内外政策評論 TheOpinion on Global & Domestic Issues

このブログは、広い視野から内外諸問題を分析し、提言を試みます。
Policy Essayist

消費税増税に際し軽減税率等は必要か?

2012-06-12 | Weblog
消費税増税に際し軽減税率等は必要か?
 野田政権は、消費税増税を今国会で実現すべく、自・公両党との法案修正協議に入った。低所得者への課税をどうするかや、社会保障面での若干の手直しの取り扱いなどなお予断を許さないが、もともと自・公両党とも政権にあった時期に10%への消費税増税を模索していたので、福祉分野の行政管理費の節減・簡素化や持続可能な年金とするための制度設計などの基本的な問題は残るが、消費税増税が採択される可能性が出てきた。
 その中で、低所得者に対する給付や還付、軽減税率などが検討されているが、次の理由でそのような優遇措置は不要であろう。
(1)低所得者層は、そもそも所得税が免除されているか最低限の税率しか課されておらず、既に配慮されている。地方税も所得に連動しており、同様である。
(2)消費増税は、主として年金や医療など福祉関係の予算に充当することを目的として考えられているが、福祉関係の予算の受益者は低所得者層が多い。景気が良く、財政が潤沢な時代なら兎も角、主要な受益者である低所得者層が福祉のために若干の負担をすることは、社会的な責任を自覚する上でむしろ好ましい。
今後の経済状況や少子化による全般的な税負担能力の低下を考慮すると、負担は全員が分かち合う必要が出てきている。
 但し、消費増税の福祉目的税化は支持出来ない。特定目的に財源が確保され、財政枠が出来ると、節減努力は薄れ、不必要な支出や非効率を温存することになる。ガソリン税暫定税率などの前例がある。社会福祉サービスの向上に充当出来るとしつつ、一般財源とする一方、社会福祉分野を含め、行政管理費の節減、簡素化に努めることを明示することが望まれる。
 また軽減税率や税の還付等は、どのようにしても制度を複雑にし、行政経費を膨らませる結果となる。
(3)消費は、各々の所得に応じて価格、数量を選べるので、それぞれの努力で消費税も軽減できる。年齢や所得水準に従って誰しもが経験して来ているところである。
 社会福祉は、国民各々の負担能力に応じ全員で負担し、全員が受益するという全員参加の意識の構築が望まれる。(2012.06.10.)
(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
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消費税増税に際し軽減税率等は必要か?

