内外政策評論 TheOpinion on Global & Domestic Issues

このブログは、広い視野から内外諸問題を分析し、提言を試みます。
Policy Essayist

シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その4ー4 )  

2013-03-08 | Weblog

シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その4ー4 )  
 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1に掲載)
 2、ブッダの生誕地ルンビニ           (その2に掲載)

 3、2つのカピラバスツ城の謎

 (1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址 (その3-1に掲載)

 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ       (その3-2に掲載)

 

  4、ブッダ誕生の聖地から読めること
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在 (その4-1に掲載)

 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想 (その4-2に掲載)

 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く (その4-3 に掲載)

 (4)不殺生、非暴力の思想 

(4) 不殺生、非暴力の思想

 各種の文献によると、ブッダは、コーサラ国のヴイルダカ王がシャキアを攻撃するとの知らせを受け、深く憂い、進軍する路上の枯れ木の下に座り、ヴイルダカ王に憂慮の気持ちを伝えたところ、王は一旦兵を引き返した。しかし、ヴイルダカ王は再三に亘り進軍を繰り返したので、ブッダは一人身を挺して進軍を阻み、その間多くの人々に避難する時間を与えと見られるが、進軍を許す結果となった。

  ブッダは、徹底した非暴力、不殺生を重んじ、結果としてシャキア族の滅亡を防げなかったように見える。しかし、コーサラ国はブッダの保護者となっていたマガダ国に滅ぼされた上、ブッダの教えはその後マウリア王朝のアショカ王によって信仰、崇拝され、広められたのである。その意味では、非暴力、不殺生の教えや精神は人々の心に届き、非情な暴力に勝利したとも言えよう。後世において、インドが第一次世界大戦後英国からの独立運動(インド国民会議)を起こした際、マハトマ・ガンジーが非暴力の不服従運動を貫いたが、ブッダの非暴力の精神が大きな影響を与えていたのであろう。世界の強国英国に武器を持たずに立ちはだかったマハトマ・ガンジーの姿は、ブッダが一人枯れ木の下に座し、大国コーサラ国のヴイルダカ王の進軍を阻止しようとした姿と重なる。

 現実論からすると、こうした徹底した非暴力主義は今日においては疑問が呈せられるであろう。特に、国家、国民の安全を保障する上で責任を持っている政府は、第三国から攻撃を受ける場合や急迫する危険がある場合には、防衛行動を取り、国民の生命、財産の保護を図らざるを得ない。現在の世界は、もっと制度化、組織化されている上、武器も殺傷力や精度を高めている。また基本的な価値観や精神的、宗教的信条等においても国家間で差があるのも現実である。価値観や宗教的信条等を共有し、双方とも非暴力主義を取っていれば武力的な防衛行動の必要性は低下するが、現実にはなかなかそうは行かない。確かに第二次世界大戦後、武力的な解決の前に、外交努力や国連などの国際機関の仲介、介入による平和的解決努力が行われるようになって来ている。だが、世界レベルでの戦争は無いものの、軍備は質、量共に拡充され続けており、また内戦や地域紛争は世界各地で起っている。従って戦争や武力紛争の無い世界は理想でしかなく、非現実的と一蹴されるであろう。

 しかし本当にこの現実論だけで良いのであろうか。武力紛争の無い世界が「理想」であれば、理想に向かって努力することが人類の知恵ではないだろうか。人類の歴史を作ってきたのも、どの分野でも理想に基づくものである。未来は現実の上に切り開かれて行くものであるので、現実論は必要である。しかし現実論だけでは歴史は進展しない。現実の上に立って人類の理想とする社会の構築に向けた努力が積み重ねられて始めて、歴史が前に進む。

 現在、世界には地域紛争が絶えない。パレスチナ・イスラエル、中東紛争は長期に継続し、アルカイーダによる国際テロもこれが遠因となっていると共に、チュニジアやリビアで始まった「アラブの春」と呼ばれる民主化の動きはエジプトそしてシリアへと広がっている。米国のハンテイントン教授は、1996年に「文明の衝突」と題する論文を発表した。東西冷戦の後、各国国民が宗教や価値観その他で一致点(アイデンテイテイ)を求めてグループ化する動きが活発化することを予測したもので、拡散するモスレム勢力とキリスト教勢力の対立やアフリカでの民族間対立など、現象面では当たっている。だが「文明の衝突」には、このような対立、紛争がどのように和解出来るのか、その答えは示されていない。

