今日は書くことがいっぱいあります。
前記の「お宝の山」を、のんきに書いたあとで、
さて寝ようかとPCを切ろうとしたら、
今まで耳に入らなかった、かけっぱなしのテレビの声が、
いきなりとびこんで来ました。
そういえば「視点・論点」をやっていました。
今日は外国の男性だな…と思ったことと「最近の政治家の失言」について
なんだかしゃべってるな…ということは覚えていました。
このところ「国会性認知症」の人たちの話題が続きましたから、
少々わずらわしく、PCの方に気をとられていたのですが、
切ろうとしたとき耳に飛び込んできたのは、
意外にも「生ましめんかな」…という言葉でした。
私は、この言葉を聞くと、いつも身が引き締まる思いをするのです。
ハッとして画面を見ると、その外国人は流暢で、そしてとても穏やかな日本語で、
「この詩を英訳しようとしたが『生ましめんかな』と言う言葉が、
どうしても英訳しづらくてできなかった。
しかしリチャード・マイニヤー(たぶんこの人だと思うのですが)氏の
英訳を見て脱帽した」ということを話しました。
こちらの番組のお話しをしていると、また脱線しそうなので、
「詩」の方のお話しをします。
この「生ましめんかな」は、栗原貞子女史の詩です。
ご存知のかたも数多くいらっしゃると思いますが、
ご本人も被爆者であり、その後広島貯金支局(爆心地から1,600メートル)の
地下室での秘話を聞いて感動し、作り上げた詩です。
著作権のこともあるかと思いますので、
原文はこちらでお読みください。
ここでは最後の三行のみ、載せさせて頂きます。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも
ご存知ない方のために書きますと…、
原爆投下後、広島の貯金支局地下室に沢山の人が避難していました。
マッチ一本もない真っ暗闇の中、激しく傷ついた人たちが折り重なり、
血の匂いの充満する中で、一人の妊婦が産気づきます。
こんなところでこんな状況で…と誰もが困惑する中、
「私が生ませます」と、自らも重傷患者であったお産婆さんが名乗り出て、
ついに赤ちゃんは生まれます。そしてそれと入れ替わるように
お産婆さんは亡くなってしまったのです。
「生ましめんかな」の意味は、そのままだとたぶん「生ませましょう」
あるいは「生ませてあげましょう」だと思うのですが、とても力強い言葉です。
ラフにいうなら「生ませてやっからな」とうような。
なによりも、その言葉が使われた場面が「そういう」場面であったから、
ただ「てつだってやるよ」ではなく、生きておくれ、生きるんだよ、
というような、この状況にありながらも、しかも自分の命がもうわずかであると
知っていても、いや知っていればこそ、次の命を守り、託した、
その思いの強さを感じるのです。
8月に入ると、とたんに「戦争特集」の番組が多くなります。
去年でしたか、広島の語り部のリポートがありました。
修学旅行生に聞かせるからと頼まれていくのに、
「時間が押しているので手短に」とか終わると「はーい、じゃ次は…」と、
さっさと行ってしまう、聞くほうの子供たちも「ただの予定のひとつ」で、
「はいどうも」と言う感じでいってしまう。
そんなもの「形骸化」してどーするんですか。
私はこういう番組は、いろいろな切り口でもっともっと
放送していくべきではないかと思います。
先日の地震の折の「刈羽原発」の事故、あれは戦争による「人災」ではなく、
天災によるものではありました。しかし、もし大量に漏れたり
流れ出したりしていれば、それで人間の体に起こることは同じです。
原爆は「爆弾」でもありましたから、それによるやけどやケガもありました。
しかし、何より怖いのは「放射能」による体の異常です。
以前原発で「臨界事故」があり、犠牲者が出ました。
爆風でふきとばされたとか、家の下敷きになったとかではなく、
放射能という「ばい菌」とは違う恐ろしい「毒」で亡くなったのです。
最近では、ロンドンでリトビネンという元中佐が放射性物質で
「毒殺」されたといわれています。本人の希望で、なくなる直前の姿が
テレビで全世界に放映されました。銃弾で傷つけられたわけでもなく、
刃物でさされたわけでもない、体内の放射性物質が、
体を中側から壊していくのです。とめようはありません。
おちくぼんだ眼と、もう助からないことを知っている無念の表情は、
本当に恐ろしい画像でした。
原爆を受けた人たちは、その爆弾としての威力によるケガと、