2012-06-12 | Weblog
消費税増税に際し軽減税率等は必要か?
 野田政権は、消費税増税を今国会で実現すべく、自・公両党との法案修正協議に入った。低所得者への課税をどうするかや、社会保障面での若干の手直しの取り扱いなどなお予断を許さないが、もともと自・公両党とも政権にあった時期に10%への消費税増税を模索していたので、福祉分野の行政管理費の節減・簡素化や持続可能な年金とするための制度設計などの基本的な問題は残るが、消費税増税が採択される可能性が出てきた。
 その中で、低所得者に対する給付や還付、軽減税率などが検討されているが、次の理由でそのような優遇措置は不要であろう。
(1)低所得者層は、そもそも所得税が免除されているか最低限の税率しか課されておらず、既に配慮されている。地方税も所得に連動しており、同様である。
(2)消費増税は、主として年金や医療など福祉関係の予算に充当することを目的として考えられているが、福祉関係の予算の受益者は低所得者層が多い。景気が良く、財政が潤沢な時代なら兎も角、主要な受益者である低所得者層が福祉のために若干の負担をすることは、社会的な責任を自覚する上でむしろ好ましい。
今後の経済状況や少子化による全般的な税負担能力の低下を考慮すると、負担は全員が分かち合う必要が出てきている。
 但し、消費増税の福祉目的税化は支持出来ない。特定目的に財源が確保され、財政枠が出来ると、節減努力は薄れ、不必要な支出や非効率を温存することになる。ガソリン税暫定税率などの前例がある。社会福祉サービスの向上に充当出来るとしつつ、一般財源とする一方、社会福祉分野を含め、行政管理費の節減、簡素化に努めることを明示することが望まれる。
 また軽減税率や税の還付等は、どのようにしても制度を複雑にし、行政経費を膨らませる結果となる。
(3)消費は、各々の所得に応じて価格、数量を選べるので、それぞれの努力で消費税も軽減できる。年齢や所得水準に従って誰しもが経験して来ているところである。
 社会福祉は、国民各々の負担能力に応じ全員で負担し、全員が受益するという全員参加の意識の構築が望まれる。(2012.06.10.)
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 野田政権は、消費税増税を今国会で実現すべく、自・公両党との法案修正協議に入った。低所得者への課税をどうするかや、社会保障面での若干の手直しの取り扱いなどなお予断を許さないが、もともと自・公両党とも政権にあった時期に10%への消費税増税を模索していたので、福祉分野の行政管理費の節減・簡素化や持続可能な年金とするための制度設計などの基本的な問題は残るが、消費税増税が採択される可能性が出てきた。
 その中で、低所得者に対する給付や還付、軽減税率などが検討されているが、次の理由でそのような優遇措置は不要であろう。
(1)低所得者層は、そもそも所得税が免除されているか最低限の税率しか課されておらず、既に配慮されている。地方税も所得に連動しており、同様である。
(2)消費増税は、主として年金や医療など福祉関係の予算に充当することを目的として考えられているが、福祉関係の予算の受益者は低所得者層が多い。景気が良く、財政が潤沢な時代なら兎も角、主要な受益者である低所得者層が福祉のために若干の負担をすることは、社会的な責任を自覚する上でむしろ好ましい。
今後の経済状況や少子化による全般的な税負担能力の低下を考慮すると、負担は全員が分かち合う必要が出てきている。
 但し、消費増税の福祉目的税化は支持出来ない。特定目的に財源が確保され、財政枠が出来ると、節減努力は薄れ、不必要な支出や非効率を温存することになる。ガソリン税暫定税率などの前例がある。社会福祉サービスの向上に充当出来るとしつつ、一般財源とする一方、社会福祉分野を含め、行政管理費の節減、簡素化に努めることを明示することが望まれる。
 また軽減税率や税の還付等は、どのようにしても制度を複雑にし、行政経費を膨らませる結果となる。
(3)消費は、各々の所得に応じて価格、数量を選べるので、それぞれの努力で消費税も軽減できる。年齢や所得水準に従って誰しもが経験して来ているところである。
 社会福祉は、国民各々の負担能力に応じ全員で負担し、全員が受益するという全員参加の意識の構築が望まれる。(2012.06.10.)
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 その中で、低所得者に対する給付や還付、軽減税率などが検討されているが、次の理由でそのような優遇措置は不要であろう。
(1)低所得者層は、そもそも所得税が免除されているか最低限の税率しか課されておらず、既に配慮されている。地方税も所得に連動しており、同様である。
(2)消費増税は、主として年金や医療など福祉関係の予算に充当することを目的として考えられているが、福祉関係の予算の受益者は低所得者層が多い。景気が良く、財政が潤沢な時代なら兎も角、主要な受益者である低所得者層が福祉のために若干の負担をすることは、社会的な責任を自覚する上でむしろ好ましい。
今後の経済状況や少子化による全般的な税負担能力の低下を考慮すると、負担は全員が分かち合う必要が出てきている。
 但し、消費増税の福祉目的税化は支持出来ない。特定目的に財源が確保され、財政枠が出来ると、節減努力は薄れ、不必要な支出や非効率を温存することになる。ガソリン税暫定税率などの前例がある。社会福祉サービスの向上に充当出来るとしつつ、一般財源とする一方、社会福祉分野を含め、行政管理費の節減、簡素化に努めることを明示することが望まれる。
 また軽減税率や税の還付等は、どのようにしても制度を複雑にし、行政経費を膨らませる結果となる。
(3)消費は、各々の所得に応じて価格、数量を選べるので、それぞれの努力で消費税も軽減できる。年齢や所得水準に従って誰しもが経験して来ているところである。
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 その中で、低所得者に対する給付や還付、軽減税率などが検討されているが、次の理由でそのような優遇措置は不要であろう。
(1)低所得者層は、そもそも所得税が免除されているか最低限の税率しか課されておらず、既に配慮されている。地方税も所得に連動しており、同様である。
(2)消費増税は、主として年金や医療など福祉関係の予算に充当することを目的として考えられているが、福祉関係の予算の受益者は低所得者層が多い。景気が良く、財政が潤沢な時代なら兎も角、主要な受益者である低所得者層が福祉のために若干の負担をすることは、社会的な責任を自覚する上でむしろ好ましい。
今後の経済状況や少子化による全般的な税負担能力の低下を考慮すると、負担は全員が分かち合う必要が出てきている。
 但し、消費増税の福祉目的税化は支持出来ない。特定目的に財源が確保され、財政枠が出来ると、節減努力は薄れ、不必要な支出や非効率を温存することになる。ガソリン税暫定税率などの前例がある。社会福祉サービスの向上に充当出来るとしつつ、一般財源とする一方、社会福祉分野を含め、行政管理費の節減、簡素化に努めることを明示することが望まれる。
 また軽減税率や税の還付等は、どのようにしても制度を複雑にし、行政経費を膨らませる結果となる。
(3)消費は、各々の所得に応じて価格、数量を選べるので、それぞれの努力で消費税も軽減できる。年齢や所得水準に従って誰しもが経験して来ているところである。
 社会福祉は、国民各々の負担能力に応じ全員で負担し、全員が受益するという全員参加の意識の構築が望まれる。(2012.06.10.)
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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (総合編)

