関係ない写真です。
先日「すでに赤くなった柿」の写真を出しましたが、
そのすぐとなりにある柿、まだ「青柿」です。これはとんがった形、
あっちは丸かったですね。柿シブでもとりたいところですが…はははムリムリ。
さて、秋だから?でしょうか、先日の旅行もそうですけれど、
いろんなパンフがあれこれ送られてきます。
時期なのですね、七五三や来年の成人式のものがあります。
そのなかでふと眼に留まったのが「タレントの○○さんがデザインした振袖」。
この方の振袖を扱っている「結婚式場のHP」では、
「○○さんプロデュース」という言葉がつかってあります。
ん~~いつも思うのですが、この「だれだれさんプロデュース」
「だれだれさんデザイン」という言葉、とても曖昧だと思うんですよ。
プロデュースというのは本来は「製品の価格まで」含めての
「振り分け」のお仕事だと思いますし、
デザインといえば、その元絵、ということになります。
たぶん、売る(貸す)方は、んなこたぁどうでもいい、
要するにそれらしく横文字並べて、有名人がかかわってるよぉ~と、
そこを強調したいだけなのだと思いますが…。
松田聖子さんのように、ひとつ会社を立ち上げるくらいの力があれば、
自分はわからなくても、当然プロが教えるでしょうけれど…。
そういっちゃなんだけど、一若手タレント、みたいな女性が、
プロデュースだのデザインだのというと、作り手の陰謀としか思えません。
日本人はブランドに弱い、といいますが、
ブランドでもなんでもないことに気が付いてほしいものだと思います。
呉服屋さんのほうも、若い女性をひきつけたいのはわかりますが、
それでなくとも「振袖」は、唯一「着物未経験」の人でも、
「作ろうかな」のものです。だからこそ、大事な古典的なもの、
ほんとうにいいもの、を教えて勧めてほしいものだと思うのです。
このパンフの「○○さんデザイン」の着物も、
やたらと大きなバラがボンボン飛んでいて、色もただにぎやかなだけ。
むしろ七五三ムキだろ、と思うような色柄だと思いました。
売りたい気持ちはわかりますが、どこかに大切な「矜持」を
置いてきてしまっている気がします。
以前、呉服屋さんが「振袖」の仕入れのために問屋さんに行ったところ、
一角にこの「ハデハデ現代振袖」があったそうです。
その呉服屋さんは「古典的なもの」を売るタイプでしたので、
「なんであんな洋風だかなんだかわからないもの売るの」と言ったところ、
問屋さんが「今はああいうのが売れる」とか「ああいうのを好む人がいる」と
言ったのだそうです。それだけ聞くと「買うほうがそうだから」に聞こえます。
でも、最初にそういうのが出たから、それに目が行く人がでてきたんでしょ。
そしてそれに迎合して更に似たようなものを作ってきたんでしょ。
買うほうは買うほうで、着物の見方がわからないから、古典柄のよさも、
絹の品質も、染めのよしあしもわからずに「名前」で買うわけですよ。
こんな連鎖は、ずっと続くのでしょうね。
その呉服屋さんはこうも言ってました。
「最近は振袖を買いに来る親子でも、親が着物をわからないのと、
子供のいうことを聞くのがいい親だと思っているようで、
こちらとしては『こっちのほうが似合うのに』と思ってもダメだ」と。
「あたしこれがいいっ!」といわれると「そお…じゃそれにすれば」みたいな。
着物を着なくなってしまったことって、究極「色柄」もかえてしまうってことです。
あのジミハデも、結局はそうなんですよね。
あぁグチっておわっちゃいました。
今日はこれまでです。
先日「すでに赤くなった柿」の写真を出しましたが、
そのすぐとなりにある柿、まだ「青柿」です。これはとんがった形、
あっちは丸かったですね。柿シブでもとりたいところですが…はははムリムリ。
さて、秋だから?でしょうか、先日の旅行もそうですけれど、
いろんなパンフがあれこれ送られてきます。
時期なのですね、七五三や来年の成人式のものがあります。
そのなかでふと眼に留まったのが「タレントの○○さんがデザインした振袖」。
この方の振袖を扱っている「結婚式場のHP」では、
「○○さんプロデュース」という言葉がつかってあります。
ん~~いつも思うのですが、この「だれだれさんプロデュース」
「だれだれさんデザイン」という言葉、とても曖昧だと思うんですよ。
プロデュースというのは本来は「製品の価格まで」含めての
「振り分け」のお仕事だと思いますし、
デザインといえば、その元絵、ということになります。
たぶん、売る(貸す)方は、んなこたぁどうでもいい、
要するにそれらしく横文字並べて、有名人がかかわってるよぉ~と、
そこを強調したいだけなのだと思いますが…。
松田聖子さんのように、ひとつ会社を立ち上げるくらいの力があれば、