 またアルカイーダによる国際テロと国家との戦いのように、伝統的な主権国家間の紛争、戦争ではなく、国境無き国際的テロ集団を武力で根絶することは困難な上、民間人(シビリアン)を巻き込むことや第3国の主権侵害などの問題が生じ易くなり、これまでの戦時法規等では律し切れない側面がある。軍事抑止を含む伝統的な安全保障論についても、核兵器やミサイル・衛星などの宇宙兵器を含む大胆な軍備縮小や衛星打ち上げの国際管理などに人類の英知を集めてもバチは当たらないであろう。

 ブッダの非暴力、不殺生の教えは、人種的、宗教的紛争の絶えない今日において、ユニークで示唆に富むものであり、改めて世界が着目し、必要としている教えではないだろうか。因みに、ブッダにしてもガンジーにしても決して不抵抗主義ではない。ブッダは、ヴィルダカ王の大軍の進行を何回も身を挺して阻み、多くの人々の命を救った。ガンジーは、英国の支配の前に非暴力、不服従で対抗し、インドを独立に導いた。

 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ (その4-5で掲載)
                                        (2012.11.08)(Copy Rights Reserved.)

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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その4ー4 )  

2013-03-08 | Weblog

シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その4ー4 )  
 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1に掲載)
 2、ブッダの生誕地ルンビニ           (その2に掲載)

 3、2つのカピラバスツ城の謎

 (1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址 (その3-1に掲載)

 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ       (その3-2に掲載)

 

  4、ブッダ誕生の聖地から読めること
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在 (その4-1に掲載)

 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想 (その4-2に掲載)

 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く (その4-3 に掲載)

 (4)不殺生、非暴力の思想 

(4) 不殺生、非暴力の思想

 各種の文献によると、ブッダは、コーサラ国のヴイルダカ王がシャキアを攻撃するとの知らせを受け、深く憂い、進軍する路上の枯れ木の下に座り、ヴイルダカ王に憂慮の気持ちを伝えたところ、王は一旦兵を引き返した。しかし、ヴイルダカ王は再三に亘り進軍を繰り返したので、ブッダは一人身を挺して進軍を阻み、その間多くの人々に避難する時間を与えと見られるが、進軍を許す結果となった。

  ブッダは、徹底した非暴力、不殺生を重んじ、結果としてシャキア族の滅亡を防げなかったように見える。しかし、コーサラ国はブッダの保護者となっていたマガダ国に滅ぼされた上、ブッダの教えはその後マウリア王朝のアショカ王によって信仰、崇拝され、広められたのである。その意味では、非暴力、不殺生の教えや精神は人々の心に届き、非情な暴力に勝利したとも言えよう。後世において、インドが第一次世界大戦後英国からの独立運動(インド国民会議)を起こした際、マハトマ・ガンジーが非暴力の不服従運動を貫いたが、ブッダの非暴力の精神が大きな影響を与えていたのであろう。世界の強国英国に武器を持たずに立ちはだかったマハトマ・ガンジーの姿は、ブッダが一人枯れ木の下に座し、大国コーサラ国のヴイルダカ王の進軍を阻止しようとした姿と重なる。

 現実論からすると、こうした徹底した非暴力主義は今日においては疑問が呈せられるであろう。特に、国家、国民の安全を保障する上で責任を持っている政府は、第三国から攻撃を受ける場合や急迫する危険がある場合には、防衛行動を取り、国民の生命、財産の保護を図らざるを得ない。現在の世界は、もっと制度化、組織化されている上、武器も殺傷力や精度を高めている。また基本的な価値観や精神的、宗教的信条等においても国家間で差があるのも現実である。価値観や宗教的信条等を共有し、双方とも非暴力主義を取っていれば武力的な防衛行動の必要性は低下するが、現実にはなかなかそうは行かない。確かに第二次世界大戦後、武力的な解決の前に、外交努力や国連などの国際機関の仲介、介入による平和的解決努力が行われるようになって来ている。だが、世界レベルでの戦争は無いものの、軍備は質、量共に拡充され続けており、また内戦や地域紛争は世界各地で起っている。従って戦争や武力紛争の無い世界は理想でしかなく、非現実的と一蹴されるであろう。