2012-06-12 | Weblog
シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (総合編)
 4月8日はブッダ(仏陀、通称お釈迦様)の誕生日として知られ、ブッダ教が普及している諸国や地域で花祭りなどが行われ、またブッダの誕生地ルンビニのあるネパールでは5月6日の満月の日に誕生祭が行われている。
1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来したのは、「日本書紀」に飛鳥時代の552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から538年に仏教が伝えられたと見られている。経論などは中国で漢語訳されていたことから、
仏教、仏陀など漢字表記となっている。
確かに、百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。これらの記述から日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安、平穏を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を含めて以来、仏教は朝廷に受け入れられた。それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの闘いで多くの死者を出したことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみに課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであったコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教え、戒めの背景の一つとなっているようだ。
そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として制度化され、日本の思想、文化に幅広い影響を与えている。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数は減少したものの、もともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として普及、発展して来たものであるので、広く日本の思想、文化の中に浸透してると言える。国勢調査においても、仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の創始者であるブッダ(通称お釈迦様)誕生の歴史的、社会的背景などについては、生誕地がネパールのルンビニであることはある程度知られているが、29歳までシャキア(釈迦)王国の王子として育った城都カピラバスツやそのシャキア王国が何故歴史から消えたのかなど、余り知られていない。学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 それ以上に、生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については、未だにネパール説とインド説があり明らかになっていない。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」がそのような歴史的、社会的背景を明らかにし、いわば新常識を提示している。

 2、ブッダ誕生の聖地を読む
ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。
ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなど、謎が多い。日本などでは、経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、そのルーツなど歴史的な事実について正しく理解されていないことが多い。あるアジアの国の僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあるとは記されてはいないようだ。それを明らかにするのが、歴史や科学なのであろう。
著書「お釈迦様のルーツの謎」は、ブッダの生誕からカピラバスツ城の場所、シャキア王国滅亡などの真相に迫り、その所在地を中心としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景を描いたもので、それをベースとしてブッダの今日的意味を提示している。
「お釈迦様のルーツの謎」は、次のような諸点を明らかにし、「新常識」を数多く提示している。
・シャキヤ王国を建国したシャキヤ(釈迦)族は何処から来たか、そして種族は?
・ブッダの生誕地ルンビニはどのようにして何時発見されたのか?
・シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の所在地は、ネパールかインドか?
 2つのカピラ城が存在する謎。一方がカピラ城跡とすると、もう一方の遺跡は何か?
・過去に存在したブッダの意味するところは?
・シャキヤ王国は何故滅亡したのか? ブッダはその時何をしていたのか?
・インドを統一したアショカ王は何故あれほど熱心にブッダに帰依したのかなど。