自分はわからなくても、当然プロが教えるでしょうけれど…。
そういっちゃなんだけど、一若手タレント、みたいな女性が、
プロデュースだのデザインだのというと、作り手の陰謀としか思えません。
日本人はブランドに弱い、といいますが、
ブランドでもなんでもないことに気が付いてほしいものだと思います。
呉服屋さんのほうも、若い女性をひきつけたいのはわかりますが、
それでなくとも「振袖」は、唯一「着物未経験」の人でも、
「作ろうかな」のものです。だからこそ、大事な古典的なもの、
ほんとうにいいもの、を教えて勧めてほしいものだと思うのです。
このパンフの「○○さんデザイン」の着物も、
やたらと大きなバラがボンボン飛んでいて、色もただにぎやかなだけ。
むしろ七五三ムキだろ、と思うような色柄だと思いました。
売りたい気持ちはわかりますが、どこかに大切な「矜持」を
置いてきてしまっている気がします。
以前、呉服屋さんが「振袖」の仕入れのために問屋さんに行ったところ、
一角にこの「ハデハデ現代振袖」があったそうです。
その呉服屋さんは「古典的なもの」を売るタイプでしたので、
「なんであんな洋風だかなんだかわからないもの売るの」と言ったところ、
問屋さんが「今はああいうのが売れる」とか「ああいうのを好む人がいる」と
言ったのだそうです。それだけ聞くと「買うほうがそうだから」に聞こえます。
でも、最初にそういうのが出たから、それに目が行く人がでてきたんでしょ。
そしてそれに迎合して更に似たようなものを作ってきたんでしょ。
買うほうは買うほうで、着物の見方がわからないから、古典柄のよさも、
絹の品質も、染めのよしあしもわからずに「名前」で買うわけですよ。
こんな連鎖は、ずっと続くのでしょうね。
その呉服屋さんはこうも言ってました。
「最近は振袖を買いに来る親子でも、親が着物をわからないのと、
子供のいうことを聞くのがいい親だと思っているようで、
こちらとしては『こっちのほうが似合うのに』と思ってもダメだ」と。
「あたしこれがいいっ!」といわれると「そお…じゃそれにすれば」みたいな。
着物を着なくなってしまったことって、究極「色柄」もかえてしまうってことです。
あのジミハデも、結局はそうなんですよね。
あぁグチっておわっちゃいました。
今日はこれまでです。
そうやって無理やり自分の好みの物が
伝統的本流だとしたくなる感覚こそが
着物を衰退させたと感じます。
着物は自由なもので昔からいろんな人が
デザインに関わってきていて一部の呉服店が
扱ってきたものだけが本流でもなければ
傍流でもありません。
豪商や殿様がデザインしたド派手な系統を
みると今のモダンな着物デザインはおとなしく見えるでしょ?
それらを傍流として扱う態度は
着物文化自体を侮蔑する行為です。
ただ好みを主張するのは自由ですが、
人は往々にして自身の好みを本道であり
正統であると勘違いしやすいものです。
イマドキの着物は昔と違ってこれこれこうなっている、
と絵入りで書いてある古文書を見つけました。
いつの時代にも時々大きな変化というのがあったのですね。
明治維新の次はこの前の大戦(応仁の乱ではありませんよ)がその巨大変化ですね。
ただ、大戦で環境が変わっても
人々が死滅したわけではないので
大戦を生き延びた人の寿命が来たところで
それが目に見える形に現れたと言うことでしょうか。
昔の記憶、伝統をつなぐ努力は大切ではありますが、
時代はどうしようもなく変わっていくものだと思います。
変化は悪いことばかりではないと思います。
今の時代にあった着物を探すのもまた必要と思います。
その努力無しには、単なる昔のの民族衣装になってしまいます。
着物がこれからも形を変えつつ生き延びていって欲しいので
自分の生活や自分のまわりの人の生活に
いかに取り入れやすいかという視点で
種々の変化を前向きに受け止めていきたいと思います。
とんぼさま御自身でも現在の生活の中でも気軽に着られる着物、
そんな視点で過去の知識の上に
着物の未来を切り開いて頂きたいと思います。
(以前のブログにはそんな記事がもっとあったように思います)
伝統的な色柄はすばらしい物ではありますが
必ずしも現代の都市の風景に合うとは言えない場合もあります。
○○プロデュースはその試行錯誤の一環ではないかと思います。
温故知新、古い良い物を未来につなげる努力も必要と思います。
是非頑張ってください。
ずっと長くいろいろ書いてきましたので、
時々に「思い」を書いておりますが、
今日の分だけをお読みになれば、
このようなご意見も無理はないかと思います。
でも私は、今のものを否定するつもりは
ないんですよ。
自分の好みのものを伝統的本流だと
決め付けるつもりもありませんし、
正統だとおごるつもりもありません。
