋代よりと言われる)すると共に、18世紀初期には第二の都市シガツエを中心に影響力のあった「パンチェン・オルドニ」を冊封し、チベット第2の最高位のラマ僧となり、パンチェン・ラマとも言われ、2大活仏系統となった。以来、いずれも中央政府の冊封を得て初めて合法とされるが、行政上は中央より派遣されていた大臣の監督、統轄の下にある形となっていた(北京週報資料、08年3月他)。チベットを統治する上で一方に権威や勢力が集中することを避けるための歴史的な制度と見られるが、これは中国政府側からの歴史、制度であり、チベット側には「政教合一」(政教一致)に根ざした宗教的な伝統があるのであろう。
 現在でも2大活仏体系は存続している。ダライ・ラマ14世がインドに亡命した際、当時のパンチェン・ラマ10世はチベットに止まったが、「文化大革命」の時期に投獄されるなど、言動は制約される中で1989年1月、急逝した。その転生者―生まれ変わりーとして、宗教的手続きに従い6歳の子供(ゲンドゥン・チューキ・ニマ)を選び、95年5月、ダライ・ラマ14世がこれを認定する声明を出したが、中国側はこの認定を拒否した。同少年と家族はその後間もなく失踪したが、中国当局が拘束していると見られている。中国側は、別途の手続きに従い転生者を選び、同年齢のパンチェン・ラマ11世(ギエンツエン・ノルブ)を布告し、中国政府との関係などで活動している(「ダライ・ラマ日本代表事務所」資料、3月16日付新華社電他)。中国における信仰や言論の自由や人権が深い闇の中にあることを物語っている。
 人権や信仰・宗教の自由の観点からは、パンチェン・ラマ11世の拘束は重大な問題だ。更に問題は、将来ダライ・ラマ14世の転生者を選ぶ必要が生じた場合、これまでの宗教上の手続きに従うと、候補者選びは出来ても、ダライ・ラマ15世の認定声明は本来であればパンチェン11世が行うことになるが、中国側が布告したパンチェン11世が行うこととなると事態は複雑となろう。無論、ダライ・ラマ側とすればその転生者を切らすわけには行かないので、ダライ・ラマ側で転生者認定の便法が考えられることになろうが、チベットの宗教的伝統に従って後継者を選べない事態となれば、信仰の根幹に係わることであるのでこれまで以上の混乱は避けられないであろう。
 「17か条取り決め」骨子(1951年5月23日署名)
 1)(帝国主義勢力の排除に言及しつつ)チベット人民は中華人民共和国の祖国大家庭に復帰する。(第1条)
 2)チベット地方政府は、人民解放軍が進駐し、国防を固めることに協力する。(第2条)
    チベット軍隊は逐次改編し、中華人民共和国の国防武装力の一部となる。(第8条)
 3)チベットは、中央人民政府の統一的指導の下で、民族区域自治を実行する権利がある。(第3条)
 4)チベットの現行政治制度を変更しない。ダライ・ラマの固有の地位と職権も変更しない。(第4条)
 5)パンチェン・オルドニの固有の地位と職権は維持すべし。(第5条、6条)
   6)宗教信仰の自由を実行し、チベット人民の宗教信仰、風習習慣は尊重。(第7条、9条)
 7)中央政府は、チベット地区のすべての渉外事務を統一的に処理し、隣国と平和的に接し、
通商貿易関係を発展させる。(第14条)    (ソース:「北京週報資料」電子版2008年3月23日)
 4月7日、中国国家資料局は、1951年10月にダライ・ラマ14世が毛沢東主席宛に出した電報を公開した(新華社通信)。同電報は、「チベットの平和的な解放の方法に関する協議」に言及し、「51年5月23日に調印した」ことを伝え、取り決めを認める内容となっている。
 中国側としては、この「電報」をこの時期に公開することにより、ダライ・ラマ14世が「17か条取り決め」を了承していることを示し、チベットにおける中国の地位を合法化する狙いがあると見られる。しかし、「電報」については発信者側の署名、決裁のある原議が無ければ、真偽は判断出来ない。
