ちょっと前までは、今日が「体育の日」でした。オリンピックの開会式の日。
だからというわけでもないのですが…珍しくもスポーツ話題?…。
家の外においてあるストックボックスの中身は、主人の釣り道具ばかり…と思い込んでいましたので、
いままであけてみたこともなくて…無責任な…そして
「アナタの釣り道具しか入ってないんだから、よく見て、いらないものだしといて」と、
えらそーに言ったのに「これ…オレのじゃないよ…」はひゃぁぁぁ、すんません。
でてきた銀色のスケート靴、はい、自分で染めました。かかとなんてハゲてます。
私が初めてスケートをやったのは、小学校3年の時。
近所のお店で働いていたお兄さんが、時代的に「就職列車で働きにきた人」でした。
福島の人でスケートはお手のもの、故郷を懐かしく思うということもあったのでしょうか、
お休みの日に、私を横浜のスケートリンクに連れて行ってくれたのです。
何回か連れて行ってもらいました。彼にはまだガールフレンドもいなかったのでしょうねぇ。
それで楽しくて楽しくて…で、中学に入ってからは、友達と一緒に…。
当時、チケットは350円くらいでしたかねぇ。
そしてねだりにねだって、ついに靴を買ってもらったわけです。
女の子は赤が多かったのですが、貸靴が赤だったかで、同じはイヤ、と白にしました。
白は汚れるし傷が目立つし…それでも、これをかついで行きましたねぇ。
なにしろ50年前のことです。お金のかかる遊び…の内にはいっていたのでしょうか、
そうそういつも一緒に行く友達もなく、よく父や母についていってもらってました。
場所は、横浜の人ならご存知の「東神奈川」という横浜の一つ先にあったスケートリンク。
つい最近、そこが「本日を以て閉鎖される」という最終日のニュースがあって、
閉館しちゃうんだー…の前に「まだ営業してたんだー」でした。
最近は氷ではなく、化学素材の小さなリンクがビル街の中にあったりしますね。
今は、横浜・赤レンガ倉庫」前に、冬場だけリンクが出現します。
私のスケートは教室に入って習う、というところまではいかず、ほんとにお遊びでしたが、
子供だったからでしょうか、みようみまねであれこれ滑り方を覚え、
バックもクロスもターンもできました。あのクルクル回るのはダメでしたけどね。
高校までは、とりあえず年に何回かは行きましたが、それっきり…。
でも確か30も近くなってから、なんだか行くことになって一度滑りましたが、
子供のころ覚えたことというのは、体が覚えているのでしょうか、問題なく滑れましたね。
今でもたぶん、靴履いて氷の上に立てば、前に進むことくらいはできる気がします。
さて、この靴、あまりにも傷や汚れがひどくなって、履くのにもちょっとねぇ…になったころ、
「革を染めるダイロン」を見つけました。ならば染めてやろーじゃないの…と、
さんざん色で迷ったのです。ヒトと同じはイヤ、という性分ですから、紫…着物じゃないんだから、
黄色…足が大きく見える、じゃかかとと本体を別の色に…アンタはピエロか…。
で、最終的に「銀色」にしたのです。最初は「これで紐は赤」とやって「ウルトラマン」と言われたので、
一度で変えまして、白と黒のねじりにしたわけです。
実は、銀色にした理由はもうひとつ、子供のころに読んで大好きだった「銀のスケート」という
児童文学がありまして、その中で行われるスケートの大会の優勝賞品が「銀のスケート」だったのです。
きっとこんな靴だったはず、と…。「銀のスケート」は、今から150年くらい前ですかしら、
アメリカのメアリ・メイプス・ドッジという女性の著した作品です。
先祖がオランダの人だったそうで、物語もオランダが舞台です。
何度も読み返したはずなのに、ストーリーをしっかりおぼえていない…です。
ボロボロになっていますが、本はまだ二階の本棚にあります。再読しようかな…。
そんなこんなの「銀色スケート」、確かに当時は誰も履いていなかったので、
これで滑ると驚かれたり、あきれられたりしましたっけ。
仕舞い込んでからいったい何十年になるのでしょう。
ケースはすっかりボロボロでしたが、靴はカビ生えていませんでした。奇跡的です。
さすがに革が固くなっていましたが、刃のひどいさびもありませんので、研いでもらえば履ける…
履くのか、履いて滑るのか…アンタだいじょぶ?と、心の中でもう一人の私が引き止めます。
今年の冬、赤レンガの前ですべってみよーかな、その時はもんぺに綿入れ半天がいいなぁ。
そのカッコでこんなおばさんが、スイスイ滑ってバックなんかやっちゃったりしたら…、
ははは、ほんとにやってみたくなりました。靴、磨いてみます。(ほーら、また捨てないんだから…)
小学生の頃に行きましたよ!
