
我が家の職人「ジサマ」作の「ツタの鉢植え」…。
直径10センチくらいの小さな鉢なのですが、毎年きれいに葉をつけて、秋には真っ赤に紅葉します。
プロフェッショナルのスキルを…なんてぇシャレた言葉より「職人技」とか「職人芸だねぇ」と言うほうが、
なじみがいいのは、これまた年のせい?
先日、テレビをつけたらNHKアーカイブで、見損ねていたものをやってくれました。
「熊本城本丸屋敷」の復元です。2008年だったかの放送で、思えばそのころ母の病気の入り口でした。
きっと心の余裕もなかったのでしょう。「あっ見たいなー」と思っていて忘れたままでした。
既に本丸屋敷は公開されています。一度行ってみたいものと思っています。
「熊本城」は、いわずと知れた「加藤清正公」の城です。
本丸の屋敷を完全復元したわけですが、番組でやったのは「昭君の間」の障壁画とか、その貼り付けの様子。
またサイズが普通より大きい畳、釘隠しなどの細工物…。
「昭君の間」は「王昭君の物語」を絵巻のように描いたもの。
昭君は後漢の時代の実在の人物です。後宮のあまたの女性のなかの一人。
まぁ物語ですから、昭君は賢く優しいヒゲキのヒロインとして書かれていますが、
この「王昭君」は、実際にはいけにえみたいな状況で嫁いだ匈奴の王に気にいられ、大切に扱われました。
異国同然の地の暮らしにケンメイになじみ、子供も育てながら、自身も戦にならないように心配りをし、
よい奥方だと、慕われたそうです。
話が長くなりましたが、この昭君の物語を壁一面にはりつけた部屋。豪華絢爛です。
よく「平安神宮は新しい神社だから、いつも真っ赤でなんか威厳がない」…なんてことを聞きます。
そりゃ京都のほかの神社仏閣は、長い年月を経たものばかりで、みな「枯れた美しさ」です。
でもねぇ、それはたまたま年月が経って枯れちゃった、というだけのことで、
どの神社仏閣も、できたときはマッカッカだったりキンキラキンだったりするんですよね。
お城とて同じことで、昔、二条城で見た、あの少しくすんだ格天井の絵、
骨董で言えば「時代があって」くすんだ落ち着きのある美しさはありますが、
ひっくり返していえば、描かれたばかりのころの美しさはない、ということです。
その「できたて」の美しさが、熊本では見られるわけです。テレビの中でも格天井は圧巻でした。
座敷の柱や調度の黒漆のピカピカなつやや、欄間のまだ初々しい白木の透かし、
釘隠しや引き手の金具は、輝いています。
どこのお城も館も屋敷も、できたばかりは、同じようにきれいだったことでしょう。
この昭君の絵の出来上がっていく様子や、欄間の細工の製作など、もうひたすら「手作業」。
絵を貼る壁の下貼りも、確か八枚重ねだったか、手漉きの和紙をはけで糊をつけて二人で一枚ずつ貼ってゆく…。
そうそう、畳も入れたのですが、その畳が、ある場所だけ普通より大きいのです。
その大きいのを作るのに「最初からサイズの大きいものを作る」のではなく、
普通サイズに、飛び出す分だけ切った別の畳をくっつけて、糸で縫い綴じ合わせるのです。
久しぶりに「畳屋さん」のあの針さしてクイッとしごく姿を見ました。
できあがった畳は、ほんとにピッタリで、しかも「縁(ヘリ)」の柄が、全部きちんと合うんです。
欄間の細かい削り、それを組んで組んで花模様の欄間ができあがってゆく…。
とにかく何から何まで、全部「人の手による、気の遠くなるような作業」でした。
できあがったものを見ても、それがどう作られたかまでは、こんな番組でもなければ見られません。
たくさんの職人さんが、それぞれの持ち場で何年もかかって、全身全霊を尽くした「作品」、
それがひとつにまとまって出来上がったお屋敷です。
行きたいと思ってもいつのことかわかりませんが、ぜひこの眼で見たいと思っています。
さて、こ番組を見ていて「着物」のことを考えました。
例えば「絵」にも写真や印刷、という技術があり、壁もぱっと貼っただけで「木目」のように見えるものもあります。
欄間だって、機械で型抜きして接着剤でつけたようなものもあります。
コストや使い道、使いどころを考えれば、それで十分なものもありますが、
それは「ホンモノ」を使えないからであって、ホンモノのよさを、私たちは知っています。
友禅は36工程…でしたか、それぞれの専門職人さんの技によってできあがります。
かさや扇子も同じように、それぞれが分業の手作業で仕上げていきます。
「駕籠に乗る人担ぐ人、そのまたわらじを作る人」と言う言葉があります。
「ヒトにはそれぞれ境遇に差がある」とか「そういう様々な人々によって社会は成り立っている」
といった意味です。「差」の方はともかく、私はこの「それぞれの立場で」と言うところが、
とても大切なことだと思うのです。
畳屋さんは、一生懸命畳を作っても、自身が毎日新しい畳で暮らすわけではありません。
友禅や、紬など、ゼロがいくつ付くのかと思うようなすばらしいものを描いたり織ったりする人たちが、
毎日それを着ているわけではありません。
ひたすら、よいものを作るために、地道に努力なさっています。
今回のテレビの「職人さん」たちを拝見していても、人の手でミクロ単位までピタリとあわせるワザに
本当に驚嘆しました。皆さん、自分の仕事に、誇りと責任を持っておられます。
ああいう方々がいらっしゃるから、技術と言うものが伝承されていくんですよね。
今の日本は「職人」を大切にしない国です。
安いとなれば、すぐ外国に発注してしまう。同じように見えれば、どこの国製でもかまわない…。
同じ時間でたくさんできれば、機械の方に頼る…。
思えば、何でも機械化されたり、化学的に作られたりするものが氾濫するようになって、
そういうものでないものには、わざわざ「手作り」とか「手織り」とか、
或いは「天然素材」「天然染料」なんてタグが付いています。昔は全部手作り、天然だったんですよね。
もちろん、それを使い分けることは、暮らしていく上での知恵ですから、
目的に応じて、便利に使いわければいいのですけれど、
「それでもいい場合」と「ホンモノの方がいい場合」のライン引きが、だんだん下がってゆきます。
また作る側も、もう○○ができる人がいないのでねぇ…、と、手作りやホンモノがなくなってゆく…寂しいことです。
熊本城にお出かけになられることがあったら、ぜひお屋敷をご覧になってください。
たくさんの職人さんたちの「誇り」が、見られます。
目の付けどころ 勘どころが違うのですよねぇ
もともとの素地が 違うのでしょうけれど・・・
と 感心しながら 読ませて頂いています。
細かな手仕事は熟練だから出来る
目と勘、計らずともピタッときまる
職人技、されている所を見たかった
なぁと思います。
まぁお褒めに預かり恐縮です。
要するに好奇心が強いのだと思います。
なんでも知りたがる…でも深くは入らない…でへへです。
ほんとにオドロキでした。
無骨な手で、なんかチマチマやってるなぁと思うと、
ものすごい精密なものが、ポンと現れる…。
若い方に、引き継いでもらいたいものばかりでした。