壊れた建物などの二次的なケガと、そして体内に入ってしまった
「とめようのない毒」によって、何重にも蹂躙されたわけです。
更には、母親の胎内にいた赤ちゃんも「胎内被爆」をしてしまいました。
戦争も知らないまま大きくなってなお、その体に戦争の傷を負ったわけです。
今、この時代にもまだ「戦争で亡くなる人」がいるのです。
もう、あの日から60年以上も経つというのにです。
私たちは、毎日平和に暮らしています。
戦争なんか遠い遠い日の、よその国でおきたことのように、他人事です。
「核」を持つとか持たないとか、バカ言ってんじゃないわよ、と思いつつ、
じゃあ何かしているかと言ったら何もしていません。
人間はおろかな生き物で、形のないものはなかなか信じられません。
愛情とか信頼とか、神とか仏とか…。
それから形があっても、今、目の前にないと忘れてしまいます。
これは私自身のことでもあります。
だからこそ、私は戦争や核に関することは、知らしめるべきだと思うのです。
なかなか活動はできなくても、誰でもできるのは「忘れないこと」です。
私が「生ましめんかな」を初めて読んだのは、
ずいぶん大人になってからだったと思いますが、
その逸話で受けたショックはとても大きく、そして詩の中の
「生ましめんかな」と言う言葉は、忘れようもなく深く心にとどまりました。
「生ましめんかな」は「希望を捨てないことの大切さ」をも歌っています。
産婆として最後の子を取り上げて逝った人は、そんな不幸に死に方であっても、
誇り高く、次への希望を抱いていったと思うのです。
これから先、生まれてくるはずのたくさんの子供たちが、
穏やかにしあわせであるように、私たちが「生ましめんかな」と、
うでまくりをしてその命を迎えてあげられるように、
世は平和でなければなりません。
大きなことはできなくても、忘れないでいることはできるはずです。
戦争よりに傾いている政治家なんか、ゼッタイ認めないように、
憲法についても、国際交流についても、難しい勉強はしなくても
つながりと意味がわかるように、私たちは「賢い国民」でありたいと思います。
前記の「お宝の山」を、のんきに書いたあとで、
さて寝ようかとPCを切ろうとしたら、
今まで耳に入らなかった、かけっぱなしのテレビの声が、
いきなりとびこんで来ました。
そういえば「視点・論点」をやっていました。
今日は外国の男性だな…と思ったことと「最近の政治家の失言」について
なんだかしゃべってるな…ということは覚えていました。
このところ「国会性認知症」の人たちの話題が続きましたから、
少々わずらわしく、PCの方に気をとられていたのですが、
切ろうとしたとき耳に飛び込んできたのは、
意外にも「生ましめんかな」…という言葉でした。
私は、この言葉を聞くと、いつも身が引き締まる思いをするのです。
ハッとして画面を見ると、その外国人は流暢で、そしてとても穏やかな日本語で、
「この詩を英訳しようとしたが『生ましめんかな』と言う言葉が、
どうしても英訳しづらくてできなかった。
しかしリチャード・マイニヤー(たぶんこの人だと思うのですが)氏の
英訳を見て脱帽した」ということを話しました。
こちらの番組のお話しをしていると、また脱線しそうなので、
「詩」の方のお話しをします。
この「生ましめんかな」は、栗原貞子女史の詩です。
ご存知のかたも数多くいらっしゃると思いますが、
ご本人も被爆者であり、その後広島貯金支局(爆心地から1,600メートル)の
地下室での秘話を聞いて感動し、作り上げた詩です。
著作権のこともあるかと思いますので、
原文はこちらでお読みください。
ここでは最後の三行のみ、載せさせて頂きます。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも
ご存知ない方のために書きますと…、
原爆投下後、広島の貯金支局地下室に沢山の人が避難していました。
マッチ一本もない真っ暗闇の中、激しく傷ついた人たちが折り重なり、
血の匂いの充満する中で、一人の妊婦が産気づきます。
こんなところでこんな状況で…と誰もが困惑する中、
「私が生ませます」と、自らも重傷患者であったお産婆さんが名乗り出て、
ついに赤ちゃんは生まれます。そしてそれと入れ替わるように
お産婆さんは亡くなってしまったのです。
「生ましめんかな」の意味は、そのままだとたぶん「生ませましょう」
あるいは「生ませてあげましょう」だと思うのですが、とても力強い言葉です。
ラフにいうなら「生ませてやっからな」とうような。