 この「取り決め」に基づき、1951年10月、中国人民解放軍がチベットに進駐し、中国側の「民主改革、平和解放」を進め、統治を強化するにつれて、「宗教合一」などの伝統や権能を巡りチベット側との溝が深まり、59年3月10日、ダライ・ラマはチベットを去るに当たり「臨時政府」の樹立を宣言し、一方的に「17か条取り決めが破棄」され、「チベット独立が宣言された」と解釈されている(「北京週報資料」電子版2008年3月23日他)。
 3、「独立」未満、「17か条取り決め」以上のチベットの自治は可能か (その3に掲載)
(2012.3.10.)(Copy Right Reserved.)(不許無断転載)
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国際シリーズ チベット問題の根源と今後の動向 (その2)

2012-04-05 | Weblog
国際シリーズ チベット問題の根源と今後の動向 (その2)
 4年前の2008年3月10日、チベット自治区の首府ラサで僧侶などによる北京オリンピックの開催国中国に対する抗議デモは、治安警察との衝突からで暴動に発展し、中国治安警察の鎮圧活動の過程で、死者18人(中国側発表)を含む多数の死傷者と900人を越える逮捕者を出した。
 そして本年7月27日から開催されるロンドン・オリンピックを前にしてチベットにおいて緊張感が高まっている。2008年のチベット内外での抗議活動は北京オリンピックのボイコットには繋がらなかったが、今回中国政府は抗議活動などを警戒し、ラサへの外国人記者の訪問、取材の制限など情報統制や治安維持活動を強化している。
それは今年が4年に1度のオリンピックの年だからではない。3月10日は、高度な自治を求めるダライ・ラマ14世が1959年に中国人民軍に追われ、チベットを脱出する際に「臨時政府」の樹立を宣言した日であり、北インドのダラムサラで亡命政府が樹立された月に当たるからである。亡命政府発足30周年に当たる1989年3月にもラサで抗議行動が暴動に発展し、中国治安当局による弾圧活動が行われている。国際世論にチベットの自治・独立を訴えるために北京でオリンピックの際と同様、ロンドン・オリンピックの年に大きな抗議行動に発展する可能性がある。
 それではチベット問題の歴史的背景、根源は何か、そして今後展望は開けるるのだろうか。
 1、 中国政府の主張の根拠 ―「17か条取り決め」- (その1 で掲載)
 2、清朝時代に遡るチベット問題 (その2に掲載)
 清朝時代に中国全土をほぼ統一した中央政府は、チベットの「宗教首領」として、17世紀中頃にラサ市を中心に影響力があったダライ第5世を冊封(さくほう、地位を与える行為で、制度的に統一されたのは隋代よりと言われる)すると共に、18世紀初期には第二の都市シガツエを中心に影響力のあった「パンチェン・オルドニ」を冊封し、チベット第2の最高位のラマ僧となり、パンチェン・ラマとも言われ、2大活仏系統となった。以来、いずれも中央政府の冊封を得て初めて合法とされるが、行政上は中央より派遣されていた大臣の監督、統轄の下にある形となっていた(北京週報資料、08年3月他)。チベットを統治する上で一方に権威や勢力が集中することを避けるための歴史的な制度と見られるが、これは中国政府側からの歴史、制度であり、チベット側には「政教合一」(政教一致)に根ざした宗教的な伝統があるのであろう。
 現在でも2大活仏体系は存続している。ダライ・ラマ14世がインドに亡命した際、当時のパンチェン・ラマ10世はチベットに止まったが、「文化大革命」の時期に投獄されるなど、言動は制約される中で1989年1月、急逝した。その転生者―生まれ変わりーとして、宗教的手続きに従い6歳の子供(ゲンドゥン・チューキ・ニマ)を選び、95年5月、ダライ・ラマ14世がこれを認定する声明を出したが、中国側はこの認定を拒否した。同少年と家族はその後間もなく失踪したが、中国当局が拘束していると見られている。中国側は、別途の手続きに従い転生者を選び、同年齢のパンチェン・ラマ11世(ギエンツエン・ノルブ)を布告し、中国政府との関係などで活動している(「ダライ・ラマ日本代表事務所」資料、3月16日付新華社電他)。中国における信仰や言論の自由や人権が深い闇の中にあることを物語っている。
