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時の関守

輪廻転生 (2)

私は中学生のころ、
子供ながらも、死という問題に直面しました。
(このことは、ブログ「人生は廻る輪のようにを読む-1」に書きました。)
そのときの私は、
輪廻転生という考え方を事実として認めたわけではなく、
自分の精神というものが、
輪廻することを、
認めなければ、耐えれなかったのです。
それを認めたとき、自分の精神がほっとしたことを覚えています。

親が信仰していて、教えとしてもあったということが大きかったと思います。
その(輪廻転生)ことが、自分のなかで検証されたわけではありませんが、
自分の精神が、ある意味救われたのですから、
輪廻転生があろうが、なかろうが、私がそれによって救われたのはまぎれもない事実です。

私はブログ「一瞬を生きる」で書いたように、
最初の子供を亡くしましたが、
二年後に、幸運にも妻が妊娠しました。
とてもうれしかったのですが、私のなかには、少し複雑な気持ちがありました。

なんとはなく、私のなかで、
次の子は女の子だと思っていたのです。

最初の(亡くなった)子は、実は男の子でした。
この子にたいして、
私はとても、申し訳ないという気持ちをいだいていました。
なぜなら、
その子がせっかく、私たちの子供として生まれようとしてくれたのに、
この世に生をうけることができなかったのは、
私の生き方が定まらず、
あやふやな生き方をしていたせいだと、思っていたからです。

この子が(この世で)生をうけれなかったのは、
妻のせいでもありませんし、
まして、
病院のせいでもないし、自分にその原因があると、
わかっていたのです。

そのことは、誰に言われたわけでもありません。
また、誰にも言ってもいませんが、
内心、それがそのとおりであることが、わかっていました。
このことを、
人は、もしかして、
「そんなことはないよ。」と言ってくれるかもしれませんが、
私のなかでは、
まちがいのない事実なのです。

もう一つ、私の勝手な思い込みですが、
わけもなく、
妻のお腹のなかの子供が、
今度は女の子であると確信していました。
そう思い込んでいました。
たましいに性別はないでしょうが、男女が違えば、
(亡くなった子は男の子だったので)
別のたましいなんだろうなぁと、
漠然(ばくぜん)と思っていました。

生まれてくれるのは、うれしいことなのですが、
今回は、
あの亡くなった子(のたましい)ではないだろうなぁ、
あの(亡くなった子)とはもう、会えないのかなぁ、
というのが、
わたしの微妙な心情の理由です。

もちろん、
そんなことより、
なんとか無事生まれてくれ、
という気持ちでいっぱいであったのも事実です。

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