写真は今朝4時半の東の空、天気はよくないようです。
あの日はナガサキもヒロシマも晴天だったのですよね。
今年も半分少し終えたところで、振り返れば恐ろしく情けない事件ばかり。
つい先日も、やれうなぎだとかリンゴジュースだとかの偽装、
駅で人をおそう、家で親を殺す…、もうため息も出ません。
この国の人の品位や誇りや知性は、どこへいってしまったんでしょうね。
戦後、それいけやれいけで、すばらしい復興と発展を遂げた代わりに、
私たちは何を失くし、何を受け継いだんでしょう。
最近の終戦特集は、特に「生き残った人」の悔恨や後悔や罪悪感を
取り上げている気がします。とりあげている、というよりは、
つらすぎて語りたくなかった人たちが、
年をとって本当に天寿が近くなって「語っておかなければ」と
思われるようになったのではないかと思います。
空襲のとき、原爆が落ちたとき、親に友達に、また逃げる途中で出会った人に
「助けてあげられなくてごめん」と、それを今でも抱えている…。
黒こげの死体を「もうそうなるとモノにしか見られなくなるのです」と、
山ほどの死体を踏みつけ、見捨て、手も合わさず逃げたことを、
「あのとき私は人間ではなかった」と泣く。
「あなたが死んで私は生き残った」、それが親であっても、
兄弟であっても、友達であっても、生き残ってごめんなさい、と…
60年以上もたった今、まだその思いを抱えて生きておられるのです。
「みんなそうだったのよ、そうでなきゃ生きられなかったんだから」なんて、
戦争を知らない私は、軽々しく口に出していえません。
PTSDという言葉が知られるようになったのは、
確かサリン事件からではなかったかと思うのですが…。
過去の大きな事件や事故で生き残った人、助かった人たちが、
長い年月を過ぎてもまだ「幻影」に悩まされる、
自分だけが助かってしまったと押しつぶされそうになる。
原爆で、或いは戦争で生き残った人たちは、
いろんな形で「PTSD」を抱えて生きてきていると思います。
それが「そういう病気、症状なのだ」などと、
誰も説明してくれるわけでもなく、
ただひたすら「耐え忍んで」生きてこられたのですよね。
戦争って、それを知らない私たちには「終わったこと」です。
でも、それを知る人には「いつまでも終わらないこと」なのですね。
ましてやその身にケガを負い、差別を受けて暮らしてきた人には、
おわるどころか、いつまでも「あの日のまま」なのではないかと。
あの阪神大震災のときも、瓦礫に埋まり火が迫り、
「もういいから逃げなさい」という身内を置いて逃げなければならなかった、
そういう人もいたといいます。「行きなさい」といった人も、
引きずられようにしてその場を去った人も、その根底にあるのは
「生きることの大切さ」、という思いだったと思います。
「命」というものの大切さを思ったからです。
あとになってどんなに「あの時一緒に死ねばよかった」と思っても、
それは落ち着いてからいえることで、そのときは、結局
「一緒に死んでくれ」と、「一緒に死ぬ」と、言わなかった。
命は大切です。それでよかったのだとわかっていても、
だからこそ「助けられなかった命」「助かってしまった命」を思うのでしょう。
人とはやさしくて悲しいものです。
天災ならば、さけようがありませんが、
戦争は人の起こすことです。
それこそ死に物狂いで止めることはできるはずです。
毎年えらそーなことばかり書いておりますが、
私は特別に反戦とか核廃絶に、積極的にかかわってはおりません。
なかなか外に出ることができない実情と、やっぱり毎日の暮らしの維持と…、
それに追われるからです。せいぜいが、何か署名できるときにしたり、
こういう放送があったときにはなるべく見るようにして、
まずは自分が知ることだったり、そんなもんです。
後押しどころか、はるかうしろから指先でちょんと押している程度のことしか
できません。それでもせめてと思って「命」の大切さだけは、
ずっと考えていこうと思います。伝えられるときに伝えていこうと思います。
空襲の恐ろしさも原爆の閃光も知らない私ができるのは、
究極「生きたくても生きられない」、その理由が戦争であってはならないと、
それを伝えていくことくらいだと思うからです。
日本だけではなく「人の恐ろしい思いによってゆがめられた世界」として、
アウシュビッツの現実も、あわせて思う、毎年の私の鎮魂の時間です。
ここにもう一度「アウシュビッツの沈黙」のご紹介をさせていただきたく、
リンクしておきます。
虎んく・るーむのほうにも、ちょっぴり書かせていただきました。
「おかげさまで」、暑いながらも元気に生きている私、
またがんばって仕事を続けます。
あの日はナガサキもヒロシマも晴天だったのですよね。
今年も半分少し終えたところで、振り返れば恐ろしく情けない事件ばかり。
つい先日も、やれうなぎだとかリンゴジュースだとかの偽装、
駅で人をおそう、家で親を殺す…、もうため息も出ません。
この国の人の品位や誇りや知性は、どこへいってしまったんでしょうね。
戦後、それいけやれいけで、すばらしい復興と発展を遂げた代わりに、
私たちは何を失くし、何を受け継いだんでしょう。
最近の終戦特集は、特に「生き残った人」の悔恨や後悔や罪悪感を
取り上げている気がします。とりあげている、というよりは、
つらすぎて語りたくなかった人たちが、
年をとって本当に天寿が近くなって「語っておかなければ」と
思われるようになったのではないかと思います。
空襲のとき、原爆が落ちたとき、親に友達に、また逃げる途中で出会った人に
「助けてあげられなくてごめん」と、それを今でも抱えている…。
