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時の関守

心を浄化する

私はすこし短気なようです。
自分ではあまり自覚してなかったのですが、最近気がつきました。
ちょっと、そのことについて指摘され、とても腹を立ててしまいました。

車に乗っているとき、週に一、二度くらい、クラクションを鳴らしている自分がいます。(もちろん心の中でですが…😅)
そのつど、自分で自分の反応に驚いていました。

そんな自分の反応に、うすうす気づいていても、自分はおだやかで、気の長い、おおらかな人間のはずだと思っていたのですね。
思っていたというか、そう思いたかったのかもしれません

そんなことで、少しもやもやしている自分がいたのですが…
そんなとき、携帯に着信がありました。
たまに、電話やメールをいただくことのあるAさんです。
「すこし、相談があるのですが、お時間だいじょうぶですか?」とのこと。
(時間があるもなにも、いつでも大丈夫です。携帯にでれるのであれば…)

Aさんは、今、一つの局面(きょくめん)がそれなりに収まって、新しい場面を迎えているのでしょう。
その新しい場面に、新しい問題が起きて、ちょっと、とまどっているようです。
でも、私の経験からすると、新しい場面に遭遇したときの、ちょっとしたトラブル、問題であって、自然に解決することのように感じました。
ですから、よく聞いてあげて、不安に思う必要がないことを、伝えればよいかなぁと感じました。

とりあえず、神のお心というか、天のお心の真意さえ間違わなければ、だいじょうぶと伝えました。
私は携帯で話しをおえると、意外にも私の心が晴れやかになっていたことに気づきました。

なぜなのかなぁと思ったとき、それは、次のようなことなのだと思うのです。
まず、自分のことは、なかなか自分では解決しないこと。なぜなら、自分と自我は一心同体なので、自我を切り離すことが現実に難しいこと。
それに比べ、他人(ひと)の相談では、その人の自我(エゴ)と距離を置いて観察できるので、冷静に判断できること。

天のお心はどこにあるのか、そのお心を思案し、さぐるとき、私自身も天のお心にふれていること。天の心にふれることによって、私も、もしくは私の心が一番、いやされ、浄化されていること。

表裏一体(ひょうりいったい)という言葉がありますが、教えることは教えられること。
人のことをやっているようで、実は自分のことなのだ。
自分が遭遇するあらゆることは、たとえ他人のことであっても、偶然はないのだから、深いところの自分そのもの。

どんなささいな悩みであっても、もし、これが自分の身におこったことであれば、適当になんかできないはずですものね。

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