息子のことでは、いろいろご心配いただきました。ありがとうございました。
発熱と発作はセットものなので、ここ数日は夜も気を付けていました。
おかげさまで昨日から、少し食事も摂れるようになってきました。一段落です。
そんなことで昨日の迎え火は、父が天気見ながら焚くよ、と言っていたのでおまかせ。
実家の玄関先も、ちょっと屋根があるので大丈夫だったと思いますが、不安定なお天気です。
今年は、お盆前に持って行っておこうと思ったのに、結局これからですが、
写真のお線香、またまた見つけたので~。
このお線香は、焚いても灰が崩れず、燃え尽きると字が浮かび上がるというもの。
こちらです。トップ写真では、右の細い黒いものがお線香。
経文香(南無阿弥陀佛) 文字が出るお線香 | |
クリエーター情報なし | |
香りの専門店伯林堂 |
私はお線香やおろうそくは、アマゾンではなく、いつもこちらで買います。
燃えた後の様子も載っています。宗派別、また「先祖供養」の文字もありますよ。
お経あげるかわりにって、相当な手抜きですが…。
毎度おかしなものを見つけるので、父はあきれてますが(おはぎ型ろうそくとか)、
ばーちゃんはこういうの好きだよきっと…というでしょう。
早いもので4回目のお盆です。
昨夕、炊飯器のスイッチを入れようとしたら「炊き上がってた」…あれっいつのまに。
どうやら、入れるつもりがなかったスイッチを、何かのはずみで押してしまったようで。
しっかり「蒸らし」もすんだご飯はホワ~ンと湯気を立てました。
しゃもじを持ちながら、ふと思い出した母の「ミミタコの話」。
「ねぇさん(母の6つ違いの姉)は、農家の娘のくせして麦飯が食べられへんでなぁ」。
母が生まれたのは大正12年、まだ麦飯も当たり前の時代です。
ただ、6つ上の伯母がうまれたころ母の実家は裕福で、長屋や田畑を人に貸してもいたそうな。
それでずっと白飯だったようですが、母の生まれたころに家が傾き、一気にビンボーになってからは、
当然「麦飯」・・・ところがずっと白米で育った伯母はそれが食べられず、
いつも伯母の分だけは、別にご飯を炊いていたらしいです。
伯母は母が中学生くらいで嫁に行ったのですが、どうしても麦飯がいやで、よく実家へお米をとりにきたそうな。
当時は戦争に向かう頃、伯母のダンナさんは水兵さんだったのでいつも家にいない、
男手もないし世情も落ち着かずで、伯母は自宅の田んぼでは十分なお米がとれなかったようです。
母親である祖母は、親の代でボツラクした負い目もあったのか、それとも単に親の愛情か…。
毎度白米を渡してしまうので、戦後になって伯母のところでもようやく十分なお米がとれるようになるまで、
母はずーっと麦の中にたまーにコメ…というご飯だったそうです。
「ねぇさんが里帰りしてくる日は、白飯わざわざ炊くねん。その日だけはウチらも白飯やった。
炊き上がるころねぇさんがきてなぁ、お釜のフタあけて、しゃもじでかき回す前に、
表面の一番ツヤッツヤのところを薄く掬い取るようにしてお茶碗に盛ってな
『これが一番うまいねん』って食べはんねん。ホンマゼータクな人やったわ」。
いっぺんやってみようと思いつつ、いつも底からそぉーっと掻きまわしてしまう私です。
伯母も亡くなってもう20数年すぎてますが、跡を取ったヒトが、まぁ親とは一番いろいろあった人で、
法事は一切しないのです。嫁に出たイトコが「せなあかん」と言っても無視だそうで、彼女はいつも一人で墓参り。
伯父が長男ではなかったので、墓地だけは整えたものの墓石はきらずじまいで何十年でした。
すでに伯母の前に伯父もなくなっているのにいつまでたっても…だったのですが、
先年、墓地のそばにバイパス道路工事の話がでて、ちょうど区画が引っかかったために、
ずいぶんな「移動料」が出たそうな。それで「今度こそちゃんとせな」と周囲に言われて、
ようやくお墓らしいお墓になった…けれど墓参はしない…。