 人権や信仰・宗教の自由の観点からは、パンチェン・ラマ11世の拘束は重大な問題だ。更に問題は、将来ダライ・ラマ14世の転生者を選ぶ必要が生じた場合、これまでの宗教上の手続きに従うと、候補者選びは出来ても、ダライ・ラマ15世の認定声明は本来であればパンチェン11世が行うことになるが、中国側が布告したパンチェン11世が行うこととなると事態は複雑となろう。無論、ダライ・ラマ側とすればその転生者を切らすわけには行かないので、ダライ・ラマ側で転生者認定の便法が考えられることになろうが、チベットの宗教的伝統に従って後継者を選べない事態となれば、信仰の根幹に係わることであるのでこれまで以上の混乱は避けられないであろう。
 「17か条取り決め」骨子(1951年5月23日署名)
 1)(帝国主義勢力の排除に言及しつつ)チベット人民は中華人民共和国の祖国大家庭に復帰する。(第1条)
 2)チベット地方政府は、人民解放軍が進駐し、国防を固めることに協力する。(第2条)
    チベット軍隊は逐次改編し、中華人民共和国の国防武装力の一部となる。(第8条)
 3)チベットは、中央人民政府の統一的指導の下で、民族区域自治を実行する権利がある。(第3条)
 4)チベットの現行政治制度を変更しない。ダライ・ラマの固有の地位と職権も変更しない。(第4条)
 5)パンチェン・オルドニの固有の地位と職権は維持すべし。(第5条、6条)
   6)宗教信仰の自由を実行し、チベット人民の宗教信仰、風習習慣は尊重。(第7条、9条)
 7)中央政府は、チベット地区のすべての渉外事務を統一的に処理し、隣国と平和的に接し、
通商貿易関係を発展させる。(第14条)    (ソース:「北京週報資料」電子版2008年3月23日)
 4月7日、中国国家資料局は、1951年10月にダライ・ラマ14世が毛沢東主席宛に出した電報を公開した(新華社通信)。同電報は、「チベットの平和的な解放の方法に関する協議」に言及し、「51年5月23日に調印した」ことを伝え、取り決めを認める内容となっている。
 中国側としては、この「電報」をこの時期に公開することにより、ダライ・ラマ14世が「17か条取り決め」を了承していることを示し、チベットにおける中国の地位を合法化する狙いがあると見られる。しかし、「電報」については発信者側の署名、決裁のある原議が無ければ、真偽は判断出来ない。
 この「取り決め」に基づき、1951年10月、中国人民解放軍がチベットに進駐し、中国側の「民主改革、平和解放」を進め、統治を強化するにつれて、「宗教合一」などの伝統や権能を巡りチベット側との溝が深まり、59年3月10日、ダライ・ラマはチベットを去るに当たり「臨時政府」の樹立を宣言し、一方的に「17か条取り決めが破棄」され、「チベット独立が宣言された」と解釈されている(「北京週報資料」電子版2008年3月23日他)。
 3、「独立」未満、「17か条取り決め」以上のチベットの自治は可能か (その3に掲載)
(2012.3.10.)(Copy Right Reserved.)(不許無断転載)
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国際シリーズ チベット問題の根源と今後の動向 (その2)

2012-04-05 | Weblog
国際シリーズ チベット問題の根源と今後の動向 (その2)
 4年前の2008年3月10日、チベット自治区の首府ラサで僧侶などによる北京オリンピックの開催国中国に対する抗議デモは、治安警察との衝突からで暴動に発展し、中国治安警察の鎮圧活動の過程で、死者18人(中国側発表)を含む多数の死傷者と900人を越える逮捕者を出した。