黒こげの死体を「もうそうなるとモノにしか見られなくなるのです」と、
山ほどの死体を踏みつけ、見捨て、手も合わさず逃げたことを、
「あのとき私は人間ではなかった」と泣く。
「あなたが死んで私は生き残った」、それが親であっても、
兄弟であっても、友達であっても、生き残ってごめんなさい、と…
60年以上もたった今、まだその思いを抱えて生きておられるのです。
「みんなそうだったのよ、そうでなきゃ生きられなかったんだから」なんて、
戦争を知らない私は、軽々しく口に出していえません。
PTSDという言葉が知られるようになったのは、
確かサリン事件からではなかったかと思うのですが…。
過去の大きな事件や事故で生き残った人、助かった人たちが、
長い年月を過ぎてもまだ「幻影」に悩まされる、
自分だけが助かってしまったと押しつぶされそうになる。
原爆で、或いは戦争で生き残った人たちは、
いろんな形で「PTSD」を抱えて生きてきていると思います。
それが「そういう病気、症状なのだ」などと、
誰も説明してくれるわけでもなく、
ただひたすら「耐え忍んで」生きてこられたのですよね。
戦争って、それを知らない私たちには「終わったこと」です。
でも、それを知る人には「いつまでも終わらないこと」なのですね。
ましてやその身にケガを負い、差別を受けて暮らしてきた人には、
おわるどころか、いつまでも「あの日のまま」なのではないかと。
あの阪神大震災のときも、瓦礫に埋まり火が迫り、
「もういいから逃げなさい」という身内を置いて逃げなければならなかった、
そういう人もいたといいます。「行きなさい」といった人も、
引きずられようにしてその場を去った人も、その根底にあるのは
「生きることの大切さ」、という思いだったと思います。
「命」というものの大切さを思ったからです。
あとになってどんなに「あの時一緒に死ねばよかった」と思っても、
それは落ち着いてからいえることで、そのときは、結局
「一緒に死んでくれ」と、「一緒に死ぬ」と、言わなかった。
命は大切です。それでよかったのだとわかっていても、
だからこそ「助けられなかった命」「助かってしまった命」を思うのでしょう。
人とはやさしくて悲しいものです。
天災ならば、さけようがありませんが、
戦争は人の起こすことです。
それこそ死に物狂いで止めることはできるはずです。
毎年えらそーなことばかり書いておりますが、
私は特別に反戦とか核廃絶に、積極的にかかわってはおりません。
なかなか外に出ることができない実情と、やっぱり毎日の暮らしの維持と…、
それに追われるからです。せいぜいが、何か署名できるときにしたり、
こういう放送があったときにはなるべく見るようにして、
まずは自分が知ることだったり、そんなもんです。
後押しどころか、はるかうしろから指先でちょんと押している程度のことしか
できません。それでもせめてと思って「命」の大切さだけは、
ずっと考えていこうと思います。伝えられるときに伝えていこうと思います。
空襲の恐ろしさも原爆の閃光も知らない私ができるのは、
究極「生きたくても生きられない」、その理由が戦争であってはならないと、
それを伝えていくことくらいだと思うからです。
日本だけではなく「人の恐ろしい思いによってゆがめられた世界」として、
アウシュビッツの現実も、あわせて思う、毎年の私の鎮魂の時間です。
ここにもう一度「アウシュビッツの沈黙」のご紹介をさせていただきたく、
リンクしておきます。
虎んく・るーむのほうにも、ちょっぴり書かせていただきました。
「おかげさまで」、暑いながらも元気に生きている私、
またがんばって仕事を続けます。
日々目の当たりにされているとんぼさんに
とって
ひとしおですよね。
平和といわれる今に何故悲惨な事件や
事故でなくなる命があるのか
先進国とされながら、家庭内事故での
こどもやお年寄りの犠牲がトップだなんて
やるせないばかり。
なにが人間の中にひそみ
悲劇をもたらすのか
伝えられていくべきだと思います。
つつましく日々の暮らし、生かされている
命を大切に精一杯暮らしていたのだと思います。戦後生まれでも親から聞いて戦争の
悲惨さを想像出来る私たちはまだしも、全く知らない若者は、むしゃくしゃする、イライラするだけで誰でもよかったと人の命を奪う・・・
理性もなく身勝手な事が最近は多すぎます
相手を思いやる心をどこかに忘れてきたのかと
寂しくなります。
炭焼き小屋の熱い中で、その時、もっともっと熱い、苦しいと思いながら亡くなった方や、生き地獄の中をさまよった方のことなどを思い、心がどこかへいってしまいそうになりました。
傍にいた「炭焼きの師匠(80代)」は手を合わせることはなかったのですが、ぽつんと、「・・・熱かったろう。」。
修学旅行で、広島や長崎や沖縄に行く学校が激減していると聞くたびに「違う!!」と思います。
平和ボケなんですかねぇ。
モノがあふれて、なんでもスイッチひとつで
ポンポンとできるから、
ちょっと思い通りにならないと、
腹がたつんですかねぇ。
サバイバルなんて、ゼッタイ無理でしょうね。
陽花様
私たちの親の代は、本当に「あるもの」を
大切にして、なんでも工夫して、
一生懸命育ててくれましたよね。
モノがあふれるということは、
その分どこかが「枯渇」する気がします。
ちょっとやさしさがあれば、
防げることがたくさんあるような
そんな気がしてなりません。
ゆん様
「熱かったろう」、ほんとにそうですね。
どんなにか…、つらかったでしょうね。
今の時代の礎となってくださった人々に
感謝しなきゃいけません。
教育も、今の状況ではねぇ…。
ため息の今日です。