 しかし本当にこの現実論だけで良いのであろうか。武力紛争の無い世界が「理想」であれば、理想に向かって努力することが人類の知恵ではないだろうか。人類の歴史を作ってきたのも、どの分野でも理想に基づくものである。未来は現実の上に切り開かれて行くものであるので、現実論は必要である。しかし現実論だけでは歴史は進展しない。現実の上に立って人類の理想とする社会の構築に向けた努力が積み重ねられて始めて、歴史が前に進む。

 現在、世界には地域紛争が絶えない。パレスチナ・イスラエル、中東紛争は長期に継続し、アルカイーダによる国際テロもこれが遠因となっていると共に、チュニジアやリビアで始まった「アラブの春」と呼ばれる民主化の動きはエジプトそしてシリアへと広がっている。米国のハンテイントン教授は、1996年に「文明の衝突」と題する論文を発表した。東西冷戦の後、各国国民が宗教や価値観その他で一致点(アイデンテイテイ)を求めてグループ化する動きが活発化することを予測したもので、拡散するモスレム勢力とキリスト教勢力の対立やアフリカでの民族間対立など、現象面では当たっている。だが「文明の衝突」には、このような対立、紛争がどのように和解出来るのか、その答えは示されていない。

 またアルカイーダによる国際テロと国家との戦いのように、伝統的な主権国家間の紛争、戦争ではなく、国境無き国際的テロ集団を武力で根絶することは困難な上、民間人(シビリアン)を巻き込むことや第3国の主権侵害などの問題が生じ易くなり、これまでの戦時法規等では律し切れない側面がある。軍事抑止を含む伝統的な安全保障論についても、核兵器やミサイル・衛星などの宇宙兵器を含む大胆な軍備縮小や衛星打ち上げの国際管理などに人類の英知を集めてもバチは当たらないであろう。

 ブッダの非暴力、不殺生の教えは、人種的、宗教的紛争の絶えない今日において、ユニークで示唆に富むものであり、改めて世界が着目し、必要としている教えではないだろうか。因みに、ブッダにしてもガンジーにしても決して不抵抗主義ではない。ブッダは、ヴィルダカ王の大軍の進行を何回も身を挺して阻み、多くの人々の命を救った。ガンジーは、英国の支配の前に非暴力、不服従で対抗し、インドを独立に導いた。

 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ (その4-5で掲載)
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 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1に掲載)
 2、ブッダの生誕地ルンビニ           (その2に掲載)

 3、2つのカピラバスツ城の謎

 (1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址 (その3-1に掲載)

 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ       (その3-2に掲載)

 

  4、ブッダ誕生の聖地から読めること
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在 (その4-1に掲載)

 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想 (その4-2に掲載)

 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く (その4-3 に掲載)

 (4)不殺生、非暴力の思想 

(4) 不殺生、非暴力の思想

 各種の文献によると、ブッダは、コーサラ国のヴイルダカ王がシャキアを攻撃するとの知らせを受け、深く憂い、進軍する路上の枯れ木の下に座り、ヴイルダカ王に憂慮の気持ちを伝えたところ、王は一旦兵を引き返した。しかし、ヴイルダカ王は再三に亘り進軍を繰り返したので、ブッダは一人身を挺して進軍を阻み、その間多くの人々に避難する時間を与えと見られるが、進軍を許す結果となった。

  ブッダは、徹底した非暴力、不殺生を重んじ、結果としてシャキア族の滅亡を防げなかったように見える。しかし、コーサラ国はブッダの保護者となっていたマガダ国に滅ぼされた上、ブッダの教えはその後マウリア王朝のアショカ王によって信仰、崇拝され、広められたのである。その意味では、非暴力、不殺生の教えや精神は人々の心に届き、非情な暴力に勝利したとも言えよう。後世において、インドが第一次世界大戦後英国からの独立運動(インド国民会議)を起こした際、マハトマ・ガンジーが非暴力の不服従運動を貫いたが、ブッダの非暴力の精神が大きな影響を与えていたのであろう。世界の強国英国に武器を持たずに立ちはだかったマハトマ・ガンジーの姿は、ブッダが一人枯れ木の下に座し、大国コーサラ国のヴイルダカ王の進軍を阻止しようとした姿と重なる。