 著書「お釈迦様のルーツの謎」は、出版元の東京図書出版(026-673-8051又は03-3823-9171)の他、インターネットを通じお求めになれます。
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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (総合編)

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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (総合編)
 4月8日はブッダ(仏陀、通称お釈迦様)の誕生日として知られ、ブッダ教が普及している諸国や地域で花祭りなどが行われ、またブッダの誕生地ルンビニのあるネパールでは5月6日の満月の日に誕生祭が行われている。
1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来したのは、「日本書紀」に飛鳥時代の552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から538年に仏教が伝えられたと見られている。経論などは中国で漢語訳されていたことから、
仏教、仏陀など漢字表記となっている。
確かに、百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。これらの記述から日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安、平穏を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を含めて以来、仏教は朝廷に受け入れられた。それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの闘いで多くの死者を出したことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみに課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであったコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教え、戒めの背景の一つとなっているようだ。
そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として制度化され、日本の思想、文化に幅広い影響を与えている。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数は減少したものの、もともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として普及、発展して来たものであるので、広く日本の思想、文化の中に浸透してると言える。国勢調査においても、仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の創始者であるブッダ(通称お釈迦様)誕生の歴史的、社会的背景などについては、生誕地がネパールのルンビニであることはある程度知られているが、29歳までシャキア(釈迦)王国の王子として育った城都カピラバスツやそのシャキア王国が何故歴史から消えたのかなど、余り知られていない。学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 それ以上に、生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については、未だにネパール説とインド説があり明らかになっていない。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」がそのような歴史的、社会的背景を明らかにし、いわば新常識を提示している。

 2、ブッダ誕生の聖地を読む
ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。
ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなど、謎が多い。日本などでは、経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、そのルーツなど歴史的な事実について正しく理解されていないことが多い。あるアジアの国の僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあるとは記されてはいないようだ。それを明らかにするのが、歴史や科学なのであろう。
著書「お釈迦様のルーツの謎」は、ブッダの生誕からカピラバスツ城の場所、シャキア王国滅亡などの真相に迫り、その所在地を中心としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景を描いたもので、それをベースとしてブッダの今日的意味を提示している。
「お釈迦様のルーツの謎」は、次のような諸点を明らかにし、「新常識」を数多く提示している。
・シャキヤ王国を建国したシャキヤ(釈迦)族は何処から来たか、そして種族は?
・ブッダの生誕地ルンビニはどのようにして何時発見されたのか?
・シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の所在地は、ネパールかインドか?
 2つのカピラ城が存在する謎。一方がカピラ城跡とすると、もう一方の遺跡は何か?
・過去に存在したブッダの意味するところは?
・シャキヤ王国は何故滅亡したのか? ブッダはその時何をしていたのか?
・インドを統一したアショカ王は何故あれほど熱心にブッダに帰依したのかなど。

