宗教はその意味では、ノウハウというか、心というものに関しての知恵にみちているといえるでしょう。
惜(お)しむらくは、その知恵が、あまりに完璧のようにみえている人がいて、その人たちにとっては、心の本当の価値が、ずいぶん貶(おとし)められているということです。
人間の心、たましいというものは、その人が本当の危機になったとき、本当の力を発揮するはずなのに…
宗教がそこに介在(かいざい)すると、その本当の力を発揮させないように働くことがあります。
宗教がすべての秘密を知っているのだからと、個人には力がないように仕向ける傾向があります。
天は、この世に、生きとし生けるものすべてに、この世の秘密を授(さづ)けているはずなのに、不思議ですね。
ある予言書では、地球に凄(すさ)まじい変革が起きたとき、信仰はそのときの生命線だと述べています。
もちろん、水、食料、最低限度のインフラとか、必要なものはたくさんあると思います。
でも、本当に最後になって、人類の命をつなぐものは、信仰なのだと言っています。
見せかけの、人に見せる信仰ではありません。
そのとき役にたつのは、心の深いところに根ざしたものだけです。
天にいたる最後の階段は、悟(さと)るということだと思います。
悟るということは、日常のささいなことのなかにもありますし、感謝することによって、おおくの悟りを得ることができるでしょう。
小さな悟りがあれば、大きな悟りもありそうです。
最後に、親鸞(しんらん)さんのすごい悟りについて、語ってみたいと思います。