送ったお花を写真に取れなかったので、
かわりに先日父がわけてくれたバラの花の写真です。
恩師S先生は、もう少しで米寿…のご高齢です。
高校で3年間ずっと担任でした。ずっとでっせ…。
卒業式の日、最後に職員室にご挨拶に行ったとき
「(グスッ)せんせ、ほんとに長い間お世話になりました」
「(グスッ)いやほんと丸々3年間だもんな」
「はい、よりにもよって3年間です」
「おぉ、なんたって腐れ縁だよ、こーなると」
「はい、お互いよくがんばったもんです」
「いや、ほんとおまえもよくがんばったよ」
眼を潤ませながらする話じゃないっての…。
私は12歳で実父がなくなってから、高校3年の秋に母が再婚するまで、
6年間父親がいませんでしたから、担任は私にとって
父親のような感覚もあったんです。
ほんとにプライベートなことでも、イロイロとお世話になりました。
いえ別に私、問題児だったわけじゃないんですよ。
まじめにセーラー服のおさげ髪で、ちゃんと通っておりましたし
卒業後も、結婚のことや子供のことなどお話させていただいてました。
つい数年前に、病気で少しおみ足がご不自由になられましたが、
電話の声はお元気で、そのすぐあと「近いからあいましょう」となったのですが、
前日に転ばれて腰を痛め、お目もじはかないませんでした。
そのケガが原因で、やはり寝たり起きたりになられ、
ここ数年は、まず奥様が電話をしてこられ、先生に代わります。
お話しすると、だいぶお年だわ…と感じます。今日もお電話いただいて、
「会いたいねぇ」といわれ、あぁ今のうちだ、と思ったのも確かです。
お元気でいらしてください、会いにいきますから、と言いました。行かなきゃ。
私には「恩師」というとパッと浮かぶ先生が2人います。
中学校、そして高校のこの先生。
中学校の先生は「国語のG先生」、女性です。担任ではありません。
担任のセンセー!ごめんなさーい!
G先生は、田舎の学校にあって、とてもモダンで、オシャレで、美人でした。
黒板にかかれる字もきれいで、授業も…オボエテナイ…アァ~~~。
では、なんで恩師かといいますと、私に「モノを書く楽しさ」を
教えてくださったから。元々私は「書く」のは大好きで、
夏休みの宿題作文などは、いったいどれを提出しようか…でしたが、
それでも、それまでは点数がつけられるだけで「優」のハンコをポンみたいな…。
でもG先生は「これ、目の付け所がおもしろいわ」とか、
「ここのところ、もう少し丁寧に説明するとわかりやすいわよ」とか、
文を書くときのコツみたいなものを、いろいろ教えてくださいました。
今わたしが、何の書類でも手紙でも、あまり億劫でなくかけるのは、
そういう基礎部分のことに眼を向けるよう、教えていただいたからだと思います。
卒業のとき、私は書き溜めた作文と、今思ったらおもいっきり恥ずかしい
「童話」をひとつ、全部まとめて穴あけて紐で綴じて…。
表紙はたぶん、デバートの包み紙かなんかじゃなかったかと思いますが、
それで「個人文集」として、先生に渡しました。
さぞかしご迷惑だったと思うのですが、先生は喜んで受け取ってくださいました。
先年、中学の同窓会のとき、欠席した私にメンバーが会場から電話をくれて、
そのとき、G先生も電話に出られ「私、わかる?」と…わかりますってぇ。
そしておどろいたことに、文集を覚えてくださっていました。
以来、時々お手紙のやりとりをしています。
考えて見ますと、このほかにも思い出す先生が何人も…。
そして授業よりも、それ以外のことでいろんなことを教わったと思います。
ハイ、勉強は嫌いでしたから…。
こういう思い出があるということは、とてもしあわせなことなんではないかと、
今の時代、思ってしまうのです。
いつからでしょうか、おかしな学校、モンスター・ペアレンツ…。
そんなことが言われるようになったのは…。
以前、住んでいたマンションの友人の話です。
彼女の娘さんが通っている小学校のあるクラスでのこと。
担任はまだ先生なりたて、みたいな若い女性の先生だったそうです。
その先生がある日「明日ローマ字のテストをします」と言った…すると
ある男の子、A君とします、このA君が「えーーオレなんもわかんないよー」と。
放課後になって、まだ教室でその話をしていたので、先生が