なによりも、その言葉が使われた場面が「そういう」場面であったから、
ただ「てつだってやるよ」ではなく、生きておくれ、生きるんだよ、
というような、この状況にありながらも、しかも自分の命がもうわずかであると
知っていても、いや知っていればこそ、次の命を守り、託した、
その思いの強さを感じるのです。
8月に入ると、とたんに「戦争特集」の番組が多くなります。
去年でしたか、広島の語り部のリポートがありました。
修学旅行生に聞かせるからと頼まれていくのに、
「時間が押しているので手短に」とか終わると「はーい、じゃ次は…」と、
さっさと行ってしまう、聞くほうの子供たちも「ただの予定のひとつ」で、
「はいどうも」と言う感じでいってしまう。
そんなもの「形骸化」してどーするんですか。
私はこういう番組は、いろいろな切り口でもっともっと
放送していくべきではないかと思います。
先日の地震の折の「刈羽原発」の事故、あれは戦争による「人災」ではなく、
天災によるものではありました。しかし、もし大量に漏れたり
流れ出したりしていれば、それで人間の体に起こることは同じです。
原爆は「爆弾」でもありましたから、それによるやけどやケガもありました。
しかし、何より怖いのは「放射能」による体の異常です。
以前原発で「臨界事故」があり、犠牲者が出ました。
爆風でふきとばされたとか、家の下敷きになったとかではなく、
放射能という「ばい菌」とは違う恐ろしい「毒」で亡くなったのです。
最近では、ロンドンでリトビネンという元中佐が放射性物質で
「毒殺」されたといわれています。本人の希望で、なくなる直前の姿が
テレビで全世界に放映されました。銃弾で傷つけられたわけでもなく、
刃物でさされたわけでもない、体内の放射性物質が、
体を中側から壊していくのです。とめようはありません。
おちくぼんだ眼と、もう助からないことを知っている無念の表情は、
本当に恐ろしい画像でした。
原爆を受けた人たちは、その爆弾としての威力によるケガと、
壊れた建物などの二次的なケガと、そして体内に入ってしまった
「とめようのない毒」によって、何重にも蹂躙されたわけです。
更には、母親の胎内にいた赤ちゃんも「胎内被爆」をしてしまいました。
戦争も知らないまま大きくなってなお、その体に戦争の傷を負ったわけです。
今、この時代にもまだ「戦争で亡くなる人」がいるのです。
もう、あの日から60年以上も経つというのにです。
私たちは、毎日平和に暮らしています。
戦争なんか遠い遠い日の、よその国でおきたことのように、他人事です。
「核」を持つとか持たないとか、バカ言ってんじゃないわよ、と思いつつ、
じゃあ何かしているかと言ったら何もしていません。
人間はおろかな生き物で、形のないものはなかなか信じられません。
愛情とか信頼とか、神とか仏とか…。
それから形があっても、今、目の前にないと忘れてしまいます。
これは私自身のことでもあります。
だからこそ、私は戦争や核に関することは、知らしめるべきだと思うのです。
なかなか活動はできなくても、誰でもできるのは「忘れないこと」です。
私が「生ましめんかな」を初めて読んだのは、
ずいぶん大人になってからだったと思いますが、
その逸話で受けたショックはとても大きく、そして詩の中の
「生ましめんかな」と言う言葉は、忘れようもなく深く心にとどまりました。
「生ましめんかな」は「希望を捨てないことの大切さ」をも歌っています。
産婆として最後の子を取り上げて逝った人は、そんな不幸に死に方であっても、
誇り高く、次への希望を抱いていったと思うのです。
これから先、生まれてくるはずのたくさんの子供たちが、
穏やかにしあわせであるように、私たちが「生ましめんかな」と、
うでまくりをしてその命を迎えてあげられるように、
世は平和でなければなりません。
大きなことはできなくても、忘れないでいることはできるはずです。
戦争よりに傾いている政治家なんか、ゼッタイ認めないように、
憲法についても、国際交流についても、難しい勉強はしなくても
つながりと意味がわかるように、私たちは「賢い国民」でありたいと思います。
生まれたときから国が戦争の真ん中…などという
不幸な国の子供たちは、嬉々として十を持ちます。
おそろしいことですね。
武器を持たずにすむ幸せについて、
きちんと語り伝え、教えていくのは、
大人の責任であると思います。
ほんとにしっかりしてほしいですね、
あの赤じゅうたんの中に入る方たちに…。