呉服屋で昔ながらのところだけが
正しいとも思っていません。
私が、着物って自由なものだ、と言っていることは
以前からお越しのお客様は、たぶん、
ご理解くださっていると思います。
私が心配しているのは、戦争があって
無理やり着物の育っていく自然な流れが
断ち切られたことで、本来なら継続的に
変化して今にいたるはずのものが、
空白ともいえる時間があったために、
せっかくのいいものをわからなくさせている、
とまぁ、そんなところなのです。
「古典的」と、一口でいってしまいましたが、
それも今まであれこれ書いてきました流れ上の
ひとつの表現です。
私の思いは、たとえて言うなら、
今の「インクジェット友禅」なら、
これはインクジェットである、という表示を
するべきだし、買う側は、それを理解して
選別する眼をやしなってほしい、
ということなのです。
もちろん、それを選ぶな、ではなく、
納得して選別できる眼を持つ、ということです。
決して、今の振袖や着物は全部ダメ、と
いっているわけではありません。
誤解を招くような記事の書き方だったのでしょうね。
申し訳ありませんでした。
そういえば…じゃないんですが、
たまたま「きらきらヘアの振袖」をみたもので、
こんな文章になりました。
私は、着物は人が作っていくものだと思っています。
古典だのという言葉を安易に使うから、
こういう説明をしなければならなくなるんですね。
ご心配かけてすみません。
私はずっとブレてないつもりですよ。
成人式は洋服で行きました。
娘が成人式を迎える時に、私の姉の振袖を持ってきました。
しかし、家族の皆から反対され、結局義母に誂えてもらいました。
義母にしてみれば、娘がいないので着物を誂えてあげる、という楽しみもあるようです。
呉服屋さんの展示会に行きましたが、今どきのプリントのような品ばかり・・・。
選ぶ楽しみもありませんでした。
成人式当日は「叔母さんのおさがり」とか「従姉妹のおさがり」の方が、古典模様で素敵な着物でした。
娘にもそんな振袖を着せてやりたかったです。
私も昔からある古典柄が好きです。
お振袖のように高価なものは、大切に扱えば
流行りすたりが無い分、代々譲っていけます
からねぇ。
長い着物の歴史の中で様々な柄もあったと
思いますが、古典柄が今に残ると言うのはそれだけ人に愛され素晴らしいからだと思います。
他の方のコメントに着物文化自体を侮蔑する
行為と書かれていましたが、そんな風に決めつける事の方がおかしいのでは・・と思います。
気分を害されたらゴメンナサイ。
着物は「伝える・譲る」ということが
できるところが、大きな魅力ですね。
展示会は、大手が何社もモンダイになって
倒産しましたが、内情を知っている人に聞くと
「海外でプリントしたような安物を
原価の何十倍もの価格で売っていた」と
いうようなところもあるとのことでした。
「モノ」を見る眼がないと、
そんなところでもソンをしますね。
私も譲られた着物を大切にしていますが、
長く着ても、流行おくれといわれない、
着物っていいもんですね。
古典があるから、今がある…
だからこそ、ほんの数十年でも、
とぎれた部分があるのは、今の着物にとっても
着物を着たいと思われる方たちにも、
ほんとに不利だと思います。
いろんなものをきちんと見る眼を
養ってほしいものと思います。
ところ、、いまどき、これだけの品はなかなか...>と
言われました。
主人の母が仕立て直して下さった着物です。
勿論、私も気に入っていますので、大切に繋いで
いくための手入れでした。
呉服店でも、たくさんの嘆きを聞きました。
何代も続いたお店はきちんとした考えをお持ちで
めったやたらには勧めません。
そのやりとりを聞いていた娘は何かを感じたのでしょう、
<これからはあの方に相談すれば間違いないわね>と。
そうなんです。迷っている人はいっぱいいると
思います。 だから、頭をかしげながらも、
納得しなければ、着物が揃わない!のです。
私も虫干しを終え、つくづく考えてしまいました。
やはり、キチンと語り伝えておきたい!!と。
とんぼさん、それでよいのです。
これからも、貴女の着物に対する情熱と考え方を
書いてください。
そして、教えてください。
私はそれをうかがいながら、我が家でできることの
参考にさせていただきます。
ありがとうございます。
知る限りのことを、お互いに楽しみながら
お話しできたらいいなと思っています。
本当に、一般の町の呉服屋さんは、
それでなくとも着物離れが困るのに、
大手が展示会なんかやったおかげで、
たいへんな眼にあってます。
「経験」というのは、売るほうも買うほうも
必要なんですよね。
すばらしい留袖、どうぞ大切につなげて
伝えてくださいませ。