 現実論からすると、こうした徹底した非暴力主義は今日においては疑問が呈せられるであろう。特に、国家、国民の安全を保障する上で責任を持っている政府は、第三国から攻撃を受ける場合や急迫する危険がある場合には、防衛行動を取り、国民の生命、財産の保護を図らざるを得ない。現在の世界は、もっと制度化、組織化されている上、武器も殺傷力や精度を高めている。また基本的な価値観や精神的、宗教的信条等においても国家間で差があるのも現実である。価値観や宗教的信条等を共有し、双方とも非暴力主義を取っていれば武力的な防衛行動の必要性は低下するが、現実にはなかなかそうは行かない。確かに第二次世界大戦後、武力的な解決の前に、外交努力や国連などの国際機関の仲介、介入による平和的解決努力が行われるようになって来ている。だが、世界レベルでの戦争は無いものの、軍備は質、量共に拡充され続けており、また内戦や地域紛争は世界各地で起っている。従って戦争や武力紛争の無い世界は理想でしかなく、非現実的と一蹴されるであろう。

 しかし本当にこの現実論だけで良いのであろうか。武力紛争の無い世界が「理想」であれば、理想に向かって努力することが人類の知恵ではないだろうか。人類の歴史を作ってきたのも、どの分野でも理想に基づくものである。未来は現実の上に切り開かれて行くものであるので、現実論は必要である。しかし現実論だけでは歴史は進展しない。現実の上に立って人類の理想とする社会の構築に向けた努力が積み重ねられて始めて、歴史が前に進む。

 現在、世界には地域紛争が絶えない。パレスチナ・イスラエル、中東紛争は長期に継続し、アルカイーダによる国際テロもこれが遠因となっていると共に、チュニジアやリビアで始まった「アラブの春」と呼ばれる民主化の動きはエジプトそしてシリアへと広がっている。米国のハンテイントン教授は、1996年に「文明の衝突」と題する論文を発表した。東西冷戦の後、各国国民が宗教や価値観その他で一致点(アイデンテイテイ)を求めてグループ化する動きが活発化することを予測したもので、拡散するモスレム勢力とキリスト教勢力の対立やアフリカでの民族間対立など、現象面では当たっている。だが「文明の衝突」には、このような対立、紛争がどのように和解出来るのか、その答えは示されていない。

 またアルカイーダによる国際テロと国家との戦いのように、伝統的な主権国家間の紛争、戦争ではなく、国境無き国際的テロ集団を武力で根絶することは困難な上、民間人(シビリアン)を巻き込むことや第3国の主権侵害などの問題が生じ易くなり、これまでの戦時法規等では律し切れない側面がある。軍事抑止を含む伝統的な安全保障論についても、核兵器やミサイル・衛星などの宇宙兵器を含む大胆な軍備縮小や衛星打ち上げの国際管理などに人類の英知を集めてもバチは当たらないであろう。

 ブッダの非暴力、不殺生の教えは、人種的、宗教的紛争の絶えない今日において、ユニークで示唆に富むものであり、改めて世界が着目し、必要としている教えではないだろうか。因みに、ブッダにしてもガンジーにしても決して不抵抗主義ではない。ブッダは、ヴィルダカ王の大軍の進行を何回も身を挺して阻み、多くの人々の命を救った。ガンジーは、英国の支配の前に非暴力、不服従で対抗し、インドを独立に導いた。

 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ (その4-5で掲載)
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 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1に掲載)
 2、ブッダの生誕地ルンビニ           (その2に掲載)

 3、2つのカピラバスツ城の謎

 (1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址 (その3-1に掲載)

 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ       (その3-2に掲載)

 

  4、ブッダ誕生の聖地から読めること
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在 (その4-1に掲載)

 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想 (その4-2に掲載)

 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く (その4-3 に掲載)

 (4)不殺生、非暴力の思想 

(4)      不殺生、非暴力の思想

 各種の文献によると、ブッダは、コーサラ国のヴイルダカ王がシャキアを攻撃するとの知らせを受け、深く憂い、進軍する路上の枯れ木の下に座り、ヴイルダカ王に憂慮の気持ちを伝えたところ、王は一旦兵を引き返した。しかし、ヴイルダカ王は再三に亘り進軍を繰り返したので、ブッダは一人身を挺して進軍を阻み、その間多くの人々に避難する時間を与えと見られるが、進軍を許す結果となった。

