ある研修で、世話係のようなことをさせていただいたことがありました。
そのとき、当時の私からすれば、まだうら若い女性がおりました。
人生経験もとぼしく、なんの力もない私でしたが、さまざまな悩みや困難な事情を聞かせていただきながら、一緒になって悩み、もがいた貴重な時間でした。
でも、その女性にとって、ほんとうはもう、(精神的にも、肉体的にも)困難な時期を乗り越え、人生という旅路に起きた突然の暴風の意味を再確認し、後はそれを味わうだけという、そんな段階だったようです。
もちろん、それは今になって思うのですが、その時はまだまだ不安でいっぱい、そんな時期でした。
彼女は、しっかりと若いときから責任ある仕事をし、それなりのポジションも与えられ、なんら不足のない順調にみえる境遇のなかにいました。
しかし、それはあくまで他人が思うことであって、本人にとってはまた違った思いがあったのかもしれませんね。
人知れぬ悩みというものはあるものです。
あるとき、なぜかとても病気になりたいと思ったそうです。
(本人いわく)「そう思っていたら、本当にそうなってしまいました。」
急性白血病で入院し、そこで何ヵ月か過ごすことになります。
命の危機に遭遇し、家族も本人も不安と恐怖でいっぱいだったと思います。
家族は知り合いの教会にたすけを求めます。
本人はどうすることもできないので、その教会で貸してくれた本を入院中、何冊も読みます。
それらの本を読んでいたら、泣けて泣けてしかたがなかったんだそうです。
大粒の涙を、何度も何度も流しました。
この涙が彼女の命を救ったのだと思います。
心は人が生活するための司令塔のような役目をはたしています。
でも、その心の歯車も、使っていくうちに澱(おり)のようなものがたまって、いつか錆(さ)びつき、その動きをとめてしまいます。
ちょっとした怒り、激しい怒り、憎しみ、欲。
知らぬまに、自分のわがままを通していたなんてこともありますよね。
欲があってこそ、人間らしいのだという人がいますが、ひとりの欲のために多くの人が苦しんでいる姿を、天がゆるすと思いますか?
そんな心の澱に、彼女のたましいがいつしか埋(う)もれてしまい、命も消えかかっていたのだと思います。
たましいほど、命にかかわっていて、命に必要不可欠なものはないと思います。
たましいとは命そのものです。
たましいがなくなるということはありませんが、その姿が消えるということはあると思います。
心の澱がたましいの姿を隠してしまうのです。
命の危機に遭遇したとき、彼女の場合、たくさんの涙が心の澱を洗い流してくれて、たましいの光が戻ったのだと私は思っております。