![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/a3/092597b1353c70af10110579301a9b4b.jpg)
写真は先日の「朝顔マンション」に入居したバッタさん、
ちっと大きくなりました。三階あたりがお気に入りのようです。
でも…はっぱ穴だらけやん…。
今日は「ヒロシマ」の日です。
あの日、人だけでなく、バッタもカブトムシもセミも、朝顔もひまわりも…
たくさん一緒に焼けてしまったんですね。
私は高校の修学旅行で、長崎の原爆資料館に行きました。
それまで「観光旅行気分」でキャイキャイと浮かれていたのですが、
展示物を見ていくにしたがって、心の奥におもりのようなものが、
ズシンズシンと積み重ねられていくのを感じました。
熱で溶けたガラス瓶や、ぼろぼろの国民服、黒いシミは血のしぶきでした。
それを見て、あぁ日本って本当に戦争があったんだ、と、強烈に実感しました。
思えばあのときから、終戦記念日や原爆を意識するようになったと思います。
若いうちは、ついつい自分の半径1メートル、みたいな感じでしか物が考えられず、
反戦についても平和についても、さして積極的に行動するわけではありませんでしたが、
夏が来ると、あの式典を見ると、そのたびにあの資料館の展示物が、
頭の中をよぎりました。結婚し、子供が生まれ、親が老い…、
そういう時間の流れを振り返ると、平和な中でいきてこられてよかった…と、
このごろはそんなことを思います。
何も目立ったことはできないけれど、せめて次代をつぐ若い人たちのために、
聞いて伝えることだけはしていこう、とそう思うのです。
着物を触っていて、こんなの本当に着たのだろうかというような、
つぎはぎのもの、表はそこそこなのに、裏がひどいもの、
そういうものはたいがいがあの時代をこえてきたものです。
命を脅かされる暮らしの中で、或いはやっと平和になったものの、
ろくに食べるものも身につけるものもない暮らしの中で、
せめて子供には、せめて娘には、と親が思いのありったけをこめたものです。
人とともに生き抜いてきたものたちと出会うとき、
私は一生平和の中で暮らしたい、と思うのです。
私の実父は、私が12歳のときに亡くなりましたので、
子供の目線でのお付き合いしかないのです。ただただ優しい父でした。
その父は、存命ならば今年98歳です。
時代が時代ですから「軍国少年」で育ち、父は「海軍」の七つボタンに
憧れていたそうです。七つボタンなんていってもわかりませんね。
海軍飛行予科練習生、通称「予科練」と呼ばれた訓練生の制服です。
残念ながら、父は胸を患い、望みはかないませんでした。
かわりに「少しでも海軍に関わりたい」と、父は海軍の「監督官」になりました。
私は大人になって「軍に入れなかったのに、なぜ監督官?」と
不思議に思っていたのですが、当時海軍は、民間でも技術のあるものは
技術者として登用したのだそうです。
母がぽろっと「おとうさんは戦犯もおんなじや」と言ったことがあります。
「センパン」がわからなかった私は少し大きくなって母に聞きました。
母は「おとうさんはあの『回天』を作ることに携わっていたから」といいました。
「回天」とは「人間魚雷」とよばれるもの、空は「ゼロ戦の特攻隊」、
海は「人間魚雷・回天」です。つまり、そのまま体当たりして帰ってこない…。
私は小さかったこともあって、父に戦争の話をきいたことがありませんでした。
父はとても穏やかな人で、エンジニアでありながら、
美しい絵や書を好む人でした。私は物心付いたときから、
父が切り抜いて取っておいてくれた「ミロのビーナス」だの「ルーベンス」だのの
絵や彫刻の写真を見て育ちました。
描かれているものがダレなのか、ダレが描いたのか、その人はどんな人か…
そんなことはおおきくなってから知ればいい、今はただ「この絵きれい」とか
「この人ヘンな顔してる」でいいと、父はいつもそういいました。
モネの睡蓮を見て「ぐちゃぐちゃして汚い」といったのは、たぶん7歳くらい。
父は笑って「ほんとにぐちゃぐちゃだねぇ、でも大人になったら、
