仁徳天皇稜(大阪府堺市 堺市は その昔 奈良県の一帯までもが堺県であった)
仁徳天皇について 堺市HPより拝借 トーナイ
『古事記』、『日本書紀』で第16代天皇と伝えられ(江戸時代後期から明治時代には祖母にあたる神功皇后が第15代天皇に即位したとして第17代天皇となっている場合があります。)
諱(いみな〈本名〉)は大雀・大鶴鷯(おおさざき)で、仁徳は8世紀頃につけられた諡(おくりな〈死後に送る称号〉)です。
『日本書紀』では亡くなった年齢は書いていませんが、在位87年で没したと記されています。また『古事記』では83歳で亡くなったと記されています。
一説によると、神功57年(257年)に誕生したといわれ、仁徳元年(313年)1月3日に即位し、仁徳87年(399年)に崩御したので、単純計算で 143歳の長寿で亡くなったことになります。
父は応神天皇(おうじんてんのう)、母は仲姫命(なかつひめのみこと)で、異母弟の皇太子・莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子を助け、異母兄の大山守(おおやまもり)皇子を退け、皇太子と皇位を譲りあいますが、皇太子の自殺に伴い即位します。
都を難波高津宮(なにわのたかつのみや)に定めて、
葛城磐之媛(かずらきのいわのひめ)を皇后とし、
のちの履中・反正・允恭天皇をもうけます。
民家から炊事の煙がたちのぼらないのを見て、人々が困っているのを察し課役を三年間免除したり、
難波の堀江・感玖(こむく)大溝・茨田(まんだ)堤・横見堤などの築造や茨田屯倉(まんだのみやけ)の設置などを行ったと記されています。
このような善政を行ったので、古来より聖帝(ひじりのみかど)とたたえられ、理想的な天皇とされてきています。
同時代の中国の資料『宋書』には「倭の五王」が記され、その最初に記された王「讃(さん)」の発音が、「おおさざき」に通じることから、仁徳天皇が「讃」ではないかという考えがあります。仁徳天皇がこの「讃」王なら、永初2年(421年)に宋の南朝に朝貢して安東将軍・倭国王にはじめて任命され、邪馬台国の時代(3世紀の後半)から約150年間途絶えていた日中間の国交を回復し、それを柱として東アジア外交を展開した国際感覚豊かな大王ということになります。
また、その他に「倭の五王」の「珍(ちん)」とする考えもあります。以上堺市より・・
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仁徳天皇=安東将軍 倭国王 西暦421年確定したいところ・・
前方後円墳の時代の古墳の移動 出雲から吉備の国→畿内
再度 堺市HPより
前方部の石室と石棺の間で発見されたもの
明治5年(1872年)に発見された石室と石棺の間には甲冑、ガラスの杯、太刀金具、鉄刀20口(本)あまりがあったと記されています。
前方部の石室と石棺の間で発見された甲冑
明治5年(1872年)に発見された石室と石棺の間にあった副葬品のうち、甲冑については詳細な絵図が残されています。それによると、細長く延ばした銅板を組み合わせて鋲で留めた横矧板鋲留短甲(よこはぎいたびょうどめたんこう)と、長方形の銅製小札を組み合わせて鋲で留め、透彫のある庇や歩揺(ほよう)を付ける小札鋲留眉庇付冑(こざねびょうどめまびさしつきかぶと)がセットで描かれています。大きさは横矧板鋲留短甲が背の高さ1尺5寸(45.5センチメートル)、前部が1尺1寸2分(34センチメートル)、幅が1尺6寸(49.5センチメートル)あまりで総体銅鍍金と記されています。小札鋲留眉庇付冑は前後が6寸7分(20.3センチメートル)で、同じく総体銅鍍金と記されています。銅に金メッキしたきらびやかな甲冑は、大王の持ち物にふさわしいものです。
Q5.仁徳天皇陵古墳から出てきた甲(よろい)や冑(かぶと)は誰が作ったの?
現在、実物を見ることができないのでどこで誰が作ったのかよくわかりません。ただ、作り方が当時の最先端技術で作られていることが絵からわかるので、朝鮮半島や中国で作られたか、またこれらの地域の技術者が渡って来て作ったと思われます。
Q6.仁徳天皇陵古墳から出てきた物から国際交流がわかるって本当ですか?
金銅製の甲冑は銅に金メッキしたものなので、すでにこの時代に金メッキの技術があったことがわかります。これはアマルガム法という当時の最先端技術が使われています。また金銅板を接合するのに鋲留めという釘の両端を叩いて留める技法で作られています。これも当時の最先端技術で、両方とも5世紀に大陸から伝わった技術です。また、当時の日本にはガラスの器を作る技術はなかったので、ガラスの皿と器は遠くペルシャ(今のイラクやイランのあたりにあった国)からシルクロードを経てもたらされたものと考えられ、今から1500年以上前に、シルクロードをとおして西アジアとも交流があったことがわかります。
Q7.甲(よろい)や冑(かぶと)の他に巨大な石棺や鉄の武器や道具から何がわかるの?
大きな石棺は凝灰岩という石で出来ていて、兵庫県から運ばれてきたことがわかっています。また、その重さは合計で30トンから50トンはあると計算され、これだけの重さの石を運ぶ運搬技術があったことがわかります。また、鉄製の武器や道具は、その原料となる鉄のほとんどが朝鮮半島からの輸入品で、それを集中的に調達し管理できる力を持つ支配者がいたことがわかります。
仁徳の時代 西暦400年頃 朝鮮半島や中国大陸から 多くの渡来人が渡ってきたQ5 Q6 Q7のような最先端の技術もやってきたことは間違いないし
シルクロードを通ってイラン・イラクあたりの ガラスも伝わった
このガラスは 朝鮮半島の一部でも発見されています
中東 西アジアとの交流もあったのだろう
その西暦400年ごろの時代の 大阪平野 大阪湾の地理
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