最近の放送は、8年経ったけど…が多いですね。
壊れたままの家に住んでいる人、災害公営住宅での孤独死、日常的な外出に困るところへの転居…。
何十年も暮らしてきた場所、家族同様の隣人から離れることは、特に高齢者にとっては
拷問のような暮らしなのでしょう。
想像もつかない過酷な災害に遭い、家族を失い、仕事も家も失い…そういう人たちには、
長い期間の、いろんな支えが必要なのですよね。
被災者の住む大きな団地で、自治会に入らない、訪れても出てこない、どこからきたダレなのかを
調べたいと思っても、行政は「個人情報だから」と、教えてくれず「そちらで努力してください」…。
それってどっかおかしくない?それで孤独死を迎えてしまった人もいたりするわけです。
私はわりと家や土地には執着しないほうだと自分では思っています。
それでもそれは「いつか帰る」「帰ったら自分の根っこみたいなものがある場所がある」という
安心安定の材料があるからだと思います。
私は結婚して市川市に4年、船橋市に14年いました。市川では、せまいアパートでお金のない新婚時代をすごし、
船橋では、今までよりずっと広い公営住宅に入り、そのあとはマンションに暮らしました。
不便だとかなんだとか、そんなことはありましたが、いやな思い出はないし、友達もいたし、
こんなところにすみたくないと思ったこともありませんでした。それでも、なぜかいつまで経ったても、
「よその土地にいる」という感覚は抜けませんでした。
生まれ育って28年いた横浜だって何度も転居したし、実家なんて私が結婚してから両親が買った家です。
一度もそこで暮らしたことがありません。それでも「横浜」が、私の根っこがあるところ…。
横浜に戻った今、あれはそんなキモチだったのだと、今はわかります。
震災と原発、それによって全部一からやり直さなければならない、家を壊す、建て直す、
別のところに移る、一家が分散する…人生の中で、こんな大きな転機があるのは、
もう運命としかいいようがありません。
年が若ければ、性格的に吹っ切ることができるのなら、そういうひとは、なんとかなるのでしょうか。
正直、いまでも「オリンピックは東京でなければならなかったのかな」と思っています。
お金の使い道、どうなんでしょう。
忘れてはならない、というのは、震災そのもののことだけではなく、テレビのたくましい復興の話の陰に、
今も先細りの生活をしている人がたくさんいることも含めてだと思います。
なんにもできない、力のない私は、せめて「見ていこう」と思っています。
ほんとに…なんとかならないんでしょうかねぇ。
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