 そして本年7月27日から開催されるロンドン・オリンピックを前にしてチベットにおいて緊張感が高まっている。2008年のチベット内外での抗議活動は北京オリンピックのボイコットには繋がらなかったが、今回中国政府は抗議活動などを警戒し、ラサへの外国人記者の訪問、取材の制限など情報統制や治安維持活動を強化している。
それは今年が4年に1度のオリンピックの年だからではない。3月10日は、高度な自治を求めるダライ・ラマ14世が1959年に中国人民軍に追われ、チベットを脱出する際に「臨時政府」の樹立を宣言した日であり、北インドのダラムサラで亡命政府が樹立された月に当たるからである。亡命政府発足30周年に当たる1989年3月にもラサで抗議行動が暴動に発展し、中国治安当局による弾圧活動が行われている。国際世論にチベットの自治・独立を訴えるために北京でオリンピックの際と同様、ロンドン・オリンピックの年に大きな抗議行動に発展する可能性がある。
 それではチベット問題の歴史的背景、根源は何か、そして今後展望は開けるるのだろうか。
 1、 中国政府の主張の根拠 ―「17か条取り決め」- (その1 で掲載)
 2、清朝時代に遡るチベット問題 (その2に掲載)
 清朝時代に中国全土をほぼ統一した中央政府は、チベットの「宗教首領」として、17世紀中頃にラサ市を中心に影響力があったダライ第5世を冊封(さくほう、地位を与える行為で、制度的に統一されたのは隋代よりと言われる)すると共に、18世紀初期には第二の都市シガツエを中心に影響力のあった「パンチェン・オルドニ」を冊封し、チベット第2の最高位のラマ僧となり、パンチェン・ラマとも言われ、2大活仏系統となった。以来、いずれも中央政府の冊封を得て初めて合法とされるが、行政上は中央より派遣されていた大臣の監督、統轄の下にある形となっていた(北京週報資料、08年3月他)。チベットを統治する上で一方に権威や勢力が集中することを避けるための歴史的な制度と見られるが、これは中国政府側からの歴史、制度であり、チベット側には「政教合一」(政教一致)に根ざした宗教的な伝統があるのであろう。
 現在でも2大活仏体系は存続している。ダライ・ラマ14世がインドに亡命した際、当時のパンチェン・ラマ10世はチベットに止まったが、「文化大革命」の時期に投獄されるなど、言動は制約される中で1989年1月、急逝した。その転生者―生まれ変わりーとして、宗教的手続きに従い6歳の子供(ゲンドゥン・チューキ・ニマ)を選び、95年5月、ダライ・ラマ14世がこれを認定する声明を出したが、中国側はこの認定を拒否した。同少年と家族はその後間もなく失踪したが、中国当局が拘束していると見られている。中国側は、別途の手続きに従い転生者を選び、同年齢のパンチェン・ラマ11世(ギエンツエン・ノルブ)を布告し、中国政府との関係などで活動している(「ダライ・ラマ日本代表事務所」資料、3月16日付新華社電他)。中国における信仰や言論の自由や人権が深い闇の中にあることを物語っている。
 人権や信仰・宗教の自由の観点からは、パンチェン・ラマ11世の拘束は重大な問題だ。更に問題は、将来ダライ・ラマ14世の転生者を選ぶ必要が生じた場合、これまでの宗教上の手続きに従うと、候補者選びは出来ても、ダライ・ラマ15世の認定声明は本来であればパンチェン11世が行うことになるが、中国側が布告したパンチェン11世が行うこととなると事態は複雑となろう。無論、ダライ・ラマ側とすればその転生者を切らすわけには行かないので、ダライ・ラマ側で転生者認定の便法が考えられることになろうが、チベットの宗教的伝統に従って後継者を選べない事態となれば、信仰の根幹に係わることであるのでこれまで以上の混乱は避けられないであろう。
 「17か条取り決め」骨子(1951年5月23日署名)
 1)(帝国主義勢力の排除に言及しつつ)チベット人民は中華人民共和国の祖国大家庭に復帰する。(第1条)
 2)チベット地方政府は、人民解放軍が進駐し、国防を固めることに協力する。(第2条)
    チベット軍隊は逐次改編し、中華人民共和国の国防武装力の一部となる。(第8条)
 3)チベットは、中央人民政府の統一的指導の下で、民族区域自治を実行する権利がある。(第3条)
