ほばーりんぐ・とと

ただの着物好きとんぼ、ウンチク・ズッコケ・着付けにコーデ、
あちこち飛んで勝手な思いを綴っています。

やっとなんとか…で年賀状のお話。

2022-01-28 21:57:16 | つれづれ

 

今回はめまいがすっきりするのに時間がかかり、いままだ頭の向きや視線の方向で

クラリクラリとまわります。しばらくじっとしていれば治るのですがまだ車には乗れません。

やっと今日、薬を入手したので、なんとかなりそうです。

めまいのせいでまっすぐ寝られず、リクライニングベッドをかなり起こした状態で寝ているため、

結果的に腰やら首やらに負担がかかり、毎日あちこちにシップはっているありさま…。

最近は友人たちとの話題と言えば「腰が…」「膝が…」になっている年ですが、

ほんとに「なにもしていないのになんで?…あ、ひょっとしてあれかな」みたいな、

たしいたことないことが「始まり」でさらに治りが遅い、これもまた年齢的経年劣化の表れなのでしょう。

ボチボチゆるゆるが、だんだん回数多くなり、期間が長くなる、それでも元気でいられれば、で

またがんばらねばと思っています。

 

さて、前置きが長くなりましたが「年賀状」のお話。

昨年末、喪中のお知らせが10枚以上届きました。年齢から言って親とか連れ合いとか兄弟とか、

そのための喪中が増えてくるのは当たり前なのですが、やっぱり切ないですねぇ。

更には昨年の賀状で「今年限りで…」と、年賀状をやめますという人もチラホラ出ていました。

私よりはるかに若い方からだと、よけいにさみしいものです。

また、いつもやり取りしていた方の御身内からの喪中はがきで「あぁ亡くなられたんだ」とわかるかたも。

こうして年々年賀状は減っていくのだなぁと実感しています。母もそう言ってました。

 

以前、2017年の記事ですが、やはり年賀状のことを書きました。

あの時よりさらにメール、スマホが当たり前になって、年賀状を書くのがめんどくさいとか、

いちいち高いはがき買うこともないからとか…年賀状離れはとまりそうにありません。

年賀状だけが年始の挨拶だったころは、面倒でも義理でもとにかく書かなくちゃでしたが、

今の時代は違いますから、ある意味しかたのないことだとは思っています。

正直なところ、私も毎年の年賀状の1割くらいは「とりあえずの義理」みたいな宛先があります。

毎年頂くし…ですし、たぶんあちらも同じかなと思うのですが、だからといって「やめるわ」もしづらい。

まあいずれは「高齢のため」なんて理由で書かなくなるのだろうなと思いつつ書いてます。

 

さて、実際に「書く」ということになると、これはもう好き嫌い、得手不得手…さまざまで、

書くのが苦手だからイヤの人もいます。

それもまた仕方のないことですし、企業や店舗のように出す枚数が多いところは仕方ないと思います。

ただ、個人でもたいがい裏も表も「総印刷」という会社の年賀状みたいな人も毎年何枚かあります。

いただけるだけでありがたいとは思っていますが、無理してるのかなぁとも感じたりしています。

私は毎年「あぁ間に合わないぃ~」とか言いながらも、けっこう書くことを楽しんでいますから、

11月ぐらいから写真をどうしようか、どんなデザインにしようかと悩むのも楽しみ。

相手のかたのイメージとか好みとか、お付き合いの状況とかで勝手にデザイン選んで出しています。

私のこだわりですが、賀詞などはソフトの中のものを使っても、必ず何か自筆で一文添えますし、

これだけはなぜか譲れないのが「宛名」、ヘタでもなんでも手書きにこだわっています。

そのために「あ、番地間違えた!」なんてこともあって、毎年「書き損じ」が数枚出ます。

修正液で何とかなる程度ならいいのですが、なぜか住所録の隣の人の住所に眼がいって、

とんでもなく違う数字をいれちゃったりすると、あきらめるわけです。ちっとも直りゃしない。

今年めまいのおかげで年賀状の整理が遅れています。そろそろやらねばなりませんが、

また1枚1枚見直しながらの整理も楽しみです。さすがに今は3年分と決まった方の者だけ残して

あとは順次処分していますが、情報として「今年〇人目のお孫さん」とか、そんなことを書き入れています。

実は年賀状ソフトには、そういう記録も残せる機能がついていますが、

宛名を手書きにすることと、メモを書き入れること、書けるうちは「アナログ」でいたいと思っています。

 