「A君、じゃたとえばこれは?」という感じで、例題を出したところ、
「わかんなーい」…で、たまたま残っていた生徒たちがワイワイガヤガヤで、
「これは?」「わかんない」「オレわかる」…というような状態になったそうです。
まぁ実際どうだったのかはわかりませんが、とにかくそれをそばで見ていた
「B子ちゃん」が、「先生がみんなの前でA君をいじめてる」と、
家に帰って泣きながら母親に訴えた…この母親が、自分の友人にこれを話した、
(その「友人」の子供は全く別のクラスです)
そこから騒ぎが大きくなって、その話を聞いた母親というのが中心になって、
5人くらいの母親がまとまって、学校に抗議したわけです。
それがどうもラチがあかなかったらしく「こんな学校に子供を通わせられない」と
5人は授業ボイコットして、子供を休ませました。
結局その後、校長がその担任を連れて謝罪に行ったところ、
親側は「信用できないので、担任と副担任を交代させよ」と。
それを学校側は承諾し、その先生は副担任になったのだというのです。
この話を聞いていて私「でもA君のお母さんの意見というより
まわりに押されたって感じだね」といったら、友人が言いました。
「やーねぇとんぼさん、A君もA君のおかあさんも、何にも言ってないわよ。
校長と担任が謝罪したのはB子ちゃんのとこ…」
「へっ???」
翌年、その若い女性の先生は、別の学校へ…。
やる気にみちていたでしょうに、行った先だって「理由」はわかってるし、
彼女はきっと「もう、何も言わない、やらない」と、思ったんじゃないかと。
「守るべきもの」が違う…「教えるべきこと、教わるべきこと」が違う。
なぜ最初にA君に話を聞かなかったのでしょう。
本人がその状況でいじめられていたと感じたのかどうか…。
いえ、これはあくまで聞いた話ですから、私の知らない部分もあると思いますが、
子供たちが学校をそれで休まされたのは事実です。私も子供たちを見ましたから。
ダレもいない公園で、一人でつまらなそうに遊んでいた、
「実はその『事件』には、何の関係もなかった子」、
どんな思いで、すぐそばの学校をみていたのでしょう。
大人になって人生を振り返ったときに
「あぁ会いたいな、お元気かな」と思うヒトがいる、
それだけでも、私はありがたいと、幸せだと、そう思います。
今の子供たちには、大人になってから会いたい大人はいるのでしょうか。
かわりに先日父がわけてくれたバラの花の写真です。
恩師S先生は、もう少しで米寿…のご高齢です。
高校で3年間ずっと担任でした。ずっとでっせ…。
卒業式の日、最後に職員室にご挨拶に行ったとき
「(グスッ)せんせ、ほんとに長い間お世話になりました」
「(グスッ)いやほんと丸々3年間だもんな」
「はい、よりにもよって3年間です」
「おぉ、なんたって腐れ縁だよ、こーなると」
「はい、お互いよくがんばったもんです」
「いや、ほんとおまえもよくがんばったよ」
眼を潤ませながらする話じゃないっての…。
私は12歳で実父がなくなってから、高校3年の秋に母が再婚するまで、
6年間父親がいませんでしたから、担任は私にとって
父親のような感覚もあったんです。
ほんとにプライベートなことでも、イロイロとお世話になりました。
いえ別に私、問題児だったわけじゃないんですよ。
まじめにセーラー服のおさげ髪で、ちゃんと通っておりましたし
卒業後も、結婚のことや子供のことなどお話させていただいてました。
つい数年前に、病気で少しおみ足がご不自由になられましたが、
電話の声はお元気で、そのすぐあと「近いからあいましょう」となったのですが、
前日に転ばれて腰を痛め、お目もじはかないませんでした。
そのケガが原因で、やはり寝たり起きたりになられ、
ここ数年は、まず奥様が電話をしてこられ、先生に代わります。
お話しすると、だいぶお年だわ…と感じます。今日もお電話いただいて、
「会いたいねぇ」といわれ、あぁ今のうちだ、と思ったのも確かです。
お元気でいらしてください、会いにいきますから、と言いました。行かなきゃ。
私には「恩師」というとパッと浮かぶ先生が2人います。
中学校、そして高校のこの先生。
中学校の先生は「国語のG先生」、女性です。担任ではありません。
担任のセンセー!ごめんなさーい!