  ブッダは、徹底した非暴力、不殺生を重んじ、結果としてシャキア族の滅亡を防げなかったように見える。しかし、コーサラ国はブッダの保護者となっていたマガダ国に滅ぼされた上、ブッダの教えはその後マウリア王朝のアショカ王によって信仰、崇拝され、広められたのである。その意味では、非暴力、不殺生の教えや精神は人々の心に届き、非情な暴力に勝利したとも言えよう。後世において、インドが第一次世界大戦後英国からの独立運動(インド国民会議)を起こした際、マハトマ・ガンジーが非暴力の不服従運動を貫いたが、ブッダの非暴力の精神が大きな影響を与えていたのであろう。世界の強国英国に武器を持たずに立ちはだかったマハトマ・ガンジーの姿は、ブッダが一人枯れ木の下に座し、大国コーサラ国のヴイルダカ王の進軍を阻止しようとした姿と重なる。

 現実論からすると、こうした徹底した非暴力主義は今日においては疑問が呈せられるであろう。特に、国家、国民の安全を保障する上で責任を持っている政府は、第三国から攻撃を受ける場合や急迫する危険がある場合には、防衛行動を取り、国民の生命、財産の保護を図らざるを得ない。現在の世界は、もっと制度化、組織化されている上、武器も殺傷力や精度を高めている。また基本的な価値観や精神的、宗教的信条等においても国家間で差があるのも現実である。価値観や宗教的信条等を共有し、双方とも非暴力主義を取っていれば武力的な防衛行動の必要性は低下するが、現実にはなかなかそうは行かない。確かに第二次世界大戦後、武力的な解決の前に、外交努力や国連などの国際機関の仲介、介入による平和的解決努力が行われるようになって来ている。だが、世界レベルでの戦争は無いものの、軍備は質、量共に拡充され続けており、また内戦や地域紛争は世界各地で起っている。従って戦争や武力紛争の無い世界は理想でしかなく、非現実的と一蹴されるであろう。

 しかし本当にこの現実論だけで良いのであろうか。武力紛争の無い世界が「理想」であれば、理想に向かって努力することが人類の知恵ではないだろうか。人類の歴史を作ってきたのも、どの分野でも理想に基づくものである。未来は現実の上に切り開かれて行くものであるので、現実論は必要である。しかし現実論だけでは歴史は進展しない。現実の上に立って人類の理想とする社会の構築に向けた努力が積み重ねられて始めて、歴史が前に進む。

 現在、世界には地域紛争が絶えない。パレスチナ・イスラエル、中東紛争は長期に継続し、アルカイーダによる国際テロもこれが遠因となっていると共に、チュニジアやリビアで始まった「アラブの春」と呼ばれる民主化の動きはエジプトそしてシリアへと広がっている。米国のハンテイントン教授は、1996年に「文明の衝突」と題する論文を発表した。東西冷戦の後、各国国民が宗教や価値観その他で一致点(アイデンテイテイ)を求めてグループ化する動きが活発化することを予測したもので、拡散するモスレム勢力とキリスト教勢力の対立やアフリカでの民族間対立など、現象面では当たっている。だが「文明の衝突」には、このような対立、紛争がどのように和解出来るのか、その答えは示されていない。

 またアルカイーダによる国際テロと国家との戦いのように、伝統的な主権国家間の紛争、戦争ではなく、国境無き国際的テロ集団を武力で根絶することは困難な上、民間人(シビリアン)を巻き込むことや第3国の主権侵害などの問題が生じ易くなり、これまでの戦時法規等では律し切れない側面がある。軍事抑止を含む伝統的な安全保障論についても、核兵器やミサイル・衛星などの宇宙兵器を含む大胆な軍備縮小や衛星打ち上げの国際管理などに人類の英知を集めてもバチは当たらないであろう。

 ブッダの非暴力、不殺生の教えは、人種的、宗教的紛争の絶えない今日において、ユニークで示唆に富むものであり、改めて世界が着目し、必要としている教えではないだろうか。因みに、ブッダにしてもガンジーにしても決して不抵抗主義ではない。ブッダは、ヴィルダカ王の大軍の進行を何回も身を挺して阻み、多くの人々の命を救った。ガンジーは、英国の支配の前に非暴力、不服従で対抗し、インドを独立に導いた。

 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ (その4-5で掲載)
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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その4ー3 )  