 著書「お釈迦様のルーツの謎」は、出版元の東京図書出版(026-673-8051又は03-3823-9171)の他、インターネットを通じお求めになれます。
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 4月8日はブッダ(仏陀、通称お釈迦様)の誕生日として知られ、ブッダ教が普及している諸国や地域で花祭りなどが行われ、またブッダの誕生地ルンビニのあるネパールでは5月6日の満月の日に誕生祭が行われている。
1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来したのは、「日本書紀」に飛鳥時代の552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から538年に仏教が伝えられたと見られている。経論などは中国で漢語訳されていたことから、
仏教、仏陀など漢字表記となっている。
確かに、百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。これらの記述から日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安、平穏を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を含めて以来、仏教は朝廷に受け入れられた。それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの闘いで多くの死者を出したことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみに課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであったコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教え、戒めの背景の一つとなっているようだ。
そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として制度化され、日本の思想、文化に幅広い影響を与えている。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数は減少したものの、もともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として普及、発展して来たものであるので、広く日本の思想、文化の中に浸透してると言える。国勢調査においても、仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の創始者であるブッダ(通称お釈迦様)誕生の歴史的、社会的背景などについては、生誕地がネパールのルンビニであることはある程度知られているが、29歳までシャキア(釈迦)王国の王子として育った城都カピラバスツやそのシャキア王国が何故歴史から消えたのかなど、余り知られていない。学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 それ以上に、生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については、未だにネパール説とインド説があり明らかになっていない。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」がそのような歴史的、社会的背景を明らかにし、いわば新常識を提示している。

 2、ブッダ誕生の聖地を読む
ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。
ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなど、謎が多い。日本などでは、経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、そのルーツなど歴史的な事実について正しく理解されていないことが多い。あるアジアの国の僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあるとは記されてはいないようだ。それを明らかにするのが、歴史や科学なのであろう。
著書「お釈迦様のルーツの謎」は、ブッダの生誕からカピラバスツ城の場所、シャキア王国滅亡などの真相に迫り、その所在地を中心としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景を描いたもので、それをベースとしてブッダの今日的意味を提示している。
「お釈迦様のルーツの謎」は、次のような諸点を明らかにし、「新常識」を数多く提示している。
・シャキヤ王国を建国したシャキヤ(釈迦)族は何処から来たか、そして種族は?
・ブッダの生誕地ルンビニはどのようにして何時発見されたのか?
・シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の所在地は、ネパールかインドか?
 2つのカピラ城が存在する謎。一方がカピラ城跡とすると、もう一方の遺跡は何か?
・過去に存在したブッダの意味するところは?
・シャキヤ王国は何故滅亡したのか? ブッダはその時何をしていたのか?
・インドを統一したアショカ王は何故あれほど熱心にブッダに帰依したのかなど。

 著書「お釈迦様のルーツの謎」は、出版元の東京図書出版(026-673-8051又は03-3823-9171)の他、インターネットを通じお求めになれます。
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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (総合編)

2012-06-12 | Weblog
シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (総合編)
 4月8日はブッダ(仏陀、通称お釈迦様)の誕生日として知られ、ブッダ教が普及している諸国や地域で花祭りなどが行われ、またブッダの誕生地ルンビニのあるネパールでは5月6日の満月の日に誕生祭が行われている。
1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来したのは、「日本書紀」に飛鳥時代の552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から538年に仏教が伝えられたと見られている。経論などは中国で漢語訳されていたことから、
仏教、仏陀など漢字表記となっている。
確かに、百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。これらの記述から日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安、平穏を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を含めて以来、仏教は朝廷に受け入れられた。それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの闘いで多くの死者を出したことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみに課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであったコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教え、戒めの背景の一つとなっているようだ。
そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として制度化され、日本の思想、文化に幅広い影響を与えている。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数は減少したものの、もともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として普及、発展して来たものであるので、広く日本の思想、文化の中に浸透してると言える。国勢調査においても、仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の創始者であるブッダ(通称お釈迦様)誕生の歴史的、社会的背景などについては、生誕地がネパールのルンビニであることはある程度知られているが、29歳までシャキア(釈迦)王国の王子として育った城都カピラバスツやそのシャキア王国が何故歴史から消えたのかなど、余り知られていない。学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 それ以上に、生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については、未だにネパール説とインド説があり明らかになっていない。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」がそのような歴史的、社会的背景を明らかにし、いわば新常識を提示している。