G先生は、田舎の学校にあって、とてもモダンで、オシャレで、美人でした。
黒板にかかれる字もきれいで、授業も…オボエテナイ…アァ~~~。
では、なんで恩師かといいますと、私に「モノを書く楽しさ」を
教えてくださったから。元々私は「書く」のは大好きで、
夏休みの宿題作文などは、いったいどれを提出しようか…でしたが、
それでも、それまでは点数がつけられるだけで「優」のハンコをポンみたいな…。
でもG先生は「これ、目の付け所がおもしろいわ」とか、
「ここのところ、もう少し丁寧に説明するとわかりやすいわよ」とか、
文を書くときのコツみたいなものを、いろいろ教えてくださいました。
今わたしが、何の書類でも手紙でも、あまり億劫でなくかけるのは、
そういう基礎部分のことに眼を向けるよう、教えていただいたからだと思います。
卒業のとき、私は書き溜めた作文と、今思ったらおもいっきり恥ずかしい
「童話」をひとつ、全部まとめて穴あけて紐で綴じて…。
表紙はたぶん、デバートの包み紙かなんかじゃなかったかと思いますが、
それで「個人文集」として、先生に渡しました。
さぞかしご迷惑だったと思うのですが、先生は喜んで受け取ってくださいました。
先年、中学の同窓会のとき、欠席した私にメンバーが会場から電話をくれて、
そのとき、G先生も電話に出られ「私、わかる?」と…わかりますってぇ。
そしておどろいたことに、文集を覚えてくださっていました。
以来、時々お手紙のやりとりをしています。
考えて見ますと、このほかにも思い出す先生が何人も…。
そして授業よりも、それ以外のことでいろんなことを教わったと思います。
ハイ、勉強は嫌いでしたから…。
こういう思い出があるということは、とてもしあわせなことなんではないかと、
今の時代、思ってしまうのです。
いつからでしょうか、おかしな学校、モンスター・ペアレンツ…。
そんなことが言われるようになったのは…。
以前、住んでいたマンションの友人の話です。
彼女の娘さんが通っている小学校のあるクラスでのこと。
担任はまだ先生なりたて、みたいな若い女性の先生だったそうです。
その先生がある日「明日ローマ字のテストをします」と言った…すると
ある男の子、A君とします、このA君が「えーーオレなんもわかんないよー」と。
放課後になって、まだ教室でその話をしていたので、先生が
「A君、じゃたとえばこれは?」という感じで、例題を出したところ、
「わかんなーい」…で、たまたま残っていた生徒たちがワイワイガヤガヤで、
「これは?」「わかんない」「オレわかる」…というような状態になったそうです。
まぁ実際どうだったのかはわかりませんが、とにかくそれをそばで見ていた
「B子ちゃん」が、「先生がみんなの前でA君をいじめてる」と、
家に帰って泣きながら母親に訴えた…この母親が、自分の友人にこれを話した、
(その「友人」の子供は全く別のクラスです)
そこから騒ぎが大きくなって、その話を聞いた母親というのが中心になって、
5人くらいの母親がまとまって、学校に抗議したわけです。
それがどうもラチがあかなかったらしく「こんな学校に子供を通わせられない」と
5人は授業ボイコットして、子供を休ませました。
結局その後、校長がその担任を連れて謝罪に行ったところ、
親側は「信用できないので、担任と副担任を交代させよ」と。
それを学校側は承諾し、その先生は副担任になったのだというのです。
この話を聞いていて私「でもA君のお母さんの意見というより
まわりに押されたって感じだね」といったら、友人が言いました。
「やーねぇとんぼさん、A君もA君のおかあさんも、何にも言ってないわよ。
校長と担任が謝罪したのはB子ちゃんのとこ…」
「へっ???」
翌年、その若い女性の先生は、別の学校へ…。
やる気にみちていたでしょうに、行った先だって「理由」はわかってるし、
彼女はきっと「もう、何も言わない、やらない」と、思ったんじゃないかと。
「守るべきもの」が違う…「教えるべきこと、教わるべきこと」が違う。