2013-03-08 | Weblog

シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その4ー3 )  
 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1に掲載)
 2、ブッダの生誕地ルンビニ           (その2に掲載)

 3、2つのカピラバスツ城の謎

 ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなどを含め謎が多い。経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、ブッダが青年期まで過ごした王宮の所在地など、そのルーツや歴史的な背景については正しく理解されていないことが多い。ブッダ教徒が多数を占めるスリランカのある僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったのではないかと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあったとは記されてはいないことだ。また西暦5世紀及び7世紀に中国僧の法顕と玄奘がこれらの地を訪問し、それぞれ仏国記(通称法顕伝)及び大唐西域記を残しているが、それぞれ1箇所のカピラバスツを訪問しており、カピラバスツは2箇所にあったとは一切記されていない。それでは城都カピラバスツは何処にあったのか。それを明らかにするのが、歴史や科学の役割なのであろう。

 (1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址 (その3-1に掲載)

 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ       (その3-2に掲載)

 

  4、ブッダ誕生の聖地から読めること
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在 (その4-1に掲載)

 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想 (その4-2に掲載)

 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く

 そしてシッダールタ王子は、インド中部のボードガヤでバラモンの修行者と共に断食による瞑想に入ったが、極端な抑制と苦行は、欲望自体を消滅させるものでもなく、「解脱」に導くものでもないことをまず悟り、その上で最終的な瞑想に入ったと伝えられている。生命の摂理に従って自然に生きることの中に真理を見出し、悟りを開いたのであろう。「中庸の道」、「中道の法」と言われる教えであり、80歳に至るまで教えを説いた。当時80歳と言えば長寿であり、その間死後の教えではなく、生きる教えを説いたものと考えられる。

 (4)不殺生、非暴力の思想 (その4-4で掲載)
 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ (その4-5で掲載)
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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その4ー2 )  

2013-03-08 | Weblog

シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その4ー2 )  
 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1に掲載)
 2、ブッダの生誕地ルンビニ           (その2に掲載)

 3、2つのカピラバスツ城の謎

 ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなどを含め謎が多い。経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、ブッダが青年期まで過ごした王宮の所在地など、そのルーツや歴史的な背景については正しく理解されていないことが多い。ブッダ教徒が多数を占めるスリランカのある僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったのではないかと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあったとは記されてはいないことだ。また西暦5世紀及び7世紀に中国僧の法顕と玄奘がこれらの地を訪問し、それぞれ仏国記(通称法顕伝)及び大唐西域記を残しているが、それぞれ1箇所のカピラバスツを訪問しており、カピラバスツは2箇所にあったとは一切記されていない。それでは城都カピラバスツは何処にあったのか。それを明らかにするのが、歴史や科学の役割なのであろう。

 (1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址 (その3-1に掲載)

 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ       (その3-2に掲載)

 

  4、ブッダ誕生の聖地から読めること
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在 (その4-1に掲載)

 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想

 ブッダは、シャキア族の王子シッダールタとしてクシャトリア(騎士階級)に属し、支配階級として恵まれた生活を送っていたと見られる。英語ではブッダ卿としてLordの敬称が付されており、騎士階級に属する王子であったからということが分る。

 そのシッダールタ王子が、長じるにつれて城外で「病、老、死」で苦しむ人々を見て、救いの手を差し伸べるべく悟りの道を求め、城を出たとされている。

 この点は、慈悲深かったと言う以上に、ブッダの基本思想を理解する上で非常に重要な意味合いを含んでいる。一つは、支配階級に属する王子という地位を捨てて城外の人々にも救いの手を差し伸べる道を選んだということであり、これは人類平等の思想に立脚している。人類の平等性は民主主義の原点であり、そのような思想が既にこの地に芽生えていたことは、その後の人類の思想、文化や歴史の進展を見る上で注目される。もう一つは、救いの手を差し伸べようとした人々の苦しみ、「病、老、死」の問題は、正に老齢化する現代の日本や多くの国が抱えている医療、介護、年金などの現代の課題でもあり、課題に普遍性があることである。

 ブッダの教え、思想の根底には、人類の平等性と課題の普遍性があるからこそ、2500年余の長きに亘り生き続けているのであろう。


 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く (その4-3で掲載)
 (4)不殺生、非暴力の思想 (その4-4で掲載)
 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ (その4-5で掲載)
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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その4ー1 )  