大きな絵を遠くから見てごらん、ちゃんと睡蓮が咲いてるよ」といいました。
それが本当のことだと知ったのは、父がなくなってからです。
私はそんな父が、人の命を奪う道具つくりにかかわっていたことが、
かなりショックでした。でも、今ならわかります。
父は「気が付いた」のです。軍国少年で、りっぱな軍人になって、
お国のために戦うのだ、それが男だ、と信じて疑わなかった父は、
たぶん「人の命を奪う道具」を作りながら、戦争の虚しさも「勝てない」ことも、
本当に国に尽くすとはどういうことかも、みんな感じ取ったのだと思います。
だから、戦争が終わって、ただの民間人に戻ったとき、
父は米軍のキャンプで働きました。そのなかで「これからの日本」を考えたわけです。
父は私に言ってました「お仕事しててね。アメリカさんの車をいっぱい見たよ、
大きくてね、カッコいいんだ。こんなのもあるんだよ、見てごらん」
そういって見せてくれた本は、英語の本で、
そこには葉巻型の今で言う「F1」が写っていました。
近所の酒屋のトラックとか、お医者さんのうちの黒塗りの車しか見たことのない私は、
屋根もなくて一人しか乗れなくて、タイヤばっかりり大きい
ヘンな車だと思いました。父は「こういう車でみんなが競争して楽しんだり、
みなもとや(当時の近所の酒屋)さんちみたいなトラックで、
食べるものや飲むものがたくさん運ばれたりすることは、
とてもだいじなことで、とてもいいことなんだよ」と、そういいました。
理解はできなくても、なんかとにかくいいことなんだと思いました。
父は母に「これからの日本は物流が発展する、車は重要な道具になる、
いずれ誰もがみんな車に乗るようになる、そのとき安心して車に乗れるように、
車の安全を守る道具を作る」といって、エンジンの音を聞く「車の聴診器」と、
今のような大きなジャッキのない時代、車の下にもぐりこんでの作業をラクにするための、
キャスターつきの作業台を製作し、特許をとりました。
その道具は今でも整備工場などで使われています。
父はきっと、本当に国を守るということは「命を捨てる」ことではなくて、
「命を守る」ことだと、気が付いたのだと思います。
「鬼畜米英」などという時代に育った父が、西洋文化のすばらしいものを
素直に認め、独学で英語もドイツ語も習得し、原書を読み、図面も絵も描き、
日本の将来を見据えてものを考えた…その父は51歳でなくなりました。
その半生は「戦争」に捧げ、半生は「平和」に捧げたのだろうと思います。
気づくことができてよかったのだ、と今はそう思うのです。
私は父の年をとうに越えました。父がずっと健在だったら、
どんな話を聞かせてくれたか、時々考えます。
そしていつも思います、きっと古い話より
「いまを大事にしなさい、それをつなげる努力をしなさい」と言うだろうと。
父は私に通訳とか、そういった仕事をさせたかったようです。
小学校に上がるときから「大きくなったら英語とフランス語を学びなさい、
お前が大きくなるころには、もっと社会は国際的になって、
女性ももっと社会進出をする時代になるから」と、そんなことを、
もっと噛み砕いた言い方で言ってました。
私は単純に「英語がしゃべれたらガイコクジンとおともだちになれる」くらいしか
考えていませんでしたが、父は娘が社会貢献できる人になるようにと
そう夢を持ったのでしょう、おとうさんすんません、
私にはおとうさんほどの「脳」はありませんでした。
横文字ニガテ、日本語で手一杯、おまけにどっぷり「和」に浸っています。
ほんとに親不孝な娘だけど、それでもおとうさん、戦争のない暮らしの大切さは、
ちゃんと考えられるようになりましたよ。
二人目のお父さんは、おとうさんの遺志をついで、
一生懸命「安全のための道具」を作り続けてくれましたよ。
今の時代、平和すぎてボケかますのもたくさんいるし、今は妙な事件も絶えません。
こんなはずじゃなかった…のところもたくさんあるのだろうと思いますが、
だからこそ「うるさいおばさん」になってでも、
「平和でよかったね、戦争って嫌だね」と、言い続けていきたいと思っています。