 4)チベットの現行政治制度を変更しない。ダライ・ラマの固有の地位と職権も変更しない。(第4条)
 5)パンチェン・オルドニの固有の地位と職権は維持すべし。(第5条、6条)
   6)宗教信仰の自由を実行し、チベット人民の宗教信仰、風習習慣は尊重。(第7条、9条)
 7)中央政府は、チベット地区のすべての渉外事務を統一的に処理し、隣国と平和的に接し、
通商貿易関係を発展させる。(第14条)    (ソース:「北京週報資料」電子版2008年3月23日)
 4月7日、中国国家資料局は、1951年10月にダライ・ラマ14世が毛沢東主席宛に出した電報を公開した(新華社通信)。同電報は、「チベットの平和的な解放の方法に関する協議」に言及し、「51年5月23日に調印した」ことを伝え、取り決めを認める内容となっている。
 中国側としては、この「電報」をこの時期に公開することにより、ダライ・ラマ14世が「17か条取り決め」を了承していることを示し、チベットにおける中国の地位を合法化する狙いがあると見られる。しかし、「電報」については発信者側の署名、決裁のある原議が無ければ、真偽は判断出来ない。
 この「取り決め」に基づき、1951年10月、中国人民解放軍がチベットに進駐し、中国側の「民主改革、平和解放」を進め、統治を強化するにつれて、「宗教合一」などの伝統や権能を巡りチベット側との溝が深まり、59年3月10日、ダライ・ラマはチベットを去るに当たり「臨時政府」の樹立を宣言し、一方的に「17か条取り決めが破棄」され、「チベット独立が宣言された」と解釈されている(「北京週報資料」電子版2008年3月23日他)。
 3、「独立」未満、「17か条取り決め」以上のチベットの自治は可能か (その3に掲載)
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国際シリーズ チベット問題の根源と今後の動向 (その1)

2012-04-05 | Weblog
国際シリーズ チベット問題の根源と今後の動向 (その1)
 4年前の2008年3月10日、チベット自治区の首府ラサで僧侶などによる北京オリンピックの開催国中国に対する抗議デモは、治安警察との衝突からで暴動に発展し、中国治安警察の鎮圧活動の過程で、死者18人(中国側発表)を含む多数の死傷者と900人を越える逮捕者を出した。
 そして本年7月27日から開催されるロンドン・オリンピックを前にしてチベットにおいて緊張感が高まっている。2008年のチベット内外での抗議活動は北京オリンピックのボイコットには繋がらなかったが、今回中国政府は抗議活動などを警戒し、ラサへの外国人記者の訪問、取材の制限など情報統制や治安維持活動を強化している。
それは今年が4年に1度のオリンピックの年だからではない。3月10日は、高度な自治を求めるダライ・ラマ14世が1959年に中国人民軍に追われ、チベットを脱出する際に「臨時政府」の樹立を宣言した日であり、北インドのダラムサラで亡命政府が樹立された月に当たるからである。亡命政府発足30周年に当たる1989年3月にもラサで抗議行動が暴動に発展し、中国治安当局による弾圧活動が行われている。国際世論にチベットの自治・独立を訴えるために北京でオリンピックの際と同様、ロンドン・オリンピックの年に大きな抗議行動に発展する可能性がある。
 それではチベット問題の歴史的背景、根源は何か、そして今後展望は開けるるのだろうか。
 1、 中国政府の主張の根拠 ―「17か条取り決め」-
 中国は、チベット自治区は「中国の一部」という主張を繰り返すであろう。その根拠として、1951年に署名された「17か条取り決め」を引き合いに出そう。
毛沢東主席の下で中国人民軍が1950年にチベット地域に侵攻し、蒋介石総統下の国民党勢力の影響を排除し、同地域を制圧した。米国は、共産主義の拡大阻止の観点から国民党を支持していた。その後、チベットは北京に代表を派遣し、1951年5月23日、中国代表との間で「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放の方法に関する取り決め」(通称「17か条取り決め」)に署名している。