2013-03-08 | Weblog

シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その4ー1 )  
 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1に掲載)
 2、ブッダの生誕地ルンビニ           (その2に掲載)

 3、2つのカピラバスツ城の謎

 ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなどを含め謎が多い。経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、ブッダが青年期まで過ごした王宮の所在地など、そのルーツや歴史的な背景については正しく理解されていないことが多い。ブッダ教徒が多数を占めるスリランカのある僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったのではないかと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあったとは記されてはいないことだ。また西暦5世紀及び7世紀に中国僧の法顕と玄奘がこれらの地を訪問し、それぞれ仏国記(通称法顕伝)及び大唐西域記を残しているが、それぞれ1箇所のカピラバスツを訪問しており、カピラバスツは2箇所にあったとは一切記されていない。それでは城都カピラバスツは何処にあったのか。それを明らかにするのが、歴史や科学の役割なのであろう。

 (1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址 (その3-1に掲載)

 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ       (その3-2に掲載)

 

  4、ブッダ誕生の聖地から読めること
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在 (その4-1)

 ブッダは、シャキア族の王子であり、バラモン教の教育を受けたと伝えられている。他方、この地域には悟りを開いた者がブッダとして崇められる風習があり、複数の先代ブッダの存在が遺跡として残っている。従って、この地域に古代ブッダ文化とも言える一定水準の文化、社会があったことを意味する。そのような文化、社会があったからこそ今日のブッダ思想が生まれ得たのであろう。
 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想 (その4-2)
 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く (その4-3)
 (4)不殺生、非暴力の思想 (その4-4)
 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ (その4-5)
                                        (2012.11.08)(Copy Rights Reserved

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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その3ー2 )  

2013-03-08 | Weblog

シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その3ー2 )  
 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1に掲載)
 2、ブッダの生誕地ルンビニ           (その2に掲載)

 3、2つのカピラバスツ城の謎

 ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなどを含め謎が多い。経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、ブッダが青年期まで過ごした王宮の所在地など、そのルーツや歴史的な背景については正しく理解されていないことが多い。ブッダ教徒が多数を占めるスリランカのある僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったのではないかと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあったとは記されてはいないことだ。また西暦5世紀及び7世紀に中国僧の法顕と玄奘がこれらの地を訪問し、それぞれ仏国記(通称法顕伝)及び大唐西域記を残しているが、それぞれ1箇所のカピラバスツを訪問しており、カピラバスツは2箇所にあったとは一切記されていない。それでは城都カピラバスツは何処にあったのか。それを明らかにするのが、歴史や科学の役割なのであろう。

 (1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址 (その3-1に掲載)

 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ

 

 北インド・ウッタルプラデッシュ州のピプラワ(Piprahwa)村にカピラバスツとされる遺跡がある。その南東1キロほどのところに「パレス」と表示れている遺跡がある。ネパール国境に接するウッタル・プラデッシュ州にあり、直線距離ではルンビニの西南西約16キロのところに位置し、国境に近いところにある。

 ピプラワ村にあるカピラバスツには、骨壷が発見された大きなストウーパ遺跡があり、その周囲に煉瓦造りの建物の土台部分の遺跡が残っている。四方の建物はほぼ同様の構造となっており、その内部の構造から、ピプラワの遺跡はストウーパを中心とする僧院群のように見える。周囲に「城壁」がないが、僧院群であれば自然であろう。玄奘が、大唐西域記でカピラバスツ国の周囲は量を知らず、人家もまばらと記しているが、その景色と重なる。

 ピプラワの遺跡から南東に1キロほどの処にガンワリアの遺跡があり、「ガンワリア発掘サイト」と記された看板にシャキア族のパレス遺跡と説明されている。ここも周囲に城壁らしいものはない。正面の煉瓦造りの建物は重厚であるが、内部は中央の広間の周囲を小部屋(独居房)が取り囲んでいる構造で、ピプラワの僧院遺跡とほぼ同様の構造となっている。

 ピプラワの遺跡も「パレス」と呼称されているガンワリアの遺跡も「城址」や「城都」跡とは考えに難いが、シャキア族ゆかりの貴重な遺跡であることは間違いない。

 4、ブッダ誕生の聖地から読めること(その4で掲載)
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在
 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想
 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く
 (4)不殺生、非暴力の思想
 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ
                                        (2012.11.08)(Copy Rights Reserved.)