最初のころに咲いた朝顔、種が膨らんでいます。
大切にして、来年また蒔きます。命のリレー、ですね。
ちっと大きくなりました。三階あたりがお気に入りのようです。
でも…はっぱ穴だらけやん…。
今日は「ヒロシマ」の日です。
あの日、人だけでなく、バッタもカブトムシもセミも、朝顔もひまわりも…
たくさん一緒に焼けてしまったんですね。
私は高校の修学旅行で、長崎の原爆資料館に行きました。
それまで「観光旅行気分」でキャイキャイと浮かれていたのですが、
展示物を見ていくにしたがって、心の奥におもりのようなものが、
ズシンズシンと積み重ねられていくのを感じました。
熱で溶けたガラス瓶や、ぼろぼろの国民服、黒いシミは血のしぶきでした。
それを見て、あぁ日本って本当に戦争があったんだ、と、強烈に実感しました。
思えばあのときから、終戦記念日や原爆を意識するようになったと思います。
若いうちは、ついつい自分の半径1メートル、みたいな感じでしか物が考えられず、
反戦についても平和についても、さして積極的に行動するわけではありませんでしたが、
夏が来ると、あの式典を見ると、そのたびにあの資料館の展示物が、
頭の中をよぎりました。結婚し、子供が生まれ、親が老い…、
そういう時間の流れを振り返ると、平和な中でいきてこられてよかった…と、
このごろはそんなことを思います。
何も目立ったことはできないけれど、せめて次代をつぐ若い人たちのために、
聞いて伝えることだけはしていこう、とそう思うのです。
着物を触っていて、こんなの本当に着たのだろうかというような、
つぎはぎのもの、表はそこそこなのに、裏がひどいもの、
そういうものはたいがいがあの時代をこえてきたものです。
命を脅かされる暮らしの中で、或いはやっと平和になったものの、
ろくに食べるものも身につけるものもない暮らしの中で、
せめて子供には、せめて娘には、と親が思いのありったけをこめたものです。
人とともに生き抜いてきたものたちと出会うとき、
私は一生平和の中で暮らしたい、と思うのです。
私の実父は、私が12歳のときに亡くなりましたので、
子供の目線でのお付き合いしかないのです。ただただ優しい父でした。
その父は、存命ならば今年98歳です。
時代が時代ですから「軍国少年」で育ち、父は「海軍」の七つボタンに
憧れていたそうです。七つボタンなんていってもわかりませんね。
海軍飛行予科練習生、通称「予科練」と呼ばれた訓練生の制服です。
残念ながら、父は胸を患い、望みはかないませんでした。
かわりに「少しでも海軍に関わりたい」と、父は海軍の「監督官」になりました。
私は大人になって「軍に入れなかったのに、なぜ監督官?」と
不思議に思っていたのですが、当時海軍は、民間でも技術のあるものは
技術者として登用したのだそうです。
母がぽろっと「おとうさんは戦犯もおんなじや」と言ったことがあります。
「センパン」がわからなかった私は少し大きくなって母に聞きました。
母は「おとうさんはあの『回天』を作ることに携わっていたから」といいました。
「回天」とは「人間魚雷」とよばれるもの、空は「ゼロ戦の特攻隊」、
海は「人間魚雷・回天」です。つまり、そのまま体当たりして帰ってこない…。
私は小さかったこともあって、父に戦争の話をきいたことがありませんでした。
父はとても穏やかな人で、エンジニアでありながら、
美しい絵や書を好む人でした。私は物心付いたときから、
父が切り抜いて取っておいてくれた「ミロのビーナス」だの「ルーベンス」だのの
絵や彫刻の写真を見て育ちました。
描かれているものがダレなのか、ダレが描いたのか、その人はどんな人か…
そんなことはおおきくなってから知ればいい、今はただ「この絵きれい」とか
「この人ヘンな顔してる」でいいと、父はいつもそういいました。
モネの睡蓮を見て「ぐちゃぐちゃして汚い」といったのは、たぶん7歳くらい。
父は笑って「ほんとにぐちゃぐちゃだねぇ、でも大人になったら、
大きな絵を遠くから見てごらん、ちゃんと睡蓮が咲いてるよ」といいました。
それが本当のことだと知ったのは、父がなくなってからです。