どんな事があっても戦争は避けなければなりません。
それを求める手法は様々です。
平和を祈り戦争反対を唱えているだけで戦争に巻き込まれなくて済むなら、こんな幸せなことはありません。
人間の本能には戦う事を喜びと感じる部分があるそうです。
ボクシングやフットボールなど肉弾戦に近いスポーツは人間の闘争本能の代理戦とか。
民族的にも白人の闘争意欲は並外れています。
キリスト教でやっと押さえつけているだけなのでしょう。
武器商人の暗躍やキリスト教原理主義、イスラム原理主義など戦争仕掛人がうごめく世界でどうすれば戦争から逃れられるか、現実的な方策を日本人一人一人が考え無くてはならない時期に来ていると思います。
今回の参議院選挙は頼りない政治家と無責任な役人にはいい薬になったかも知れませんが、まだまだ国政を預かるには甘過ぎます。
この産婆さんの様な身を捨てる覚悟の為政者が現れなくては、日本が本当の姿を現出する事は難しいでしょう。
「小さいころから」と「話して(読んで)聞かせる」
これは、ほんとに大事なことなんですよね。
命の大切さは、何も戦争にかぎることではないけれど
たくさんの命に関わることですから、
伝えていかなければならない事だと思います。
修学旅行、ほんとにそう思います。
最近では、場所を絞ってほんとに「学習」タイプの
旅行にしているところも出てきているようですが、
「記念旅行」タイプなら、そのためにお金つみたてて
なんていうのも、アホらしくなりますね。
「修学」って意味、どこへ行っちゃったんでしょう。
何で、でかいねずみの遊園地だの、只の『旅行先』だの・なんだ!!!
広島へ、長崎へ、沖縄へ、行かせてくれ!!親とはなれた状態に置かれて、あの恐ろしさを噛み締めさせてやってくれ!!何のための「修学」旅行だ!!愉しいだけの旅なら自分でそのうち行くだろうに!
戦争に対する恐怖心は、子供を持って、さらに大きくなりました。子供たちには、とにかく・戦争が起きたら、誰一人幸せにはなれないということ・大切な人も・家も・山も全て失うということ・などをぽつぽつと話します。家族全員がそろう食卓で話すことが多いです。
富山の空襲で、当時5歳だった実父は、母親に手を引っ張られて逃げ回ったそうです。『もう・あきらめようか・・』と思った祖母は、父に『ゆうちゃん、怖い?』と。
父が『おかあちゃんと一緒だから怖くない。』と答えた時、祖母は『この子を死なせるわけには行かない!』と思ったそうです。
子供たちには、この話をよくします。『その時、おじいちゃんが死んでいたら、あなた達はここにいないんだよね。』と。
いま、この瞬間にも、小さな子供やお年寄りが戦火にまかれて苦しんでいる。私たちが着るもの・食べる物を楽しんでいる時に、一口の水を求めながら、その皮膚さえも剥ぎ取られて亡くなって逝く人がいる。
次女の誕生日は8月15日です。早朝のお産で、『少し休もうかな・・』と、幸せな気分で横になったら、大音量のカーキ色の車のパレードが始まって飛び起きました。その産婦人科、すぐそばが護国神社なんですよ~!
入れ違ったようで、おそくなりましてすみません。
そうですか、お父様は被爆者だったのですか。
たいへんな思いをされたのでしょうね。
私は沖縄にも行ったのに、若かったんですね、
ほんとにただの観光旅行になってしまいました。
あらためて、行ってみたいと思っている場所です。
百聞は一見にしかずといいますものね。
忘れないための努力、おこたらずにいたいですね。
ぷる様
はじめまして、ようこそ。
あの番組も、なかなかでしたね。
「生ましめんかな」を「みんな産婆になりましょう」
と言う感覚、なるほど、と思ってみていました。
日々穏やかであること、ありがたいことです。
「生ましめんかな」
とても強く、信念のある言葉だと思っていましたが、放送を見て、より思いを深めました。
終戦記念日、私にとっては祖父の兄の命日です(レイテ沖で戦死し、正確な命日がわかりませんので)。祖父の長兄がいまわの際で、なぜか私に毎年の供養を頼んでくれました。今の日本の平和を、感謝して手を合わせてきたいと思います。
私は高校の修学旅行で、長崎の原爆資料館を見ました。たいへんショックでしたね、やっぱり。でも、それとても、日々の暮らしの中には埋もれて行ってしまいがちです。もちろん、あれを見たからこそ、今もまだ「原爆は恐ろしい」ということを理解できるのだと思いますから、決してムダではありませんでしたけれど。