なぜ最初にA君に話を聞かなかったのでしょう。
本人がその状況でいじめられていたと感じたのかどうか…。
いえ、これはあくまで聞いた話ですから、私の知らない部分もあると思いますが、
子供たちが学校をそれで休まされたのは事実です。私も子供たちを見ましたから。
ダレもいない公園で、一人でつまらなそうに遊んでいた、
「実はその『事件』には、何の関係もなかった子」、
どんな思いで、すぐそばの学校をみていたのでしょう。
大人になって人生を振り返ったときに
「あぁ会いたいな、お元気かな」と思うヒトがいる、
それだけでも、私はありがたいと、幸せだと、そう思います。
今の子供たちには、大人になってから会いたい大人はいるのでしょうか。
本当に幸せですね。
私は5人姉妹なので先生によくお姉ちゃんは
出来るのに・・・と言われてバカのレッテル
貼られたようで寂しいでしたよ。
でも音楽の先生が恥ずかしがりの人前が苦手な
私にレッスンをして舞台で独唱する機会を与えて下さって、頑張れば出来る事を教えてもらえ
ました。人とのご縁て不思議なものですね。
特に中三の時の担任だった先生には、子どもができてからお目にかかってお話ししたかったなぁ、と強く思います。
亡くなられたのはまだ50代後半でした。
まともに生徒一人一人と向き合う教育者は皆早く亡くなる傾向があるそうです。
大事な人ほど・・・・なんですよねぇ。
あれじゃ、「長生きされている先生に良い人は少ない」観たいに受け取れてしまいますよねぇ。
失礼いたしました。
間での兼ね合い、母の癌入院、治療などなど
振り返ってみればまあ、いろいろありました。
自分を見つめることに気がついたのは、
ひとり暮らしになってからだと思います。
もう、学生時代の友人とのお付き合いより、
子供を育てているときにできた友人との
付き合いのほうが子供が社会人になっても
続いています。
学校の先生も亡くなっていらっしゃる方が
私の歳では大半で高校の建物などは建て替えられ
面影すらありません。すべて偲ぶ世界になっています。
とんぼさんはお幸せですね。
<あいたいねえ~>って言ってくださる先生が
いらっしゃるのですから...。
息子たちがよく話している思い出は
はじめての集団生活を味わった幼稚園時代の
先生の話です。
親の私も一緒の思い出に繋がり、会話は弾みます。
それぞれの心のどこかにそっとしまっている
大切な思い出がある!!って信じたいですね。
私など好感を持った先生の記憶がありませんよ(大笑い)
長兄と二番目の兄が教員をしていて・・・一時、通学する中学校へ赴任してきたのです。
どうも・・・面白くありませんでしたね。
小さい村の中学校であったり、高等学校だったりしましたもので・・・叱られて、コンチクショウなんて、腹立てた思い出ばっかりですね(大笑い)
兄弟姉妹がいると、そうだってききますね。
担任が同じだったりするとね
なにかと比較されて言われるって。
一人っ子でよかった?です。
子供って、ちょっとしたことで
自信がもてたりするもんですよね。
陽花様の独唱、聞いてみたーい!
あのコロの先生って「熱血」なんて
アタリマエだった気がします。
本気で怒ったりしてくれましたね。
私ももう一人、会いたい先生がいたのですが、
なくなられてしまいました。
楽しい授業を思い出します。
「追記」のこと、わかっておりますって。
そうですね、私も今のお付き合いは、
自分が「大人」になってからの人が多いです。
たまーに、学生時代の友人と会ったときは、
それはそれで、一瞬であの頃に戻る…
という楽しみもありますね。
私は本当に、昔も今も「出会う人」に
恵まれていると思います。
すでに鬼籍に入られてしまった先生のことも
昔の年賀状などを見ると、
授業風景から思い出します。
ありがたいことです。
今の子供たち、若い方にも、
たくさんいい出会いをしてほしいものですね。
あぁ、昔は兄弟が多いと、そういうことも
あったわけですね。そりゃキツイ。
でもちょっと楽しそうです。