私はそんな父が、人の命を奪う道具つくりにかかわっていたことが、
かなりショックでした。でも、今ならわかります。
父は「気が付いた」のです。軍国少年で、りっぱな軍人になって、
お国のために戦うのだ、それが男だ、と信じて疑わなかった父は、
たぶん「人の命を奪う道具」を作りながら、戦争の虚しさも「勝てない」ことも、
本当に国に尽くすとはどういうことかも、みんな感じ取ったのだと思います。
だから、戦争が終わって、ただの民間人に戻ったとき、
父は米軍のキャンプで働きました。そのなかで「これからの日本」を考えたわけです。
父は私に言ってました「お仕事しててね。アメリカさんの車をいっぱい見たよ、
大きくてね、カッコいいんだ。こんなのもあるんだよ、見てごらん」
そういって見せてくれた本は、英語の本で、
そこには葉巻型の今で言う「F1」が写っていました。
近所の酒屋のトラックとか、お医者さんのうちの黒塗りの車しか見たことのない私は、
屋根もなくて一人しか乗れなくて、タイヤばっかりり大きい
ヘンな車だと思いました。父は「こういう車でみんなが競争して楽しんだり、
みなもとや(当時の近所の酒屋)さんちみたいなトラックで、
食べるものや飲むものがたくさん運ばれたりすることは、
とてもだいじなことで、とてもいいことなんだよ」と、そういいました。
理解はできなくても、なんかとにかくいいことなんだと思いました。
父は母に「これからの日本は物流が発展する、車は重要な道具になる、
いずれ誰もがみんな車に乗るようになる、そのとき安心して車に乗れるように、
車の安全を守る道具を作る」といって、エンジンの音を聞く「車の聴診器」と、
今のような大きなジャッキのない時代、車の下にもぐりこんでの作業をラクにするための、
キャスターつきの作業台を製作し、特許をとりました。
その道具は今でも整備工場などで使われています。
父はきっと、本当に国を守るということは「命を捨てる」ことではなくて、
「命を守る」ことだと、気が付いたのだと思います。
「鬼畜米英」などという時代に育った父が、西洋文化のすばらしいものを
素直に認め、独学で英語もドイツ語も習得し、原書を読み、図面も絵も描き、
日本の将来を見据えてものを考えた…その父は51歳でなくなりました。
その半生は「戦争」に捧げ、半生は「平和」に捧げたのだろうと思います。
気づくことができてよかったのだ、と今はそう思うのです。
私は父の年をとうに越えました。父がずっと健在だったら、
どんな話を聞かせてくれたか、時々考えます。
そしていつも思います、きっと古い話より
「いまを大事にしなさい、それをつなげる努力をしなさい」と言うだろうと。
父は私に通訳とか、そういった仕事をさせたかったようです。
小学校に上がるときから「大きくなったら英語とフランス語を学びなさい、
お前が大きくなるころには、もっと社会は国際的になって、
女性ももっと社会進出をする時代になるから」と、そんなことを、
もっと噛み砕いた言い方で言ってました。
私は単純に「英語がしゃべれたらガイコクジンとおともだちになれる」くらいしか
考えていませんでしたが、父は娘が社会貢献できる人になるようにと
そう夢を持ったのでしょう、おとうさんすんません、
私にはおとうさんほどの「脳」はありませんでした。
横文字ニガテ、日本語で手一杯、おまけにどっぷり「和」に浸っています。
ほんとに親不孝な娘だけど、それでもおとうさん、戦争のない暮らしの大切さは、
ちゃんと考えられるようになりましたよ。
二人目のお父さんは、おとうさんの遺志をついで、
一生懸命「安全のための道具」を作り続けてくれましたよ。
今の時代、平和すぎてボケかますのもたくさんいるし、今は妙な事件も絶えません。
こんなはずじゃなかった…のところもたくさんあるのだろうと思いますが、
だからこそ「うるさいおばさん」になってでも、
「平和でよかったね、戦争って嫌だね」と、言い続けていきたいと思っています。
最初のころに咲いた朝顔、種が膨らんでいます。
大切にして、来年また蒔きます。命のリレー、ですね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/54/da522055e4990f12507b1499d5c24a88.jpg)