「17か条取り決め」においては、「チベット人民は中華人民共和国の祖国大家庭に復帰」すると共に、「人民解放軍が進駐し、国防を固め」、通商貿易関係など「すべての渉外事務」は「中央政府」が処理するとしている。他方、チベットは「中央人民政府の統一的指導の下で、民族区域自治を実行する権利」があり、「ダライ・ラマの固有の地位と職権も変更しない」など、チベットの「自治」と「チベットの政治制度」の維持、「ダライ・ラマの固有の地位と職権」などが規定されており、一定の自治を想定していたことが読み取れる。しかし、清朝時代に導入された第2の宗教首領の「パンチェン・オルドニ」についても「固有の地位と職権は維持する」旨規定されており、旧来の制度に沿って「職権」を2人の宗教首領で分担するように規定されている。
ここに中国政府がチベット自治区は「中国の一部」と主張する根拠がある。
 2、清朝時代に遡るチベット問題 (その2に掲載)
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国際シリーズ チベット問題の根源と今後の動向 (その1)

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国際シリーズ チベット問題の根源と今後の動向 (その1)
 4年前の2008年3月10日、チベット自治区の首府ラサで僧侶などによる北京オリンピックの開催国中国に対する抗議デモは、治安警察との衝突からで暴動に発展し、中国治安警察の鎮圧活動の過程で、死者18人(中国側発表)を含む多数の死傷者と900人を越える逮捕者を出した。
 そして本年7月27日から開催されるロンドン・オリンピックを前にしてチベットにおいて緊張感が高まっている。2008年のチベット内外での抗議活動は北京オリンピックのボイコットには繋がらなかったが、今回中国政府は抗議活動などを警戒し、ラサへの外国人記者の訪問、取材の制限など情報統制や治安維持活動を強化している。
それは今年が4年に1度のオリンピックの年だからではない。3月10日は、高度な自治を求めるダライ・ラマ14世が1959年に中国人民軍に追われ、チベットを脱出する際に「臨時政府」の樹立を宣言した日であり、北インドのダラムサラで亡命政府が樹立された月に当たるからである。亡命政府発足30周年に当たる1989年3月にもラサで抗議行動が暴動に発展し、中国治安当局による弾圧活動が行われている。国際世論にチベットの自治・独立を訴えるために北京でオリンピックの際と同様、ロンドン・オリンピックの年に大きな抗議行動に発展する可能性がある。
 それではチベット問題の歴史的背景、根源は何か、そして今後展望は開けるるのだろうか。
 1、 中国政府の主張の根拠 ―「17か条取り決め」-
 中国は、チベット自治区は「中国の一部」という主張を繰り返すであろう。その根拠として、1951年に署名された「17か条取り決め」を引き合いに出そう。
毛沢東主席の下で中国人民軍が1950年にチベット地域に侵攻し、蒋介石総統下の国民党勢力の影響を排除し、同地域を制圧した。米国は、共産主義の拡大阻止の観点から国民党を支持していた。その後、チベットは北京に代表を派遣し、1951年5月23日、中国代表との間で「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放の方法に関する取り決め」(通称「17か条取り決め」)に署名している。
