私は、有名人のニュースなどはとくに関心はないのですが、自然に耳に入ってくる出来事に思うことはあります。
去り際(ぎわ)というか、どんなに活躍した人であっても、その出処進退(しゅっしょしんたい)がきたないと、ため息がでます。
とても活躍していたり、立派な業績を残していたりしているときなど、よけいに残念に思います。
社会問題にもなっている、ストーカーなども、往生際(おうじょうぎわ)がわるいというか、一度は好きになったのだから、(別れるのはしかたがないとしても)最後ぐらいは、好きなままでいてもらえるよう、そんな終わりかたにすればいいのに…
そんなふうに思ってしまいます。
人はみんな煩悩があるから、さまざまなものに執着するよね。
しかたないよね。
そういってしまえば、そうなのですが、最後の収支決算こそ、きちんとしたいものです。
なぜなら、跡(あと)を濁(にご)して、収支を不足で終わらせると、次も同じまちがいを繰り返すことが、経験上わかるからです。
逆もあります。
最後を感謝で終わることができると、いい出会いが待っています。
人は出会ったとき、その人に魅力を感じ、幸福にしてもらっているので、たとえ、別れることとなっても、その出会いに感謝したいものです。
人は誰もが未熟で、間違い、失敗は(人生には)織り込み済みなのでしょう?
たましいが出会うということは、そういうこと。
たとえ、結果的に望まない結末であったとしても。
永遠の時間のなかであっても、私たちにとって、そのとき、その瞬間に、どうしても必要な人としか出会うことができない。
どんな結果であっても、それは必要であったのだから。
そう思っています。