おっしゃるとおりだと思います。
子供のころには、ただ耳にするだけで
さして気にもしていなかったことでしたけど、
結局は今の私の中に、降り積もっていることが
たくさんあると、それを感じます。
「話す。伝える」ということは、
とても大切なことですね。
豊かだと私は思っています。
民衆の考えなどを聞いて反映されることがないから
起こる理不尽はこれまで何回も繰り返されてきました。
<原爆>という人類史上稀な被害にあい、
はじめて戦争の悲惨さ、愚かさを知ったのです。
多くの犠牲と悲しみの上にある今の平和を
長く伝承していくのは我々の責務です。
お父様の生き方、考え方は時を経てもこうして
とんぼさんの生きる指針に大きく影響していると
思います。 お互いによい考え方の父がいたことに
感謝して、折りにふれて語っていかねばと
8月の空を眺めて思います。
ありがとうございます。
私の母は、京都だったので、
田舎といえども「空襲」の経験がないんです。
だから横浜に来てガレキの山を見て、
初めて「恐ろしい」と思ったそうです。
同じ時代を生きた人でも、経験はさまざま。
でも何かしら、感じるものも
見たこと聞いたこともあるはずですものね。
じかに聞くのが一番ですから。
すごい人だったと思います。
唯一欠点は「医者嫌い」で、それで病気が
進行してしまったんですよ。
なんでもそうですけれど「群集」になると、
浮かれるってありますね。
強い日本だったころは、褒め称えたり、
していたわけですから。
私思うんですが、明治維新のときも
そうですけれど、なんか変わり身が早いのは
いいんだけれど、よく噛み砕かないうちに
飲み込んで走り出してしまうというか、
そういうところありますね。
はじけたように一方づいてしまう…。
大事なものが落ちても気が付かないみたいな…。
おっしゃるとおり、今の時代は、
あの時代を生き抜いた人には、タダ平和なだけでなく
嘆かわしいところも多いことでしょうね。
戦争は大きすぎて見えないところまで、
変わってしまうんですね。
たぶんですが、何度も何度も同じようなことを
言っていた気がします。
だから覚えているんだと思うんですよ。
自宅で仕事をしていましたので、
とにかくいつも父がそばに居ました。
母のほうが父のかわりに、
外回りの仕事もみんなしていましたから、
私はおとうさん子だったんです。
よく仕事の邪魔をして「本読んで」とか
「何か絵描いて」とか、まとわりついていた
そんな記憶があります。
ゼッタイ「ダメ」って言いませんでしたねぇ。
平和すぎて「アホ」も多いですが、
ありがたみを忘れちゃいけませんね。
私も長崎の原爆資料館に修学旅行で行って、資料館や、長崎の街並みから、戦争の重さを知りました。
うちの祖母はお嬢様育ちで戦争の悲惨さを経験していません。ですが、最近、そういう観点からの戦争も記憶されるべきではないかと思い立ち、祖母の小さい頃の話を身を入れて聞くようになりました。
とんぼさんのお父様のお話を胸に刻んで、次の世代へつないでいこうと思います。
あの時代にたとえ負けると分かっていてもとても口にはできなかったでしょうし、負けるなどと思いもしなかった人がほとんどだったのではないでしょうか?
戦争柄の着物のことから初めて思い至ったのですが、民衆も決してただの被害者などではなく、浮かれていた時期もあったのですよね。
日本にあの戦争が残していった物・・・昨今の見境無い利己主義もその一つなのではないでしょうか?
戦争の体験者は年々少なくなってきているのに、これほど大きな社会を蝕む現象は残り育っていく。
戦争の本当の怖さはこういうことなんじゃなかろうか?と思っています。
私も上記の二点を踏まえて、戦争好きな国で育っている息子たちに伝えています。
それにしても、僅か12歳でお父様の
言われた言葉を記憶されている、とんぼ様は
すごいですね。
衣食足りて、平和で暮らせる有難さに
感謝しつつ、先の戦争で犠牲になられた
方達の為にも、二度と愚かな事は起こしては
ならないと思います。