「17か条取り決め」においては、「チベット人民は中華人民共和国の祖国大家庭に復帰」すると共に、「人民解放軍が進駐し、国防を固め」、通商貿易関係など「すべての渉外事務」は「中央政府」が処理するとしている。他方、チベットは「中央人民政府の統一的指導の下で、民族区域自治を実行する権利」があり、「ダライ・ラマの固有の地位と職権も変更しない」など、チベットの「自治」と「チベットの政治制度」の維持、「ダライ・ラマの固有の地位と職権」などが規定されており、一定の自治を想定していたことが読み取れる。しかし、清朝時代に導入された第2の宗教首領の「パンチェン・オルドニ」についても「固有の地位と職権は維持する」旨規定されており、旧来の制度に沿って「職権」を2人の宗教首領で分担するように規定されている。
ここに中国政府がチベット自治区は「中国の一部」と主張する根拠がある。
 2、清朝時代に遡るチベット問題 (その2に掲載)
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 4年前の2008年3月10日、チベット自治区の首府ラサで僧侶などによる北京オリンピックの開催国中国に対する抗議デモは、治安警察との衝突からで暴動に発展し、中国治安警察の鎮圧活動の過程で、死者18人(中国側発表)を含む多数の死傷者と900人を越える逮捕者を出した。
 そして本年7月27日から開催されるロンドン・オリンピックを前にしてチベットにおいて緊張感が高まっている。2008年のチベット内外での抗議活動は北京オリンピックのボイコットには繋がらなかったが、今回中国政府は抗議活動などを警戒し、ラサへの外国人記者の訪問、取材の制限など情報統制や治安維持活動を強化している。
それは今年が4年に1度のオリンピックの年だからではない。3月10日は、高度な自治を求めるダライ・ラマ14世が1959年に中国人民軍に追われ、チベットを脱出する際に「臨時政府」の樹立を宣言した日であり、北インドのダラムサラで亡命政府が樹立された月に当たるからである。亡命政府発足30周年に当たる1989年3月にもラサで抗議行動が暴動に発展し、中国治安当局による弾圧活動が行われている。国際世論にチベットの自治・独立を訴えるために北京でオリンピックの際と同様、ロンドン・オリンピックの年に大きな抗議行動に発展する可能性がある。
 それではチベット問題の歴史的背景、根源は何か、そして今後展望は開けるるのだろうか。
 1、 中国政府の主張の根拠 ―「17か条取り決め」-
 中国は、チベット自治区は「中国の一部」という主張を繰り返すであろう。その根拠として、1951年に署名された「17か条取り決め」を引き合いに出そう。
毛沢東主席の下で中国人民軍が1950年にチベット地域に侵攻し、蒋介石総統下の国民党勢力の影響を排除し、同地域を制圧した。米国は、共産主義の拡大阻止の観点から国民党を支持していた。その後、チベットは北京に代表を派遣し、1951年5月23日、中国代表との間で「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放の方法に関する取り決め」(通称「17か条取り決め」)に署名している。
「17か条取り決め」においては、「チベット人民は中華人民共和国の祖国大家庭に復帰」すると共に、「人民解放軍が進駐し、国防を固め」、通商貿易関係など「すべての渉外事務」は「中央政府」が処理するとしている。他方、チベットは「中央人民政府の統一的指導の下で、民族区域自治を実行する権利」があり、「ダライ・ラマの固有の地位と職権も変更しない」など、チベットの「自治」と「チベットの政治制度」の維持、「ダライ・ラマの固有の地位と職権」などが規定されており、一定の自治を想定していたことが読み取れる。しかし、清朝時代に導入された第2の宗教首領の「パンチェン・オルドニ」についても「固有の地位と職権は維持する」旨規定されており、旧来の制度に沿って「職権」を2人の宗教首領で分担するように規定されている。
ここに中国政府がチベット自治区は「中国の一部」と主張する根拠がある。
 2、清朝時代に遡るチベット問題 (その2に掲載)
(2012.3.10.)(Copy Right Reserved.)(不許無断転載)
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