 2、ブッダ誕生の聖地を読む
ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。
ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなど、謎が多い。日本などでは、経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、そのルーツなど歴史的な事実について正しく理解されていないことが多い。あるアジアの国の僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあるとは記されてはいないようだ。それを明らかにするのが、歴史や科学なのであろう。
著書「お釈迦様のルーツの謎」は、ブッダの生誕からカピラバスツ城の場所、シャキア王国滅亡などの真相に迫り、その所在地を中心としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景を描いたもので、それをベースとしてブッダの今日的意味を提示している。
「お釈迦様のルーツの謎」は、次のような諸点を明らかにし、「新常識」を数多く提示している。
・シャキヤ王国を建国したシャキヤ(釈迦)族は何処から来たか、そして種族は?
・ブッダの生誕地ルンビニはどのようにして何時発見されたのか?
・シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の所在地は、ネパールかインドか?
 2つのカピラ城が存在する謎。一方がカピラ城跡とすると、もう一方の遺跡は何か?
・過去に存在したブッダの意味するところは?
・シャキヤ王国は何故滅亡したのか? ブッダはその時何をしていたのか?
・インドを統一したアショカ王は何故あれほど熱心にブッダに帰依したのかなど。

 著書「お釈迦様のルーツの謎」は、出版元の東京図書出版(026-673-8051又は03-3823-9171)の他、インターネットを通じお求めになれます。
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 4月8日はブッダ(仏陀、通称お釈迦様)の誕生日として知られ、ブッダ教が普及している諸国や地域で花祭りなどが行われ、またブッダの誕生地ルンビニのあるネパールでは5月6日の満月の日に誕生祭が行われている。
1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来したのは、「日本書紀」に飛鳥時代の552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から538年に仏教が伝えられたと見られている。経論などは中国で漢語訳されていたことから、
仏教、仏陀など漢字表記となっている。
確かに、百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。これらの記述から日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安、平穏を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を含めて以来、仏教は朝廷に受け入れられた。それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの闘いで多くの死者を出したことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみに課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであったコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教え、戒めの背景の一つとなっているようだ。
そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として制度化され、日本の思想、文化に幅広い影響を与えている。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数は減少したものの、もともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として普及、発展して来たものであるので、広く日本の思想、文化の中に浸透してると言える。国勢調査においても、仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の創始者であるブッダ(通称お釈迦様)誕生の歴史的、社会的背景などについては、生誕地がネパールのルンビニであることはある程度知られているが、29歳までシャキア(釈迦)王国の王子として育った城都カピラバスツやそのシャキア王国が何故歴史から消えたのかなど、余り知られていない。学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 それ以上に、生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については、未だにネパール説とインド説があり明らかになっていない。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」がそのような歴史的、社会的背景を明らかにし、いわば新常識を提示している。

 2、ブッダ誕生の聖地を読む
ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。
ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなど、謎が多い。日本などでは、経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、そのルーツなど歴史的な事実について正しく理解されていないことが多い。あるアジアの国の僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあるとは記されてはいないようだ。それを明らかにするのが、歴史や科学なのであろう。
著書「お釈迦様のルーツの謎」は、ブッダの生誕からカピラバスツ城の場所、シャキア王国滅亡などの真相に迫り、その所在地を中心としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景を描いたもので、それをベースとしてブッダの今日的意味を提示している。
「お釈迦様のルーツの謎」は、次のような諸点を明らかにし、「新常識」を数多く提示している。
・シャキヤ王国を建国したシャキヤ(釈迦)族は何処から来たか、そして種族は?
・ブッダの生誕地ルンビニはどのようにして何時発見されたのか?
・シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の所在地は、ネパールかインドか?
 2つのカピラ城が存在する謎。一方がカピラ城跡とすると、もう一方の遺跡は何か?
・過去に存在したブッダの意味するところは?
・シャキヤ王国は何故滅亡したのか? ブッダはその時何をしていたのか?
・インドを統一したアショカ王は何故あれほど熱心にブッダに帰依したのかなど。

 著書「お釈迦様のルーツの謎」は、出版元の東京図書出版(026-673-8051又は03-3823-9171)の他、インターネットを通じお求めになれます。
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