ひとつの戦争の始まりから終わりまでには、いろいろな「おもわく」や「事情」があります。それぞれの国の立場に立てば、考えも物言いも変わってきます。それも含めて「真実」を見ることが必要なのだと思います。今、迷いなく言える真実は「核爆弾」は全人類にとって決して「益」になるものではないということ。そして、内乱であろうが宗教戦争であろうが「人が人の命をどうこうしていいものではない」ということだと思います。
Suzuka様
広島の原爆でも、アメリカ兵がなくなっていますし、核実験で命を落とした人も、本当はいろいろいるのだと思います。人類が核というものの恐ろしさを知った以上、それが戦争であれ、平和利用であれ、それによる一人の犠牲者もだしてはならぬ、と、そこが一番大切なのだと思います。それさえわかれば、道はおのずと開けていくはずなのでしょうが。
MH様
生きている限り、忘れてはならないことがあるのですよね。私たちの今の生活は、焼け野原から立ち直ってくれた先人のおかげなのですから。
文章のミスはみーんなやってます。ご心配なく、ちゃんと意味は通じています。うちのブログは、いただいたコメントの修正はできないんですよー。
Tatehiko様
私も、長崎で展示をみてからは毎年終戦近くに放映されるそういう番組は、なるべく見るようにしています。ここ数年は、被爆直後の写真からその人を訪ねたり、アメリカ側の話も出たり、かつての「たいへんだったんだよ」ということだけでなく、いろいろ内容がかわってきています。「無関心」が増えつつあることも、もっと報道すべきと思います。忘れないために。
陽花様
本当に、私もそうでした。身震いする思いでした。すでに当時のことを語り伝えられるかたの年齢が高くなっていて、いずれはみんな「聞いた話」になってしまう。それならそれで、きちんと聞き、正確に残し、伝えるのは私たちから先の人間の仕事なのですよね。
いくつもの幸運が重なって生き延びたものの、被爆後の町の様子や悲惨な体調の話を聞くたびに、身を抉られるような気持ちになりました。
結婚後、長崎、広島、沖縄と 戦争の爪跡が大きく残る地に暮らし、幾度となくその現場を訪ね、土地のお年寄りの話もたくさん聞かせていただきました。
戦争を語れる方がだんだん亡くなられて、次第に私たちの記憶からも薄れていってしまうことが一番恐ろしいと思います。
本での勉強も大切ですが、是非現地を訪れる機会を得ていただきたいです。
その場所が見えた気がして、何とも言えない気分に
なった事を覚えています。
今の時代「隣は何をする人ぞ」と無関心ですが、
この惨状で命をかけて新しい命の誕生を手伝った方、
心配して見守った方、人って素晴らしいと思います。
こういう事実を語り継ぎ、戦争は絶対阻止しなければ
と思います。
私ははじめて意味を知りました。
昨日、京都の戦争展を見てきて、原爆の熱風で皮膚がただれてぶら下がった状態で水を求めてさ迷い歩いている被災者の復元像をみてきました。
毎年見るのですが心が詰まってしまいます。
子どものころ学校でみた映画だったのか写真だったのか思い出せないのですが・・・こういう姿が蘇ってくるのです。
自虐史観についての書き込みにも共感します。
戦後レジームとか言って、戦後に育った民主主義を敵視する風潮が、選挙で否定されても推進しようとする安倍自公政権の暴挙を国民の良識の言論で封じ込めたいと思います。
いやぁ~ん!!
「に」を消去して~!
活動はおろか、我が子に伝えることさえ怠っていた、
愚かな親だった私がおります。
本を与えるだけで、改めて話し合ったこともなく、
下の子が「ソノテの本」を一切読んでくれていないのに気付いたのは、最近になってからでして…
本当にお恥ずかしいかぎりです。
のんこ様のコメントを拝読して、ここ10年くらいの自分が何の努力もしていなかった事にも、に恥じ入るばかりです。
「賢い国民」になれるように、意識だけではなく具体的な努力も忘れずにいたいとおもいます。
副題は、「原爆兵士の黙示録」となっています。
ネバダ核実験場で、被爆したいわゆるアトミックソルジャーの記録です。
原爆投下国であるアメリカが、自国民である兵士になにをしたか、という答えでもあると思います。
何を以って、捏造と判断するか。
起きたことは、伝えなければなりません。
それは、弾劾するためではなく、卑下するためでもなく、同じあやまちを繰り返さないためです。
想像を絶する痛みを受け、尊厳をそこなわれた人たちがいる。
死者は、語りません。
私たちが、その存在をわすれたとき、わたしたちこそが、その罪に加担するのではないでしょうか。