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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その3ー1 )  

2013-03-08 | Weblog

シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その3ー1 )  
 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1に掲載)
 2、ブッダの生誕地ルンビニ           (その2に掲載)

 3、2つのカピラバスツ城の謎

 ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなどを含め謎が多い。経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、ブッダが青年期まで過ごした王宮の所在地など、そのルーツや歴史的な背景については正しく理解されていないことが多い。ブッダ教徒が多数を占めるスリランカのある僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったのではないかと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあったとは記されてはいないことだ。また西暦5世紀及び7世紀に中国僧の法顕と玄奘がこれらの地を訪問し、それぞれ仏国記(通称法顕伝)及び大唐西域記を残しているが、それぞれ1箇所のカピラバスツを訪問しており、カピラバスツは2箇所にあったとは一切記されていない。それでは城都カピラバスツは何処にあったのか。それを明らかにするのが、歴史や科学の役割なのであろう。

(1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址

 ブッダの生誕地ルンビニから西に25キロほどのところにテイラウラコット村があり、そこにカピラバスツ城址とされる遺跡がある。煉瓦造りの西門やそこから南北に伸びる城壁や内部の土台などが見られ、また場外にある質素な博物館には出土品の陶器や貨幣と見られるト-クンなどが展示されている。

19世紀末から20世紀初頭に掛けて欧州の考古学者等が発掘をしたことが記録に残っているが、強い日差しや風雨などによる損傷や持ち去られることを恐れ、ほとんどが埋め戻されている。

 法顕は仏国記の「カピラバスツ城」の項で、「城の東50里に王園がある。王園の名は論民(ルンビニのこと)と言う。」と記述している。中国の里を換算すると、「城の東25キロのところに王園がある」ことになるので、ルンビニを基点とすると25キロ西にカピラバスツ城があることになり、位置関係が合致する。

 ところが厄介なことに、それから200年ほど後に同じような道程を辿りこの地域を訪れた玄奘は、大唐西域記の「カピラバスツ国」の項で異なる記述をしている。そもそも玄奘は、カピラバスツを「城」はなく、「国」として捉えており、境界さえ分らないと記しているので、どうも別の場所のようだ。玄奘の足跡を詳細に分析した西欧の学者がいるが、ルンビニではなく別の処に辿り着く結果となっている。しかし法顕、玄奘ともブッダが青年期まで過ごしたカピラバスツは複数あったとの記載は一切無く、1つなのである。

 カピラバスツ城址のあるテイラウラコット村の半径7キロの周辺には、城壁の外に父王スッドウダナの墳墓と言われている大小2つの仏塔(ツイン・ストウーパ)やブッダが悟りを開いた後帰郷し父王スッドウダナと再会した場所(クダン)、そしてシャキヤ族がコーサラ国のヴィルダカ王に殲滅されたサガルハワなど、素朴ではあるが歴史的には興味ある遺跡がある。更に、アショカ王はルンビニの他、現在のゴータマ・ブッダ以前に存在した先代ブッダの生誕地やゆかりの地を訪問し、ルンビニと同様の砂岩の石柱をこの地に建立している。その石柱の一つに、パーリ語で「即位14年に際しコナカマナ・ブッダ(先代)のストウーパを拡大したが、即位20年に際しこの石柱を建立させた」旨記されている。アショカ王は、先代ブッダ(過去仏)の存在を知っていたとみられるが、このような遺跡が残っているということは、先代ブッダは伝承上の存在ではなく、実在した人物(賢者・聖者)であり、現在のブッダが誕生した以前に一定の文化水準の社会がこの地域に存在したことになる。この古代ブッダ文化地帯とも言えるこの地域の更なる発掘と遺跡の保存が課題と言えよう。 

 この地域を歩かれた方もおられようが、遺跡の名称は分るものの、それぞれの遺跡がどのような意味合いを持っているかなどはなかなか分らない。しかし各遺跡の意味合いを知った上で回ると感慨も深くなると共に、城都カピラバスツの場所と繋がって行く。
 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ
 4、ブッダ誕生の聖地から読めること(その4で掲載)
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在
 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想
 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く
 (4)不殺生、非暴力の思想
 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ
                                        (2012.11.08)(Copy Rights Reserve

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