そんななか、最初から変わらず思っていたのは、信仰や霊性というものは、特別なことではなく、私たちが生きるということそのものなんだろうなぁという直感でした。
わたしの信仰の師匠といってもいい叔父が、「人は三食ごはんをたべるよね。信仰とはそれと同じことなんだよね。」
あるとき、そう言いました。
それが、とても私の心に残ったのでしょうか…
信仰とは心の問題。
私たちが、人生という旅路を歩み、この身体という乗り物に乗って旅するとき、その司令塔が心だと考えると、これほど大切で気にかけなければならないものは他にありません。
でも、心とは身体を維持していくための、非常に高性能の(脳という)コンピューターであり、それが人生という舞台で喜怒哀楽を演じている、楽しんでいるのかも。
そう考えると、ちよっと違ってきますよね。
どんな高性能のコンピューターであっても、壊れることもありますし、それとは別に、なるべくなら性能もよいにこしたことはないでしょう。
心というものは、脳にあって、脳を調べることによって、最後には、科学によって解明されるはずと信じれば、霊的伝統はなくなるし、スピリチュアルも単なる気の迷いとなるでしょう。