当時戸塚に住んでいたのでちょっと遠かったのですが友だちとこっそり出かけて親にこっぴどく怒られたのを主出しました。
貸靴は赤かったですかねえ?
どんなに記憶をたどってもリンクの外にあった瓶のジュースの自販機しか思い出せません。
私は後楽園そばのスポーツ店で
オーダーでした、そう、白です。
行った先は軽井沢、週末の夜行バスで
碓氷峠を越えて行き、
夕方には向こうを発ち...を
シーズン中に何回もやりましたっけ、
天然リンクでした。
そのうちスキーに変わり、
スケート靴は処分し、
スキーは子供たちにと思いましたが、
だんだん進歩して
見向きもされなくなり、処分でした。
懐かしい思い出です。
いかにもとんぼさんらしいですねえ~
スケートが出来る方は憧れです。
子供の頃何度かトライしましたがどうにもスケートはダメでした。
スキーの方がまだ何とかという感じだったかなあ~
結婚してスキー場のすぐ近くに住むようになりましたが、こちらでは一度も滑ったことはありませんー北海道は寒すぎる!!!
あのころの貸靴は、ほとんど黒が多かったと思いますが、
サイズによって赤だったと記憶しています。
子供で足がちいさかったですからねぇ。
後年、貸靴は「持って帰られないように」なのか、
白と黄色と青…とか、はっきり「貸靴」とわかるような
色目になりました。
リンクサイドは寒くて、ついてきてくれた父が
風邪をひいたりなんてこともありましたっけ。
昔よりずっときれいになっていたらしいですが、
それももう終わり…さみしいです。
コメント拝見して思い出しました。
私も軽井沢、行きました。
当時は400のコースがあるのは、
あそこだけだったような記憶が…。
夜行スケートバス、というのがありましたよね。
母が知り合いに頼んで、行かせてくれました。
その後は夜行バスというと、富士急ハイランドでした。
今はもうないでしょうけれど、
当時は「ついて翌朝まで滑る」…でしたから、
徹夜で滑って、眠くなると休憩所のベンチで寝たり…
ずいぶん無茶してました。
スキーは、結婚してから初めてやりましたが、
同じ「滑る」ことなのに、なぜこうも違う…と、
四苦八苦しました。
人と違う…というのは、たぶん母の影響ですね。
銀に染めたけど、母は「えぇやん」って言いましたし、
そんな便利なものがあるなら、自分の靴も染めてくれ、と、
たしかハイヒールをグリーンに染めてあげた気がします。
寒いところにいると、冬はいつでも滑れて、
いいなぁと思ってましたけれど、
雪国生まれの友人が、スキーの授業が大嫌いだったと。
理由は「なんで寒いのに外へできゃならない」…。
雪国でも寒がりはいるんだーと、
へんなところで感心しましたっけ。
東神奈川のスケートリンクには私もよく行きました!
建て替えるそうですね。
貸し靴は赤と黒でした。懐かしいです。
はじめまして、コメントありがとうございます。
最近はスケートも注目されてますが、
昔はマイナーでしたよね。
東神奈川、リニューアルなんですか。
新しくなったら行こうかな(捻挫でもしたらどうする…)
昔は白、赤、黒しかなかったから、貸靴と言えば
女の子は「赤」という記憶があります。
時々ひどいボロボロのに当たったりして、
取り替えて、なんてやってましたっけ。
あの「リンクの匂い」「貸靴コーナーの匂い」、
今でもふっと思い出します。懐かしいです。