「いずれ自分も入らはるのになぁ。あれじゃ入らはってからも親子ゲンカしはるわ。にぎやかなこっちゃろ」と
いとこはあきれ果ててます。
こちらの実家のお墓に入っているのは、まだ母一人だけ。でも、お隣も昔お隣さんだった仲のいいおばさんだし、
周囲も、昔ご近所さんだった人がいろいろ…。きっとさみしくはないでしょう。
ちなみに私は「麦がパラパラ入ってる程度」の麦飯は食べたことはありますが、
お米がパラパラの麦飯は食べたことがありません。
「ぼそぼそしてなぁ、うまいもんやあらへんけど、それしかなかってん。今はえぇなぁ」
毎日白いご飯を食べていた母は、よくそういってましたっけ。
祇園祭ももうすぐクライマックス。台風や息子のことで、お盆も祇園祭も忘れてましたが、
ようやく一息ついて…この夏も無事に越せますようにと、ご飯かき回しながら思いました。
因みに、父は次男坊(笑)
食べ物の恨みは恐ろしいって言いますが、ちょうど食べ盛りの頃の心の傷となって、伯父の存命中はずっと恨みがましく言い続けてましたよ。
ということで、我が家の家訓は「ある時の米の飯」美味しいものは美味しいときに食べたいだけ食べましょうって!
お蔭で子供時代はちょっと小太りの私でした。
麦が少し入ったご飯はオトナになって初めて食べました。新鮮だったので、麦と白米の割合が逆だったら、と思って試しに作ってみたら、ごめんなさい(><)でした。食べ物が豊かなのはありがたいことなんですよね。
ためらった母と、
家族は絶対に離れないように、との、
戦場に行く前の父の言葉とで、
家族疎開をしたせいか、食べるものの
思い出でいやなことはないのは
今もって不思議です。
自然のなかの果実を不思議とも思わずに
食べていましたし、サツマイモの入った
ご飯もなんだかおいしかったように
思えたのは、どうしてでしょう。
今は麦をわざわざ求めては
ご飯にまぜて時折り炊いています。
あのころは仕方がないことと、
祖母が話してくれていたのでしょうか。
ご飯にまつわるお話、
なんだかあのころが目に浮かんできました。
物心ついた時から、お米のご飯だった私は、
いろいろきかされても「はぁぁそぅぅ」でしたが、
所帯を持って、自分で切り盛りするようになると、
「物が豊かであること」のありがたさを思うようになりました。
母も、あることのありがたさをよくいいましたわ。
それと「ご飯粒」を粗末にしないことって。
コンビニのお弁当が、時間が切れると捨てられる…
というのが、どうにも許せない私です。
陸稲、おかぼ、ですね。
母も、どこといってだけどやっぱり違う、と言ってしました。
水と人手のない農家が作るもんや…と。
父も、食べ物が不自由な時代に子供でしたから、
今でも「もったいない」もいいますし、
たまに「すいとん」が食べたい…なんて作ってます。
そして作るたびに「昔のすいとんは、こんなにいろいろ
具なんかなくて…」と、これまた同じことを言う…。
食べ物の記憶って、ずっと残るんですねぇ。
日本人にとって「お米」は、本当に大切なものなんですね。
母の実家は農家でしたから、戦後も米だけは困らなかったようですが、
今はその田んぼもみんな売ってしまいました。
母は、戦後焼野原の横浜にきて、買いたくても何もない、
おいもの粉を水で溶いて団子にして食べた…なんて、
そんな話をしていました。
食べる苦労を知らない私は、ほんとに幸せだと思います。
どんな時代であっても、もったいないという気持ちは、
大事にしなきゃと思います。
そんなことを言いつつ、冷蔵庫で使い忘れの食材を見ては
シマッタ…なんてやっているんですが。
紅茶と珈琲の香りのお線香のお試しサイズが届いたので
明日 焚いてみようと思っています。
実家の両親は珈琲が好きだったので
ありますね、最近はいろんな香りのが…。
このお線香、試しましたが、ほんとに見事に字が出て
しっかり立って崩れませんでした。
厚みがあるので、結構時間も長かったです。