SNSでの知人が「30年前に登山であった人とずっとやりとりしている」というお話がありました。

年賀状だけのおつきあいで、一度だけその時のお仲間と一緒に会いに行き、昔話に花を咲かせたそうです。

私よりはずっと年下の方なので「30年続いている」とあったわけですが、

私も、そんなお付き合いの方がいます。

20代のころに友人と旅行した時、たまたま友人のかつての同僚が旅先に近いところで暮らしている、

ということで、わざわざ車で会いに来てくださって、案内してくださったり一緒に食事したり…。

それだけでしたが、友人の友人、と言うこともあって、住所を教えあいました。

翌年「あの時はお世話になりました」と、年賀状を出しましたらお返事いただいて、

それ以来、ただの一度も会っていないのですが、年賀状のやり取りだけは今も続いています。すでに40年以上です。

あちらは家業を継がれて「商家の店主」、やがてお互いに「結婚しました」「子供が生まれました」になり、

年月経って「父が…」とか「母が」という喪中のハガキが届いてお互い寒中見舞いの年もあり、

そのうち「すっかりおばぁさんです」とか「老骨に鞭打ってまだ現役です」とか…。

今年もちゃんと頂きました。

 

あの時の旅先でみんなで一緒に撮った写真は、それぞれ若くて目いっぱいのおしゃれしていて…。

何十年経っても年賀状頂いてふと思い出すのは、あのスナップ写真の彼です。

私はあのころ、友人は彼と結婚するのかな、と思っていたのですが、

あとで「まーったくその気ない」と友人に言われて「いい人なのに~」と、残念に思ったものでした。

その友人はいまだに独身です。そして旅から10年くらい経ったころに「年賀状やりとりしている」と言ったら

「うっそぉ、なんでアナタが?私なんかとっくに切れてる」と言われてえぇーっと。

ヒトの縁(えにし)というものはわからないものです。

 

年賀状というものについて「別になくしてもいいのに」とか「昔の習慣」とか、

そういう感覚を持たれる方も多いのでしょう。特にお若い方は「つきあい」というものの感覚も違うし、

便利道具ですませることができますから、一斉送信で「あけおめー」でいいじゃないかと、

そんな風にも思われるのでしょう。

やがて年をとったとき、やっぱり「あけおめ」でいいとおもうのでしょうか。

元々たとえメールでも、仲のいい友人でも「「あけおめ・ことよろ」と言うカンタン表記は、

そもそも年賀状のもつ「年の初めの厳粛さ」みたいなものが感じられません。

堅苦しいとかなんとか言っても、例えば初詣に行ったらちゃんと神様に手を合わせるでしょうし、

途中で目上の知り合いに会えば「あ、どーも」ではなく「あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします」でしょう。

「あけおめ」と書く方は、誕生日のお祝いメールは「誕おめ~」結婚なら「結おめ~」?

たとえ親しい友人であっても「言葉遊び」をするばあいかどうか、

その節度くらいはいつまでも持ってほしいと思うのです。

お正月も成人式も、みんな「イベント」になっているような現代。

松飾だのお供えだのも、だんだん減っていくのでしょう。

「正月の晴れ着」と言う言葉が死語になりつつある今、様変わりしていく「年のはじめ」に、

なんとなくさみしさを感じています。

あ…お年玉くじ、まだみてませんわ…。

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